ワールドカップは旅だ。たとえ「ホーム」であっても。
見知らぬ町、見知らぬ人びととの出会い。世界の頂点を目指すサッカーの試合だけでなく、1カ月間のすべてが、「ワールドカップ」という体験なのだ。
2002年の年末。ワールドカップの年を振り返るとき、「幸福な時間」として強く心に残るひとつに、6月15日深夜、日付が16日に切り替わってから乗車した1本の新幹線がある。
「できるだけ多くの試合を見たい」と欲張った取材計画。14日、1次リーグの最終日に大阪でチュニジア対日本を見た翌15日には、決勝トーナメント1回戦を新潟で、さらに翌日には大分で見ることにしていた。しかし大分に行くには、朝早く東京を発つ飛行機に乗る必要があった。
懸念を払拭させたのは、「深夜の新幹線を出す」という発表だった。朝までに東京に帰ってこられれば問題はない。
新潟ビッグスワンでの最後の試合となったデンマーク対イングランドは、イングランドの決定力が冴え、3−0の圧勝だった。すべての取材と原稿を終え、仲間の記者とふたりでスタジアムを出たころには、12時を回っていた。
新潟駅に到着すると、新幹線口には長い行列ができ、入場コントロールが行われていた。混乱なく全員に着席してもらうため、列車の定員ごとに入場させているという説明だった。
午前0時発を皮切りに、10分ごとに11本もの東京行きが予定されていた。座席指定はなく、全席自由席というシステムに、「深夜に東京まで座れなかったらつらいな」と思っていたので、この入場システムには感心した。多少並ばされても全員の座席があることがわかり、みんな安心しているようだった。
改札口を抜けると、そこには意外な光景があった。深夜の殺風景な構内に、たくさんの女性が並んでいたのだ。彼女たちは、ホームに上がっていく人たちに、小さなポリ袋を手渡していた。
「また、新潟にいらしてください」
にこやかな表情でそう声をかけてくれたひとりの夫人から、私もひとつ受け取った。
ホームに上がって列に並び、開けてみると、なかには、新潟県各地の観光パンフレットとともに、紙パック入りのお茶と、ビスケット状の携帯用エネルギー補給食品があった。
深夜の駅構内。もうキオスクも閉まっていた。臨時の新幹線内には売店も車内販売もない。お腹が減ったらつらいだろうという、細かな気配りだった。胸が熱くなった。
待つ間もなく、列車がはいってきた。座席確保の競争もなく、落ち着いて席に着く。列車が静かに動きだすと、私は仲間の記者とその日の試合の話をしながらお茶を飲み、ビスケットをかじった。
ざわついていた車内も、やがて静かになった。大半の人が眠りについていたのだ。
しかし私は眠れなかった。試合の興奮が残っていたためではない。話に熱中していたためでもない。新潟を去るときに受けた心のこもったもてなしへの感動で、眠ってしまうにはあまりに惜しい、幸せな気分だったのだ。
30分にいちどほど、ふたりひと組になった車掌さんが車内を行き来していた。検札ではない。熟睡する乗客が多いなかで犯罪が起きないようにという配慮だった。
騒音対策のためゆっくりと走行した新幹線は、午前4時前に東京駅に到着した。そこには、新潟からの新幹線到着に合わせて出発する山の手線の電車が待っていた。
これほどさりげなく、これほどきめ細かく気を配られた旅は経験がない。この数時間の「旅」は、私の「ワールドカップ2002」を、幸福感に満ちたものとしてくれた。
(2002年12月25日)
ひょっとすると、ノーベル賞の受賞より大変なことかもしれない。
きのうスペインのマドリードで開催されたFIFAワールド・プレーヤー表彰式で、「日本と韓国のサッカー・コミュニティー」がFIFAフェアプレー賞を受賞した。
FIFA(国際サッカー連盟)のフェアプレー賞は1988年に制定され、これまでに22の人や団体が、フェアプレーの優れた体現者として表彰されてきた。
この賞の特徴は、ポイント制で争われるのではなく、FIFA(なかでもブラッター会長)の主観で決められていることだ。それぞれの年にFIFAが「すばらしい」と感じたことを、いわば場当たり的に表彰してきたのだ。
個人では、自らハンドの反則を認めたドイツのプロ選手フランク・オルデネビッツ(元ジェフ市原)や、現役生活を通じてイエローカードのなかったガリー・リネカー(元名古屋グランパス)などが受賞している。団体では、特定のサッカー協会だけでなく、「ダンディー・ユナイテッドFC(スコットランド)のファン」、「トリニダード・トバゴの観客」など、とても特定できない人びとまで、ひとまとめにして表彰している。
今回表彰された日韓の「サッカー・コミュニティー」とは、もちろん、ワールドカップ時のもの。しかし両国のサッカー協会やワールドカップ組織委員会といった公的な組織だけでなく、一般の観客、ファンなど、ワールドカップを取り巻いたすべての人びとが対象になっている。
韓国は、国中を真っ赤に染めた応援ぶりのスペクタクルと楽しさ、そして平和さが強い印象を与えた。
そして日本は、出場チームを迎えた各キャンプ地の雰囲気、「フーリガン」と心配されたイングランドのサポーターたちまで仲間として取り込んでしまったファン、そして日本が負けた後も、イングランドやブラジルの応援で大会を盛り上げた観客などが、受賞理由に挙げられている。
忘れてならないのは、日韓ともに温かみのある雰囲気をつくったことだった。大会を総括して、ブラッター会長は「笑顔のワールドカップ」と表現した。世界を幸せな気分にしたという評価だった。
世界のいくつかの「サッカー先進国」では、サッカーの試合は攻撃性のシンボルであり、ファンは暴動を起こすもの、対戦するチーム同士のサポーターはけんかをするものと相場が決まっている。いわば「性悪説」を前提に、大会運営や警備が行われている。
ワールドカップ時の日韓両国は、それとは対照的だった。私自身は日本の警備陣の石頭ぶりが気になったこともあったが、全体としては、ファンや観客のマナーを信じ、警官たちでさえ、笑顔でソフトな対応をしていた。「性善説」による大会運営、そして、それでも何の問題も起こらない雰囲気をつくった日韓両国に、世界が大きな感銘を受けたのは当然だった。
Jリーグの発足以来、平和で楽しさにあふれたスタンドの雰囲気は、世界に誇るものと思ってきた。日本のサッカー自体は世界から学ばなければならないことが多いが、スタンドの雰囲気やファンの行動は、「サッカーの応援や観戦はこうあるべきだ」と、世界に対してメッセージを発するに値するものだ。
FIFAはワールドカップ時の日本を「ブルー・パラダイス(青い天国)」と表現した。私は、「天国」というより、「エデンの園」に近いものではないかと思う。永遠に続く平和ではなく、まだ「悪」を知らないだけだからだ。
今回の表彰は、日本の「サッカー・コミュニティー」に、その平和を守る努力を怠ってはならないと求めているように思えてならない。
(2002年12月18日)
ボールは、まるで吸い寄せられるように井原正巳のところに飛んできた。彼はそれを次つぎとクリアし、王者ジュビロ磐田の攻撃を止めた。
9月14日、磐田スタジアム。ブラジル人FWコンビを負傷で欠き、日本人選手だけで臨んだこの試合、浦和レッズは後半立ち上がりに2点を奪って優位に立った。そして、その後40数分間、ジュビロの猛攻をはね返し続けたのが、井原だった。
昨年はじめ、ジュビロからレッズに移籍した井原は、守備の組織を固めることができずに悩んだ。しかしことし、ハンス・オフト監督を得て、守備組織は飛躍的に改善された。その力を示したのが、Jリーグ最強の攻撃をストップしたこの試合だった。
井原正巳が初めて日本代表に選出されたのは1988年1月、日本代表監督に横山謙三が就任して最初の試合だった。まだ筑波大学2年生だった20歳の井原を、横山はリベロに抜擢したのである。
「10年間の日本のリベロを育てるんだ」
そうした横山の意欲は、誰の目にも明らかだった。井原を選出するに当たって、横山は、日本代表の守備の中心であり、主将であり、しかも30代を迎えたばかりで衰えなど見られなかった加藤久を外していたからだ。
横山の決断は正しかった。井原はその後10年間にわたって日本代表の守備を支え、主将として日本を初めてのワールドカップ出場に導いた。日本サッカーの歴史に新しい1ページを書き加えたのは、この控えめな男だった。
井原の前に日本代表の主将を務めていたのは、「闘将」のニックネームそのもののファイター柱谷哲二だった。96年にアームバンドを引き継いだ井原は、自らの「主将像」を結べずに苦しんだ。
97年秋、フランス・ワールドカップを目指す長く険しい予選。日本代表は、前半戦で1勝2分け1敗という思いがけない苦境に陥り、加茂周監督解任という非常事態に陥った。第5戦、アウェーでのウズベキスタン戦は、生き残りをかけた、ぎりぎりの試合だった。
そしてここで、井原は変わった。それまで反則の少ないクリーンな守備を誇ってきた井原が、キックオフ直後、いきなり相手に猛烈なタックルを見舞ったのだ。主審は迷わずイエローカードを出す。
しかし井原は平然とカードを受けると、振り返ってチームメートを見回した。
「きょうは、こうやって戦うんだ」。無言でそう伝えた。
苦しい試合だった。しかし日本は一歩も引かずに戦い、貴重な勝ち点1を得た。この試合が予選のターニング・ポイントだった。数多くのヒーローを生んだこの予選だったが、私は井原が見せたこの態度を忘れることができない。
20歳で日本代表となり、日産自動車、横浜マリノスで「勝者」の道を歩み続けた井原。しかし穏やかなその表情の裏には、常に何物かとの戦いがあった。それは、自分自身を乗り越える戦いだったに違いない。
ことし11月、ナビスコ杯決勝で鹿島アントラーズに敗れた後、井原は悔し涙を流した。この大会は、彼がまだ取っていない唯一のタイトルであり、同時に、レッズにとっては、初めてのタイトルとなるはずだったからだ。それを乗り越えることができなかった悔しさが、試合後の井原に涙を流させた。
日本サッカー史上空前の代表出場123試合。数々のタイトルとワールドカップ出場の栄誉。しかし本当に偉大なのは、彼が常に何かを乗り越えようと真摯に取り組んできた姿勢ではないか。
人生だから、成功も失敗も、勝利も敗北もある。しかし井原は、自分自身の姿勢を失ったことはない。
(2002年12月11日)
史上初の両ステージ優勝で、ジュビロ磐田が今季Jリーグの「完全制覇」を達成した。
年間の総勝ち点は、昨年と同じ71。全30試合で可能な総勝ち点90に対し、79パーセントという驚異的な達成率だ。年間勝ち点2位チームは、昨年が54、ことしも55という数字だったから、ジュビロがいかに他を圧倒した強さであるか、理解できるだろう。
こうした継続的に強いチームは、たまたま生まれるものではない。計画的に選手を獲得し、それを育て、そしてチームとして相互理解を深めることによって、初めてつくり上げることができる。
鈴木政一監督は、かつてこのクラブでスカウトを担当しており、現在のチームの多くは、そうした時代に獲得してきた選手たちだという。そこに、ジュビロの強さの大きな秘密がある。
鈴木監督が第一に欲したのは、頭がよく、技術のしっかりとした選手だっただろう。守りを固める相手を攻め崩せなければチャンピオンになることはできない。そのためには、しっかりとパスをつなげる選手が必要だからだ。
今季、ジュビロは数々のビューティフル・ゴールを見せたが、その多くは、中盤でボールを奪ったところから流れるようにパスをつないで決めたものだった。パスの質の高さだけでなく、ボールをもたない選手の動きの質の高さにおいて、ジュビロに匹敵するチームはなかった。
しかし、鈴木監督の「人選び」には、もうひとつの狙いがあったように思える。それは、「左利き」を重点的に採用したことだ。
今季第2ステージの大半で先発した選手を見ると、10人のフィールドプレーヤーのうち3人が左利きだった。DF山西尊裕、MF服部年宏、MF名波浩である。左利きが不足している日本のサッカーでは異例のことだ。
3−5−2システムのなかで、鈴木監督はMFの左アウトサイドには右利きの藤田俊哉を使うことが多かった。しかし藤田は左サイドをプレーの「起点」としただけで、自由自在に動いた。そして彼が動いた後のスペースを、攻撃的MFの名波、ボランチの服部、そしてストッパーの山西が、非常に有効に使った。
サッカーの選手は左右どちらの足でも同じようにボールを扱えるように訓練されている。右利きだけれど、左足のほうが強いシュートを打てる選手もいる。しかし試合中に使うのは、8割以上が利き足なのである。チームが右利きばかりだと、攻守両面においてバランスが悪くなるのはそのためだ。
さらに現代のサッカーでは、鋭く曲がる速いクロスボールが非常に重要な武器となっている。こうしたボールは、利き足でないとけることができないから、左利きがいるかいないかは、チームの攻撃力、得点力に大きな影響を与える。ジュビロは常時3人もの左利きをピッチに出し、彼らが次々と左サイドを駆け上がって好クロスを入れた。
さらに、控えにも、MF金沢浄、MFアレクサンダー・ジヴコヴィッチ(ユーゴスラビア)という左利きを置いていた。第2ステージで優勝を決めたVゴールは、藤田に代わって左サイドにはいった金沢の左足タックルから生まれたものだった。
他のJリーグ・クラブも、左サイドには左足のスペシャリストと呼ばれる選手を置いているが、多くは1人だけ。他の選手が左サイドに走り込むと、右足にもち替えてクロスを入れるケースが多い。
左利きが不足している日本サッカーのなかで、いちはやく左利きの戦術的な重要性に注目し、明確な狙いをもった選手獲得と時間をかけての育成で今日のチームをつくったジュビロ磐田と鈴木監督に、改めて敬意を表したい。
(2002年12月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。