「デポルティボ・アラベス」は、スペインのプロ・サッカー・クラブである。有名なレアル・マドリードやバルセロナなどにはなかなか歯が立たないが、ここ数年は1部リーグの座をキープし、昨シーズンには、無名選手ばかりで上位争いをかき回し、大きな話題にもなった。
スペイン北部、バスク地方の都市ビトーリア。アラバ州の州都でもあるこの町が、アラベスのホームタウンだ。人口20万あまり。その都心からすぐ南に、2万人を収容するホーム・スタジアム「メンディソロサ」がある。
1月4日土曜日、青と白のクラブカラーのマフラーを首に巻いた子供たちが、続々とやってきた。ことし最初のホームゲームは翌5日。この日は、試合はないはずだ。
子供たちは手に手に何かをもっている。スタジアムの入り口に数人の係員がいて、受け付けをしている。
子供たちがもってきたのは、使い古しのおもちゃだった。自分はもういらないけれど、まだ使えるおもちゃ。受け取った係員は、手にとって仔細に調べると、にっこりと笑って、「ありがとう」と言い、おもちゃをもってきた子供に小さな紙切れを渡す。ここ数年、ビトーリアでは、すっかりおなじみになった光景だ。
1956年を最後に1部リーグから転落し、2部、3部、さらにはアマチュア・リーグにまで落ちて不遇の時代を過ごしてきたアラベス。1995年、13年ぶりに2部リーグに復帰した記念として始められたのが、「小さなサンタ計画」だった。
クリスマスの時期、この町の子供たちはたくさんのプレゼントをもらうだろう。当然、古くなって使わなくなるおもちゃも出てくるに違いない。それを集めて、アフリカの子供たちにプレゼントしたらどうだろうと、ひとりの選手が考えたのが始まりだった。そのアイデアは、即座に実行に移された。
おもちゃを提供してくれた子供には、お礼として「特別ゲーム」の入場券がプレゼントされる。係員が渡していた小さな紙切れがそれだ。練習セッションのひとつを紅白戦にし、この入場券をもっている子供たちだけが招待されるという仕組みだ。
ことし集まったおもちゃは、カメルーンの子供たちにプレゼントされた。クラブは毎年船便でアフリカに送り出してきたが、ことしはスイス航空が無料で空輸を引き受けてくれた。昨年から世界各地の孤児を援助する「SOSチルドレン・ビレッジ」に協賛することになったこの航空会社のポリシーに、アラベスの「小さなサンタ計画」ほどふさわしい事業はないと判断されたからだ。
財政規模では、レアル・マドリードの20分の1にも満たないアラベス。しかしみんなから「マネ」と呼ばれているホセ・エスナル監督の好指導でチームワークは抜群。1部リーグで善戦してビトーリアの人びとを喜ばせている。
しかしそれだけではない。選手たちは、市内の学校や病院などを定期的に訪問し、子供たちと交流し、病気やけがで入院している人びとを勇気づける活動も盛んに行っているのだ。おもちゃを集めた2日前、1月2日にも、全選手が手分けして市内の病院を回ったばかりだった。
「小さなサンタ」となったビトーリアの子供たちは、カメルーンという国の話を聞かされ、そこの子供たちが自分のおもちゃで遊ぶ姿を想像したに違いない。そしてきっと、自分自身の小さな行いが、見知らぬ誰かを幸せにする喜びを知っただろう。
誰も無理をしていない。誰の肩にも力などはいっていない。ゆったりとしたバスクの生活のなかに豊かな心が広がり、それが次の世代へと受け継がれている。
(2003年1月29日)
ことし2003年は、日本サッカーの重大な転機の年として記憶されることになるかもしれない。中学生から高校生年代の「ユース」レベルで、本格的なリーグ戦の導入が始まるからだ。
日本サッカー協会は、ことしから高校生年代にあたる「U−18(18歳以下)」で全国を9地域に分けたリーグ戦を組織する。主催は各地域のサッカー協会。高校チーム、クラブチームを問わず、各地域の強豪チームが参加し、リーグ戦方式で優勝を争う。
さらに、全国35の都道府県単位でも、高校生年代のリーグ戦が始まる。「地域リーグ」が強豪同士の切磋琢磨で強化を図ろうという目的であるのに対し、こちらは、その下のレベルのチームの強化とともに、「できるだけ多くのプレーヤーが数多くの試合を経験できるようにしたい」という、まったく別の目的もある。
これまで、高校年代のサッカーの中心は、勝ち抜き方式の大会だった。この方式だと、勝ち進めば試合数は増えるが、1試合で大会が終わりというチームもたくさんある。「年間の公式戦が2試合(!)」というチームも珍しくなかった。リーグ戦にすれば、どのチームにも同じ数の試合が保証される。ひとりのプレーヤーが経験できる試合数は飛躍的に増加するはずだ。
さらに、都道府県単位のリーグでは、登録プレーヤー数が多いチームは複数のチームを出場させてもいいなど、フレキシブルな運営が行われる。これまで試合出場機会の少なかった1、2年生だけでチームを組んで出場することもできる。逆に、プレーヤー数が足りない学校チームが、同じような状況の他校チームと合同でリーグに参加することも可能だという。
ユース世代の「リーグ戦化」は、すでに数年前から、いくつかの地域や県で実施されている。それを制度化して一挙に日本全国に広げたのが、ことしの日本サッカー協会の「改革」だ。そして高校生年代に続いて、中学生年代でも実施されていく予定だ。この改革で、日本のサッカーのベースは、「勝ち抜き方式」から「リーグ戦」へと大きく転換を遂げることになる。
年間を通じてコンスタントに日程をこなす「リーグ戦」は、プレーヤーを育て、チームを成長させる最良の方法といってよい。
「スポーツ選手は、ゲームとトレーニングで成長していく。このふたつのバランスが必要なんです」と、リーグ戦の効用を的確に語ってくれたのは、元日本サッカー協会会長の長沼健さんだった。
「練習ばかりやっていて試合のない人、試合ばかりやっていて練習のない人、どちらも欠陥です。バランスが取れて、初めていい選手ができる」
試合のなかで、チームや個人の課題が明確になる。それを、次の試合に向けた練習のなかで克服していく。あるいはまた、次の相手を想定した練習で新しい戦い方を身につけ、それを実戦で試しながら積み重ねていく。勝っても負けても「次がある」リーグ戦だから可能なことだ。
ひとつひとつの結果に一喜一憂するのではなく、また、短期間に燃え上がり、燃え尽きるのではなく、努力と集中を持続させるメンタリティーも必要となる。ヨーロッパや南米の選手たちの「シン」の強さは、長年の「リーグ戦生活」で培われたものだ。
「ホームアンドアウェー」で実施されるリーグ戦では、各チームがホームゲームの運営を担当しなければならない。協会が準備してくれた会場に行って試合をすればよかったこれまでとは、180度違う。リーグ戦は、強化に役立ち、多くのプレーヤーに数多くの試合経験を提供するだけではない。運営や審判など、サッカーを取り巻く仕事に携わる人の育成にもつながっている。
(2003年1月22日)
アメリカ遠征中の日本女子代表チームが、世界チャンピオンのアメリカ代表と0−0の引き分けを演じた。国内では、第24回全日本女子サッカー選手権大会が始まった。1月26日の決勝戦まで、全国の9会場で熱戦が展開される。
「女子サッカー」というと、男子とは違うルールなのではないかと考えている人が、いまもいる。それはまったくの誤解だ。ピッチの広さもボールの規格も男子と同じ。プレーヤーが全員女性であるというだけで、ルールには何の違いもない。「女子サッカー」という競技があるわけではない。同じサッカーなのだ。
陸上競技など、古くから女性も参加してきた競技では、ことさらに「女子陸上」などという表現はしない。なぜ「女子サッカー」と、あたかも他競技のように区別されるのか。そこには、長い間、女性のプレーヤーやチームを差別し、仲間として認めてこなかった体質がある。
イングランドでサッカーが生まれたのが1863年。この新しいスポーツに女性が興味をもったのも当然だった。10年もすると、女性だけのチームがあちこちに登場した。これに対しイングランド・サッカー協会(FA)は1902年に禁止令を出した。「危険だから」という理由だった。
第一次世界大戦中、男たちが戦場に出かけ、工場労働が女性たちにゆだねられるとともに、再び女性のサッカー熱が高まった。戦争犠牲者の家族への援助のために行われた女性のサッカーの試合には、数万の観客が集まった。しかしそれでも、FAは禁止令を解かなかった。加盟クラブに、所有のグラウンドを女性のサッカーに貸してはならないという、陰湿な方法だった。
女性のサッカー熱はヨーロッパ大陸にも広がったが、各国協会の差別姿勢は、イングランドと変わらなかった。ドイツとオランダのサッカー協会がサッカーグラウンドやスタジアムの女性チームへの貸し出し禁止を宣言したのは、1955年のことだ。
「先進国」がこうした姿勢だったのだから、日本で「女性がプレーすべきではないスポーツ」という常識がまかり通ったのも当然だった。1960年代には神戸の女子高などでプレーされていたが、わずかな例外だった。
しかし長年の迫害にもかかわらず、女性たちはプレーすることをやめなかった。1957年には「国際女性サッカー協会」が組織され、初めての国際大会も開催された。
「女性のサッカーも、同じ仲間に入れよう」と最初に提案したのは、ヨーロッパ・サッカー連盟だった。1971年、「各国のサッカー協会が、女性のサッカーもその管轄下に置くことが望ましい」という勧告を出したのである。女性チームへの差別が撤廃され、サッカーの仲間にはいる時代がようやく訪れたのだ。
日本サッカー協会も79年から「女子」の登録受け付けを始め、初年度には、52チーム、919人が登録した。81年3月には第1回全日本女子選手権も開催され、東京のFCジンナンが優勝を飾っている。
競技人口は90年代なかばにかけてじわじわと伸び、1000チーム、2万人に達した。しかしその後は、緩い下降線をたどっている。日本協会が普及の努力を怠ってきたからだ。女性の登録プレーヤー数が男性の40分の1にすぎないという数字が、普及の遅れを明確に物語っている。
その背景のどこかに、まだ「女子サッカー」と呼び、「サッカー」とは区別する、古い体質の残滓(ざんし)がある。ジュニア、ユースからシニアまで、あらゆる年代で女性も男性も同じようにサッカーを楽しむことができるよう、日本サッカー全体の構造や意識を根本から見直すことから始める必要があると思う。
(2003年1月15日)
最初にその呼称を聞いたとき、思い起こしたのは、10年以上も前に見た1本のアメリカ映画だった。
1989年ピーター・ウィアー監督、ロビン・ウィリアムズ主演の『いまを生きる』。アメリカ東部の名門進学校に赴任してきた英語教師が、詩を教えることを通じて、既成の価値観を捨て、自分の心の声を聞いて自分自身の「いま」を大事に生きるように、生徒たちに働きかける。無反応だった生徒たちが、次第に生き生きと自分自身の夢や情熱を語り、行動するようになる。
最初の授業で、教師は19世紀のアメリカ詩人ウォルト・ホイットマンがリンカーン大統領に捧げた詩を紹介する。その冒頭が「おお、船長(キャプテン)、私の船長(キャプテン)」だった。アメリカを船に、そしてそのリーダーである大統領を船長(キャプテン)にたとえたものだ。
不幸な事件が起こり、責任を問われた教師は、何も言い訳をせずに学校を去る。そのときに、クラスで最も引っ込み思案だった生徒が、机の上に立ち、「おおキャプテン、マイ・キャプテン」と、教師に呼びかける。それは教師が第1日目の授業から伝えようとしてきた、生徒自身の心から出た言葉だった。
自らの呼び名を「キャプテン」と定めた日本サッカー協会の川淵三郎会長が、12月30日、高校選手権の開会式直後に岡山県代表の水島工業高校の選手たちのところに行き、「協会の不手際でいろいろと迷惑をかけて申し訳ない」と声をかけた。「ゴタゴタを忘れて、大会に集中して水島工の力を証明してほしい」と、選手たちを激励したという(『日刊スポーツ』紙より)。
岡山県予選の決勝戦で、相手の作陽高校のVゴールが誤審によって認められず、PK戦の末、水島工が出場権を獲得した。誤審でも結果を覆すことはできない。しかしその後の対応がまずく、作陽だけでなく水島工の選手たちをも傷つける結果となった。
彼らをなんとか勇気づけたいというのが、川淵会長の素直な気持ちだっただろう。しかしその思いをストレートに行動と言葉で表現することは、簡単にできるものではない。
映画『いまを生きる』の最後の場面で生徒が教師に「おお、キャプテン」と呼びかけたのは、その生徒が教師を真のリーダー、人生の師と認めたからだった。
現代の日本では、本当にリーダーと呼べる人物が少ない。リーダーになろうという人自体が少ないのだ。誰かに頼らずに決断し、その責任を一身に負わなければならないリーダーより、二番手、三番手につけているほうが、はるかに楽だからだ。「自分がリーダーになろう」という強い意欲をもち、そうした重荷を一手に引き受けようという人の存在は、それだけで貴重だ。
登録選手数を、わずか3年間のうちに現在の3倍近くにあたる200万人に伸ばすなどの大きな目標を掲げて、昨年7月に日本サッカー協会の長となった川淵会長は、まさにそうした人だ。そして、水島工の選手たちに対する働きかけは、たしかに、この人がリーダーとして欠くことのできない強さと優しさの持ち主であることを証明している。
日本代表の再スタート、ユース年代のサッカーのリーグ戦化、シニアや女子を中心としたさらなる普及活動の展開など、2003年の日本サッカーには、大きな課題が待ち構えている。強烈なリーダーシップが、これほど求められている時代はない。
「キャプテン」という呼称は、残念ながら十分に浸透しているとはいえない。しかしこの難しい2003年を大きな成果で終えたとき、日本中のサッカー選手やコーチ、ファンなどが、「おお、キャプテン、マイ・キャプテン」と、呼んでいるだろう。
(2003年1月8日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。