選手登録しているクラブで、32年間も付けてきた背番号を譲り渡すことになった。このクラブの活動は日曜日だけなのに、この10数年間というもの、日曜日の大半は女子チームの監督業にあてていたのだから仕方がない。
しかも、背番号を譲り渡した相手がチームメートの長男である。赤ん坊のときから知っているうえに、小学生のころには何度もいっしょにプレーした。はにかみ屋の小さな少年が、いつの間にか大人になり、父親と同じクラブに加わるに当たって「大住さんの背番号がほしい」と言う。こんな話は断れない。
もっとも、プレーにあこがれてのことかと思ったのは私だけで、彼の好きな番号が、たまたま私が付けていたものだったようだ。
私が所属している男子チームの練習(といっても、つい最近まで、ひたすらミニゲームをするだけだったが...)には、よく「ジュニア」が混ざっている。本人さえいやがらなければ、小学校に上がったころからゲームに入れてしまう。最初は何もできないが、2、3年してある日気づくと、正確にパスを出したり、相手の逆をとってすいすいと抜いていったりする。
30年ほど前、大学生時代にコーチをしていたサッカースクールは、「生徒」の総勢が30数人の小所帯で、コーチは私を含めてふたりきりだった。小学校1年生から中学生までを2チームに分けて指導を担当した。そして週いちどの練習の後半は、コーチも含め全員を2組に分けてゲームをするのが常だった。
中学生たち(なかには後に日本リーグで活躍した選手もいた)は不満だったかもしれない。しかし小さな子にやさしいパスを出しながら、時おり強烈なシュートを見せて、小学生たちが上げる驚きの声と尊敬のまなざしに、けっこう満足そうな顔をしていた。
小学校低学年の子供たちは、適当に試合にはいり、飽きると砂場で遊び、また戻ってきてはボールを追いかけた。しかし中学年になると、もう負けてはいない。相手が中学生でも、ボールを取ろうと、必死に食らいついていった。
「スクール」とはいっても、ほとんど遊びだった。小所帯だったから、年齢差が大きくても全員で試合をするしかなかった。ふたりの大学生コーチに、確固たる理論や信念があってのことではなかった。ただ、日曜朝の時間を、みんなで楽しく元気に過ごしたかっただけだ。
しかしその遊びを数年続けていると、子供たちはいつの間にか自分自身のテクニックを身につけ、他人から強制されるわけではなく自主的にゲームに加わって、個性を生かしたプレーをするようになっていった。
小さな子たちは、自然に、ゆっくりと、「サッカー」というものを頭と体にしみ込ませた。大きな子たちにとっても、小さなチームメートに合わせるパスで微妙なタッチを身に付けるなど、プラスの面がたくさんあったのだろう。ずいぶん後になってから、そんなことを考えた。
幼児期からの英才教育もいい。小学生を対象にした質の高い練習メニューも大切だ。しかしサッカーに取り組む圧倒的多数の少年たちに必要なのは、何よりも、年齢も体の大きさも、人数も場所の広さも関係なく、ひたすらゴールを目指してプレーする「遊び」の場と時間ではないか。
スクールのゲームはいつも1チームが15人以上だった。私のクラブのミニゲームは、狭い場所で、ときには30人あまりが入り乱れて1個のボールに戯れ、そこに大人の腰ぐらいの背丈の小学生が混じっていたりする。
そうした「遊び」のなかで育まれるものの価値を、もっと見直す必要があるのではないだろうか。
(2003年4月30日)
サッカーはチームゲームである。個々の選手の最高のプレーをつなげるだけでは良い試合はできない。11人の選手が一体となり、チームとして機能しない限り、良い結果にはつながらない。
しかしごくまれに、1人のプレーが試合の流れを一変させてチームを勝利に導くのを見ることがある。先週の水曜日にソウルで行われた韓国戦、日本代表のMF小笠原満男のプレーがそうだった。
立ち上がり、韓国のプレッシャーを恐れた日本は、DFラインから大きくけるだけだった。しかし9分、右サイドでボールを受けた小笠原は、いったんはスピードを上げて前に行こうとしたが、急激にターンし、DF秋田にゆったりとしたパスを返した。これを受けた秋田は前へはけらず、DF間で正確につないで組み立てを始めた。
小笠原のプレーは、前へ前へと急いでいた日本に、「このへんからしっかりつないで攻めよう」というメッセージとなった。試合はここから流れが変わり、日本の中盤が韓国と互角以上に渡り合うようになった。
このほかの場面でも、小笠原は攻撃だけでなく、随所でチーム全体をリードし、試合の流れを日本に引き寄せるプレーを見せた。見事な「ゲームメーカー」ぶりだった。
ソウル・ワールドカップ・スタジアムで小笠原を見ながら思い起こしたのは、ラモス瑠偉が引退する前年のある試合で見せたプレーだった。
97年9月24日。それは、98年ワールドカップを目指すアジア最終予選の真っ最中のJリーグ、東京・国立競技場で行われた横浜フリューゲルス対ヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ)だった。
日本代表に出ているカズ(三浦知良)を欠くヴェルディ。フリューゲルスのブラジル人監督オタシリオは、「ラモスさえマークすれば勝てる」と判断し、右サイドバックの森山佳郎を本来の位置から外してヴェルディのMFラモスを徹底マークさせた。フリューゲルスが攻撃しているときにも森山はラモスの側を離れなかった。
ラモスのパスワークを消されて、ヴェルディは攻撃の形ができない。フリューゲルスが圧倒的に攻め、次々とビッグチャンスをつくる。
あまりに執拗なマークに嫌気がさしたのか、やがてラモスはDFラインまで下がってボールを受け、そのままラインにとどまった。そして自陣から出ることもまれになった。これを見たオタシリオ監督は、前半30分過ぎにベンチを出てラモスのマーク役を森山からFW服部浩紀に変えるように指示する。
しかしラモスはそのときを待っていた。こんどは、前へ前へと動き、ヴェルディのFWのすぐ近くでプレーし始めたのだ。マークを命じられた服部は自チームのDFライン近くまで下がらざるをえず、フリューゲルスの攻撃はバランスを崩してヴェルディが一気に攻勢となった。その攻勢のなかから、前半40分、この夜唯一の得点が生まれた。
後半、フリューゲルスはラモスのマーク役を森山に戻し、再び攻勢に出た。しかし前半の1失点を取り戻すことはできなかった。40歳のラモスが、「冷徹な戦術家」といわれたオタシリオ監督に「頭脳合戦」で勝ち、チームを勝利に導いた試合だった。
個人の力で試合の流れを変えるのは、誰にもできる業ではない。サッカーという競技を知り尽くし、現在進行中のゲームについての深い洞察力をもち、そして苦境を打開するアイデアと実行する技術・体力を持ち合わせていなければならない。
ソウルで久しぶりにいいものを見た。日本代表のジーコ監督にとっても、収穫のある試合だったに違いない。
(2003年4月23日)
国内ではひとりも感染者が報告されていない病気を理由に、外国チームが来日中止を一方的に決めた。海外の中国人街では、商店の売り上げが7割減だという。
新型肺炎(SARS)をめぐる世界の反応から、ヨーロッパでの14世紀のペスト大流行を思い出したのは私だけだろうか。正体不明の流行病に、「ユダヤ人が井戸に毒を流したからだ」といううわさが広まり、ひどい迫害が行われたのだ。現時点のSARSも、「正体不明」という点で当時のペストとまったく同じだ。その不気味さにおびえ、差別や迫害が生まれる。
無知で非科学的で自己中心的な人間の不安に根ざしている点では、人種差別も同じだ。手塚治虫の『鉄腕アトム』では21世紀の差別の対象はロボットのはずだったが、実際には人種差別がまだまだ根絶されない。それどころか、ヨーロッパのサッカー界では、ここ数年、選手同士やファンからの差別発言が急増し、大きな問題になっている。
「人種のるつぼ」といわれるブラジル。現在は、肌の色を超えてスター選手たちが敬愛され、それがこの国のサッカーの強さにもつながっているが、過去には、やはり人種差別の歴史があった。
20世紀はじめ、サンパウロやリオなどに次々と設立されたスポーツクラブは、富裕な白人たちの独占物だった。リオデジャネイロの有名クラブが1人の黒人選手を入会させようとしたところ、中心選手や会員の大半がクラブをやめてしまったという。
そうした「常識」を変えたのは、褐色の肌をもったひとりの混血選手の活躍だった。アルツール・フリーデンライヒ、1892年7月18日生まれ。ドイツ人の父と混血のブラジル女性の母をもつ彼は、17歳のときにサンパウロ市のドイツ系クラブでサッカー選手としてスタート、やがてその技術と得点能力は全国に知られるようになり、ビッグクラブに移っていくつものタイトル獲得に貢献した。
クラブによっては厳しい人種差別を行っていた時代、彼が差別主義者たちを沈黙させたのは、父から受け継いだドイツ人の血ではなく、その驚くべき技術によってだった。
彼のドリブルは、ブラジル・サッカーの「教師」だったイギリス人たちが見せたものとはまったく違っていた。柔らかなボールタッチ、フェイント、引き技などのトリックを織り交ぜて相手を抜いていくプレーは、芸術的でさえあった。さらに、カーブをかけてのパスやシュートは、見る者を驚かせた。後に「ブラジル・サッカー」、さらには広く「南米サッカー」の特徴となる独特の技術の生みの親が、彼だったのだ。
1914年にイングランドから来訪したエクセター・シティとの間で開催されたブラジル代表の最初の試合にも出場、卓越したプレーで2−0の勝利に導いたフリーデンライヒだったが、当時は代表の試合も少なく、通算22試合、10ゴールにとどまった。
しかしクラブでの活躍は途方もないものだった。1935年に43歳で引退するまでに、1329という得点数を記録しているのだ。世界で公式に認められた生涯最多得点記録だ。
フリーデンライヒの活躍に刺激されて、1920年代からブラジル中のクラブで黒人選手の活躍が見られるようになり、やがて38年ワールドカップで得点王になったレオニダスなどのスターも生まれた。それは、この国での黒人の地位向上と、人種差別の消滅に大きな役割を果たした。
フリーデンライヒは、1969年に77年の生涯を閉じた。もし彼が、いろいろな差別が横行する21世紀初頭の世界を見たら、「なんだ、何も変わっていないんだな」と思うに違いない。
(2003年4月16日)
アジアのサッカーが、かつてない危機に襲われている。今月に予定されていたアテネ・オリンピックの1次予選12カードのうち3つが延期となり、さらには、4月17日から30日までタイのバンコクで開催されることになっていた女子アジア選手権も延期された。
オリンピック予選のうちイラク対ベトナムは、もちろん、戦争勃発による延期だ。アジア・サッカー連盟(AFC)は、バグダッドのイラク・サッカー協会との連絡がつかず、見通しはまったく立たないと発表している。
残りのオリンピック予選2カードと女子アジア選手権の延期は、新型肺炎(SARS)の流行が原因だ。香港対スリランカとチャイニーズタイペイ(台湾)対シンガポール。このうちスリランカを除く3カ国が、SARSの深刻な流行地とされている。
サッカーが脅かされているのは、アジアの大会だけではない。国際サッカー連盟(FIFA)は、アラビア半島のUAE(アラブ首長国連邦)で3月25日に開幕する予定だったワールドユース選手権の延期を、イラク戦争勃発の2週間も前に決めた。
ヨーロッパでは、イングランドを迎えるリヒテンシュタインのスタジアムの対テロ警備設備に問題があるとして延期が検討された。この試合には最終的にゴーサインが出て無事開催されたが、セルビア・モンテネグロ(旧ユーゴスラビア)対ウェールズのヨーロッパ選手権予選試合は、会場に予定されていたベオグラード市内の政情不安が原因で8月20日に延期された。
戦争、政情不安、正体不明の新感染症...。こうなると、普通にサッカーができる状態がいかにありがたいか、つくづく考えさせられる。
「ある人びとは、サッカーは生か死かの問題だと言う。彼らは間違っている----。サッカーは、それよりずっと重要だ」
そう語ったのはビル・シャンクリー。イングランドの弱小クラブ・リバプールを、ヨーロッパ・チャンピオンにまで育て上げた伝説の名監督である。サッカーに生き、人生をサッカーに捧げつくした人物の魂がこもった言葉だ。
しかしもちろん、サッカーは生命を賭して行うようなものではない。実際に生命の危険があるような状況で、サッカーの試合など行うべきではない。オリンピック予選やワールドユース選手権がいくら重要でも、生命の重さの前では羽毛のようなものだ。
先月、日本サッカー協会はアメリカ遠征を直前で中止し、代わりに国内でウルグアイとの親善試合を開催した。
当初ウルグアイ戦が予定されていた3月26日のサンディエゴでは、日本戦とのダブルヘッダーの予定だったメキシコ−パラグアイ戦が単独で予定どおり行われ、アメリカは急きょベネズエラを招待して29日にシアトルで親善試合を行った。
日本が遠征中止を決めたのは、イラク攻撃が始まって3日目の3月22日のことだった。その後、武力行使に対抗するテロなどどこでも起こっておらず、大リーグ野球をはじめとしたアメリカ国内のスポーツも予定どおり開催されている。しかしあの時点で、アメリカ遠征が安全だと言い切れる人などいただろうか。
1913年生まれのシャンクリーは、第二次世界大戦で選手生活の最も充実すべき時期を失った。戦後すぐ引退して監督業に転身したが、「生き死によりずっと重要だ」というほどサッカーに打ち込んだのは、戦争による自己の選手人生の喪失感とともに、サッカーだけに集中できる平和な時代のありがたさを身にしみて感じていたからだろう。
一日も早く戦火が止み、一刻も早く不気味な感染症が撲滅されることを祈りたい。
(2003年4月9日)
ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)が発行しているコーチたちのための月報に、興味深い話が載っていた。
2月に17歳でイングランド代表にデビュー、最年少記録を更新したウェイン・ルーニーが、大スターになったいまも、幼なじみの少年たちと「ストリート・サッカー」を楽しんでいるというのだ。
「ストリート・サッカー」。「裏通りのサッカー」とでも訳したらいいだろうか。数十年前には、世界のいたるところで見られた遊びだ。正規の「サッカー場」でのプレーではない。小さな空き地や車通りの少ない道に空き缶やシャツなどで一対のゴールをつくり、そこにいる人数を2組に分けてゲームをするのだ。
イングランドでは、広々とした芝生だけの広場が町のあちこちにある。ルーニーと友人たちの「ストリート」とは、こうした場所の一部を使ってのゲームという意味だろう。
がみがみと怒鳴るコーチもいない。時間制限もない。ひたすらゴールを攻め、ゴールを守る。疲れたら休む。そして日が暮れるまで続ける----。そんななかから、歴史的な名手たちが生み出された。
「あなたのテクニックはどこで生まれたのか」と訪ねられたペレは、ぼろ布を丸めてボール代わりにし、はだしでストリート・サッカーに興じた少年時代の話を出した。
何の制約もないから、自由な発想が生まれる。自分独自の間合いやタイミングを覚え、個性的なテクニックが身につく。そして、最も重要なのは、こうした自由で自主的な経験のなかから、自分自身の価値を見出し、サッカーというスポーツに対する愛情が生まれ、育まれることだ。
ところが、そうした「ストリート・サッカー」は、社会が豊かになるにつれ、世界の各地から消えていった。サッカーのできる裏通りも、十分な広さをもった空き地もなくなった。いまでは、ブラジルでさえ、そうした光景を見る機会は大幅に減った。
代わりにできたのが、サッカー・スクールやクラブの少年育成プログラムだ。整った施設、資格をもったコーチの下で幼少期からきちんとした指導が受けられるから、しっかりとした選手が育つ。
しかしそのなかで、ストリート・サッカーの必要性が叫ばれている。少年時代に自由な発想でプレーしたことのない選手は、個性に乏しく、結果として、躍動するような生命力をサッカーが失いつつあるからだ。
「どうしたら、ストリート・サッカーに近い形で子供たちを遊ばせることができるか」----それは、今日のヨーロッパや南米のコーチたちがかかえる重大なテーマでもある。
その状況は、日本でも変わりはない。いやむしろ、ヨーロッパや南米のような「ストリート・サッカーの時代」を経ていないだけ、問題は深刻といえる。
サッカー・スクールや少年団へ、少年たちは何か「習い事」でもするかのようにやってくる。コーチから教えられ、与えられることを、ただ待っている。そのスタイルは、中学、高校はもちろん、プロになっても続く。
猛烈な勢いで世界に追いつくためのプログラムを進めてきた日本のサッカー。しかしここから先は、個々の選手の自発的なアイデアや、意欲的な自己表現にかかっている。
少年期に、もっともっと「ストリート・サッカー」が必要だ。週に数回練習できる環境であれば、その1回か2回を、コーチは黙って見ているだけで、すべてを少年たちの自主性に任せてゲームをさせてもいいのではないか。
少年たちは、自分たちのペースで学び、育っていく。「正解」を急いではいけない。忍耐強く、忍耐強く。それがコーチたちへの唯一のアドバイスだ。
(2003年4月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。