サッカーの話をしよう

No.454 仙台スタジアムは美しい

 仙台に行ってきた。
 Jリーグ第1節のベガルタ仙台対大分トリニータ。試合のほうは一級品とはいえなかったが、春の日差しにあふれ、楽しい日曜日だった。
 仙台駅から15分、市営地下鉄南北線が地上に出てしばらく走ると、右手の車窓いっぱいに立派なスタジアムが広がる。間もなく到着する終点の泉中央駅の駅前広場に出て右を向くと、正面にスタジアムの入り口が見える。歩いてわずか5分。これが、いまJリーグで最も「美しい」仙台スタジアムだ。
 キックオフまでまだ2時間もあるのに、入場門には長蛇の列ができていた。圧倒的に家族連れが多い。そして一歩スタンドにはいると、そこは黄金(こがね)色に染まっていた。北側のゴール裏からバックスタンドにかけての自由席が、すでにベガルタのユニホームを着たサポーターで埋め尽くされているのだ。

 ベガルタ仙台は、東北電力サッカー部を前身とし、94年に運営法人を設立してプロになった新しいクラブだ。当初は「ブランメル仙台」と名乗っていたが、99年、新しく設立されたJリーグ2部(J2)参加に当たって「ベガルタ」と改称、その年の7月に就任した清水秀彦監督の指導で着実に力をつけ、昨年からJ1で戦っている。
 人気沸騰は2001年、J1への昇格レースで激しく競り合ったころだった。チームのがんばりが市民の共感を呼び、応援熱に火がついた。その一方で、仙台スタジアムの快適さ、「また行きたい」とファンをひき付ける力も、忘れることはできない。
 1997年完成、全観客席が屋根で覆われたサッカー専用スタジアム。収容人員は2万とやや「小ぶり」だが、サッカーの見やすさという点では図抜けている。観客席からピッチまでの距離が近く、プレーヤーとの一体感が感じられるスタジアムだ。

 しかし仙台スタジアムが「美しい」のは、第一級の施設のおかげだけではない。そこを埋める人びとの熱さと心の温かさが、ベガルタの試合をこのうえなく「美しい時間」にしているのだ。
 Jリーグ開幕日とあって、試合前には楽しいアトラクションがあった。しかしスタンドを最も沸かせたのは、ピッチ上での藤井黎・仙台市長のあいさつだった。
 J1で2シーズン目の開幕を迎えるベガルタに「日本一のサポーターとともに声援を送りたい」と語った後、藤井市長は北側ゴール裏に陣取った100人余りの大分サポーターに向かって話し始めた。
 「大分からいらしたトリニータの選手、そしてサポーターの皆さん、J1昇格おめでとうございます」
 スタンド全体から、盛大な拍手が沸き起こる。
 「しかし、きょうは」と、市長は続ける。
 「ベガルタが相手です。勝つのは、難しいでしょう」

 スタンドは笑顔と大歓声に包まれる。それが収まったころ、大分のサポーターたちも立ち上がって「市長! 市長!」というコールを送る。
 なんと温かく、美しい光景だろう!
 試合が始まると、ベガルタのサポーターたちは、絶え間なく歌い、ときにはレフェリーの判定に口笛を吹いた。しかし90分間にわたって、そこには、荒廃した攻撃性などかけらもなかった。懸命に戦うチームと一体化したいという「愛情」だけがあった。
 試合後、地元記者からスタジアムの雰囲気について質問が出ると、大分の小林監督は考える間もなくこう話した。
 「さすがに強烈だった。しかしアウェーにとっても、やっていて幸せだと思った」
 日陰の記者席は寒さがこたえたが、試合結果に関係なく、仙台スタジアムの一日は最後まで美しかった。
 
(2003年3月26日)

No.453 楽しみなJリーグ開幕

 いよいよ11シーズン目のJリーグ1部(J1)が開幕する。ことしは2月にA3マツダチャンピオンズカップ、3月にはナビスコ杯の予選リーグが行われ、チームはとっくに実戦に突入しているのだが、やはり「リーグ開幕」は格別だ。
 川淵三郎前チェアマンの強力なリーダーシップでプロとして自立への道を歩んできた最初の10年。新しい10年は、鈴木昌チェアマンの下でのスタートだ。Jリーグ自体にも、「延長戦の廃止」という変化がある。
 Jリーグは、スタートの93年から延長戦を行ってきた。勝負がつくまで戦ってファンに納得してもらおうというサービス精神だった。しかし昨年のワールドカップで引き分けの意味も認識されるようになったことで、ことしから90分間が終了して同点の場合には延長戦を行わず、「引き分け」となった。

 どんなスコアでも90間で終了してしまうのだから、終盤10分間のプレーが激しさを増すのは必至だ。上位チームを相手に、引き分けを狙うチームもあるかもしれない。両チームがどんな意図をもって終盤のプレーをしているのかを考えながら観戦すれば、サッカーの奥深さも見えてくる。
 しかし新シーズンを迎えるにあたって最もわくわくさせるのは、やはり各クラブの「変化」だ。
 大分トリニータは初めてJ1昇格だ。4年間在籍したJ2で2回も3位となり、わずかなところで涙をのんできた。ようやく昨年、優勝を飾って昇格を果たした。
 ビッグスターはいない。しかしキャプテンでボランチを務める浮氣哲郎を中心にチームワークは抜群。浮氣と同じように数チームを転々としながらJ2で確固たる地位を築いた攻撃的MF寺川能人を新潟から補強し、チームプレーをレベルアップさせた。

 日本代表を98年ワールドカップ出場に導いた岡田武史監督を迎えた横浜F・マリノスの変化も楽しみだ。
 昨年は年間成績で2位だったが、優勝したジュビロ磐田には遠く及ばなかった。昨年の悩みだった得点力不足の解消を狙って、広島からFW久保竜彦、そして東京ヴェルディでプレーしていたFWマルキーニョスの2人を獲得、持ち前の堅固な守備と合わせて優勝を狙う戦力は整った。
 Jリーグ時代になってから地盤沈下ぎみだった関西地区では、セレッソ大阪がJ2から復帰し、4クラブがそろった。京都サンガが昨年度の天皇杯で初優勝、ことしはJリーグのタイトル獲得への一番乗り争いが展開される。
 そのなかで私が最も期待しているのがガンバ大阪だ。昨年、ジュビロ磐田に次ぐ年間総得点59を記録した高い攻撃力が、さらに強化されたからだ。右アウトサイドMFチキアルセの獲得だ。

 パラグアイ代表として昨年のワールドカップでも1得点を記録し、ブラジルのクラブで「南米最高の右サイドバック」と絶賛されたベテラン。左アウトサイドの新井場徹の突破とクロスが主体だったG大阪の攻撃が、左右バランスの取れたものとなり、長身FWマグロンと、日本でもトップクラスのシュート力を誇るFW吉原宏太がフルに生かされるだろう。
 「変化」は、どのクラブにもある。指揮官が代わり、選手が代わるから、新しい可能性が生まれ、活気あふれるサッカーが展開される。それこそがサッカーの生命力であり、「シーズン開幕」の魅力だ。
 「新しいシーズンは、新しい恋の始まりだ」と語った人がいる。いまは魅力しか見えない相手も、やがて欠点だらけになるかもしれない。しかし、知れば知るほど魅力あふれた相手になる可能性も十分ある。心をときめかせて、スタジアムに向かおう。
 
(2003年3月19日)

No.452 大分の小林監督を支持する

 きのうの本紙「イブニングスポーツ」で藤島大さんも取り上げたが、Jリーグ・ナビスコ杯、京都対大分での出来事が話題になっている。
 負傷者の手当てのために相手に出してもらったボールのスローインから、大分のロドリゴが得点してしまった。 当然、京都の選手たちは激怒する。しかし手当てのために出したボールを相手に返すのは慣習にすぎない。ルール違反ではないから、レフェリーは得点を認めるしかない。
 これに対して、大分の小林伸二監督は「プレーをやめろ」と指示、棒立ちの大分選手たちの間をぬって、京都がゆっくりとシュートを決めた。
 勝利を目指して全力でプレーするのがフェプレーの基本であるはずなのに、相手にゴールをプレゼントするなど言語道断という非難がある。そしてこの日が「デビュー戦」だった新サッカーくじ「トトゴール」への影響を問題視する見方もある。
 最初に断っておきたいのは、「トトゴール」と関連づけるのは当たらないということだ。まずJリーグの試合があり、トトはその結果を使っているにすぎないからだ。
 もし問題があるとすれば、それはトトの側にある。あるいは、日本のサッカー環境が、「トトゴール」のようなくじに適するほど成熟していないということだろう。
 今回の出来事で重要なのは、「これが原則ではない」という点だ。
 4年前に、イングランドで大分とまったく同じような得点があった。それが決勝点となって2−1の勝利をつかんだアーセナルのベンゲル監督は、試合終了後、「再試合」を提案した。「あのゴールはスポーツ的な観点で正しくなかった」と、彼は理由を語った。
 小林監督は、試合終了を待たず、ただちに過ちを取り戻す方向に動いた。相手に1点を与えて、再び同点にすることだった。
 ともに1−1の場面の出来事だった。仮に4−0の一方的な状況だったら、再試合の提案も「プレゼント・ゴール」もなく、得点にからんだ選手を交代させ、試合後に相手チームに謝罪する程度で終わっていただろう。
 アーセナルの場合、残り時間は15分足らずだった。しかし京都−大分戦はまだ30分近くあった。不名誉な得点を即座に修正することで、残りの時間を互いに力いっぱい戦うことができるという判断が、小林監督にはあっただろう。
 会場は京都の西京極競技場。もし大分があのまま試合を続行させていたらどうなっただろう。無事試合を終えることができても、非難が集中し、J1に昇格したばかりの大分は大きな痛手を被っただろう。いや何よりも、地元大分で応援してくれているたくさんの人びとを傷つける結果にもつながったに違いない。
 「プレゼント・ゴール」などあっていいはずがない。しかしその「原則」を破ってでも守りたいものが、小林監督にはあったはずだ。それは、自分自身がサッカーに取り組む姿勢であり、同時に、この状況下では自分以外に守る者のいない、クラブとホームタウンと、そしてサッカー自体の名誉だった。
 今回の出来事は、今後同じようなことが起こったときに「プレゼント・ゴール」をするのが適切という話ではない。大事なのは、明確な「サッカー哲学」をもつこと、そしてそれに従った判断と行動をできるようにすることだ。
 この事件が起こった時点で、大分は退場で1人少ない状況だった。「勝ち越しゴール」は、その苦しい状況で「虎の子」だったはずだ。しかし小林監督は即座に自らの哲学に基づいた行動を起こした。
 このような指導者が日本にいることを、私は誇りに思う。私は、小林監督の判断と行動を支持する。


(2003年3月12日)

No.451 気持ちが悪いアメリカ遠征

 どうも居心地が悪い。こんな思いをしているのは、私だけだろうか。
 日本代表チームのアメリカ遠征のことである。対イラク武力行使の開始が近いと報道され、それにともなってアメリカ国内でのテロの危険性も高まったため、日本サッカー協会は3月26日と29日に予定されていたアメリカでの国際試合の中止を決めた。
 しかしその決定からわずか5日後の2月22日、アメリカ協会の強硬な要請を入れ、日本協会は遠征を当初の予定どおり行うことを発表した。渡米して交渉に当たっていた平田竹男GS(専務理事)から川淵三郎キャプテン(会長)への電話には、「アメリカの国としての威信」「FBIやCIAの安全保証」などの言葉があったという。

 日本とアメリカのサッカー協会だけの交渉なら、すなわち純粋にスポーツの話なら、こんなことにはならなかっただろう。アメリカ協会も、「仕方がない」と、理解を示しただろう。それがねじ曲がってしまったのは、アメリカ協会に何らかの外部圧力が加わったからに違いない。
 とっさに思い浮かべたのが、第二次世界大戦直前、イングランド代表のドイツ遠征での「ナチ式敬礼事件」だった。
 当時国際サッカー連盟から脱退していたイングランドは、ワールドカップに出場することはできず、国際試合は親善試合に限られていた。しかし自他ともに「世界最強」と認めるイングランドとの対戦を望むチームは多く、困ることはなかった。そうしたなかで、ドイツとの2試合が取り決められた。最初の試合は1938年5月14日にベルリンで、そしてそのリターンマッチが、翌年にロンドンで行われることになったのだ。

 試合の2カ月前の3月11日にヒトラー総統率いるナチス・ドイツはオーストリアを併合し、さらなる膨張の機会をうかがっていた。ヨーロッパが一触即発の危機にある、誰もが認識していた。しかし試合の契約はすでにかわされ、キャンセルすることは不可能だった。
 5月11日にロンドンを出発したイングランド代表は、オランダまで船で渡り、そこから汽車に12時間揺られて12日の夕刻にベルリンに到着した。「世界最強」の実力を誇る選手たちは、余裕たっぷりだった。
 しかし試合当日の朝、キャプテンのエディー・ハプグッドは協会の首脳の部屋に呼び出され、思いがけないことを伝えられた。
 「国歌吹奏のときには、右手を挙げたナチ式敬礼をするように」
 「とんでもない」。ハプグッドは即座に拒否した。「私たちは国歌には直立して敬意を表する。それが私たちのやり方であることを、ドイツ人たちだって理解するはずだ」

 しかし協会首脳の言葉の背景には、英国外務省と駐独大使ネビル・ヘンダーソン卿の強い要望があった。協会首脳も抵抗した。しかしここでイングランド代表がドイツ人観衆の怒りを買うと、それがヒトラーに戦争開始の口実を与えてしまう恐れがある----。そう説得されたのだ。
 午後5時、11万の観客で埋められたベルリンのオリンピック・スタジアムに両チームが入場。国歌吹奏が始まると、白いユニホームのイングランド選手たちも、ドイツ選手たちと同じように右手を挙げた。その先には、満足げな表情のヒトラーがいた。
 試合は、イングランドが実力を示し、6−3で快勝した。しかしこの試合は、後に「最も恥ずべき敬礼の試合」と語られるようになる。
 アメリカはけっしてナチスではないしブッシュ大統領もヒトラーではない。ただ、スポーツの立場からの考えが外部からの圧力で覆されるのは、とても気持ちが悪いのだ。

(2003年3月5日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

アーカイブ

1993年の記事

→4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1994年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1995年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1996年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1997年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1998年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1999年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2000年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2001年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2002年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2003年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2004年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →9月 →10月 →11月 →12月

2005年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2006年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2007年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2008年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2009年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2010年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2011年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2012年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2013年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2014年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2015年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2016年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2017年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2018年の記事

→1月 →2月 →3月