近ごろで最も奇妙なニュースは、Jリーグのオールスターに選出された選手たちが「U−22日本代表」のエジプト遠征に参加できないという話だ。
山本昌邦監督が率いる22歳以下(U−22)日本代表は、来年のアテネ・オリンピック出場を目指すチームだ。アジアの最終予選はことし秋に行われる予定だったが、SARSの流行で1次予選が遅れ、来年3月スタートとなった。
最終予選は、出場12チームを4チームずつ3組に分け、その首位だけが出場権を獲得する。前大会に出場した日本、韓国、クウェートがシードされて各組に分かれるが、他にどんなチームがはいってくるかは、10月17日にカタールのドーハで行われる抽選会を待たなければならない。
しかし、イラン(同年代で行われたアジア大会優勝)、ワールドカップ出場選手を3人もかかえる中国、そしてアジアの雄サウジアラビアら強豪のうちの少なくともひとつは、同じ組にはいることを覚悟しておく必要がある。ワールドカップ出場(アジアの出場枠は4・5)より難しい予選であることは間違いない。
今回のエジプト遠征では、同年代のアフリカ3チームと対戦する。6日ナイジェリア、9日ガーナ、12日エジプト。いずれも強豪ばかりだ。会場は日本サッカーにとっては未知のアレクサンドリア。暑さ、食事、ピッチ状態など、悪条件がいくつも予想される。
「こうした厳しいなかで戦うことが、最終予選への非常に貴重な経験になる」と、山本監督は語る。
最終予選の方法は各組に任されるが、1カ国に集まっての短期開催、あるいはホームアンドアウェー方式となる。短期開催ならば3日に1試合程度の連戦となる。会場がもし暑い国であれば、今回の遠征とまったく同じ条件だ。ホームアンドアウェー形式でも、春の浅い日本から猛暑の国へ往復しながら1週1試合のペースで戦わなければならない。厳しさは同じだ。
今回の遠征はエジプトからの熱烈な誘いで実現した。当初は7月末に開幕の予定だったが、Jリーグ期間中の遠征は無理だ。そこで日本協会が交渉し、開幕を1週間遅らせてもらったという。第1ステージと第2ステージの間にすっぽりとはいり、最高の日程になったはずだった。
ところが、そこにJリーグのオールスターである。8月9日に札幌で行われるこの試合に選出された選手は、遠征に参加できないというのだ。7月25日、山本監督は遠征メンバー27人を発表した。通常の遠征なら20人程度だが、多ければ6人がオールスターに選ばれそうなので、その分を見越しての発表だった。
オールスターは、Jリーグにとってはたしかに重要な試合だ。Jリーグの主要な選手で構成されているはずの日本代表の日程を重ねることはできない。しかしなぜ、22歳以下の選手に頼らなければならないのか。
しかも、この遠征メンバーには、J2の首位争いをしている3クラブの3人が含まれている。J2は10日にリーグ戦がある。J1昇格へ向け、1勝ち点でも重要な局面で、J2のクラブは選手を出すことに同意しているのだ。なぜJリーグは、オールスターの義務からU−22代表選手を解放できないのか。
今回のJリーグの方針はまったく理解ができない。大会日程まで変えてくれたエジプトに対し、主力抜きで参加するのも失礼極まりない。
代表チームの活躍でサッカー人気が盛り上がる。代表強化に協力してきたリーグやクラブが、それまでの「投資」を一挙に取り戻そうと、自己の都合や利益を優先し、協力を渋るようになる----それは、その国のサッカーが危機に陥る、明白すぎる前兆だ。
(2003年7月30日)
先週末に磐田で行われたJリーグ第13節、「ジュビロ磐田×ジェフ市原」は、まちがいなく、今季最高の試合だった。優勝争いの「天王山」というだけではない。内容がすばらしかったのだ。
勝ち点2差で首位市原を追う磐田の闘志がすばらしかった。キックオフからわずか30秒で最初のコーナーキックを奪ったところに、勝利への強い意志がよく表れていた。
その闘志が、過度な体のぶつかり合いではなく、高度なチームプレーとして結実するところが、磐田のすごいところだ。MF名波浩にボールを集め、散らし、すばやくボールを回して市原につけ入る余地を与えなかったサッカーは、昨年、シーズン完全優勝を飾った当時よりレベルアップしているようにさえ思えた。
しかし今季、イビチャ・オシム監督に率いられて大きく成長した市原も負けてはいない。後半になると、佐藤勇人、阿部勇樹のボランチコンビがアグレッシブな動きを開始し、坂本将貴、村井慎二の両アウトサイドのスピード突破が磐田を防戦に追い込む。
1点をリードされた市原が追いつき、逆転し、その直後に磐田が同点にするスリリングな展開。どちらも勝てなかった。引き上げていく選手たちの表情には、誰にも笑顔はなかった。しかし、「力いっぱい、自分たちのサッカーをした」という思いを、誰もが抱いていたに違いない。
「いい試合だった」と、多くの人が語った。
しかし私は、選手たちの息づかいさえ聞こえてきそうな磐田のスタジアムでこの試合を楽しみながら、頭の片隅で、「2ステージ制は本当にもったいない」と、まったく別のことを考えていた。
1シーズンを2ステージに分けているJリーグは、わずか15試合で優勝が決まってしまう。そして第1ステージを制したチームが続けて第2ステージも制した例は、昨年の磐田以外にない。意図的に第2ステージを「調整」に回すわけではない。高いレベルのプレーを持続させることができないのだ。そうしたチームが、年末に行われる「チャンピオンシップ」に照準を合わせて入念に調整し、シーズンの優勝を勝ち取るというのが、現在のJリーグだ。
「もったいない」と思うのは、高いレベルのプレーを、シーズンを通じて持続させる努力こそが、選手を成長させる最も大きな力になるからだ。
もし全30節の「1ステージ制」であれば、「前半の天王山」の結果にかかわらず、どのチームも努力を継続していかざるをえない。市原も、磐田も、そして、その間にはいり込むように首位の座を狙っている横浜F・マリノスにも、さらにはそれに続く名古屋グランパスや鹿島アントラーズなども、緊張を切らさずに戦い続けなければならない。
ところが「2ステージ制」の下では、残り2試合、15節が終わると、すべて「リセット」されてしまう。どこか1チームが優勝したという事実以外はすべて「ゼロ」に戻されてしまう。そこに見られるのは、「誰もが優勝争いに加われるように」という、まるで小学校の運動会の徒競走のようなゆがんだ公平論だ。
シーズンを通じて努力を続け、高いレベルのプレーを保つことができた者だけが最後に笑うことができる。途中でいちどあきらめた者が再びチャンスを与えられる制度など、プロのサッカーに最もふさわしくない。「甘やかし」といってよい。
市原と磐田のどちらかが優勝すれば、両者の対戦で見せた見事な戦いと同じレベルのプレーを、今季後半の15試合では歯を食いしばってやり通す必要がないのが、2ステージ制だ。10年以上もこの制度を続けたことで、日本のサッカーはどれだけダメージを受けてきただろうか。
(2003年7月23日)
ジダン、フィーゴ、ロナウドに続き、ベッカムまで獲得してオフの話題独占のレアル・マドリード(スペイン)。多くの人が「20世紀最高のクラブ」と認める名門だが、実は、その20世紀の前半には、スペインでも抜きん出た存在とはいえなかった。
1956年から60年にかけて達成したヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(現在のUEFAチャンピオンズ・リーグ)5連覇の偉業。その栄光をもたらしたひとりのアルゼンチン人選手がいなければ、これほどの「王国」は築くことができなかっただろう。
アルフレード・ディステファノ。1926年7月4日、ブエノスアイレス市生まれ。地元のリバープレートとコロンビアのミリョナリオスで活躍し、1953年、27歳の年にスペインに渡ってレアルの一員となった。
背番号9をつけたセンターフォワード。彼は自由だった。スペインで5回も得点王になったが、ゴール前で待ち構えて得点するのではなく、自在に動いてチャンスをつくり、自らしめくくった。
ペレ、クライフ、マラドーナと並び、20世紀最高の選手のひとりと言われるディステファノだが、他の3人のような天才ではなかった。有名なサッカー選手だった父は、彼より、2歳下の弟トゥリオに期待を寄せていたという。しかしトゥリオは十代でひざを痛め、選手生活を断念する。
アルフレードの強みは、スピードと驚異的なスタミナだった。だからこそ、中盤に下がり、ときには守備に奔走しながら、大事な場面になると相手ゴール前に現れて決定的なシュートを放つという離れ業を演じることができた。
彼を得たレアルは、54年、20年ぶりにスペインの王座に就く。伝説のスタートだ。55年に始まったチャンピオンズ・カップは、まるでディステファノとレアルのためのものだった。厳しい国内リーグを戦いながら、レアルは彼の献身に率いられて5連覇の偉業を達成する。
その間に、レアルを苦しめた各国のエースを次々と獲得し、無敵の王国を築く。フランスのコパ、ハンガリーのプスカシュ、ウルグアイのサンタマリア...。現在に続く「王者のスタイル」だ。
そしてこのスター軍団に、ディステファノが魂を与えた。彼は、若いころから「サエタ・ルビア(ブロンドの矢)」と呼ばれていた。派手なスピード突破から生まれたものだった。しかし30代なかばにさしかかっても誰よりも走り、戦う姿から、「サッカーの労働者」という新しいニックネームが生まれた。彼はこの呼び方を大きな誇りと感じた。
彼は常にサッカーのことを考え、新しい戦術を発案しては仲間と実現し、試合の質を高めた。だがそれ以上に、日ごろの節制とハードトレーニングでよく知られていた。
「私のスタミナに秘密などない。若いころからサッカーが好きで、練習が何よりも楽しみだった。練習のときには、いつも自分を乗り越えようと努力した。グラウンドを10周走れと言われたら、決まって1周か2周余計に走った。他人に勝つことより、自分に勝つことが大事なのだ」
誰よりも早く練習場に現れ、いちばん最後に帰るのがディステファノであることは、レアルでは有名な話だった。練習中の真剣さ、集中力で、彼に勝る者はいなかった。
いま彼は、レアルの名誉会長としてファンや若い選手たちからの敬愛を集めている。それは、レアルが、彼の魂を失わず、それを伝統としている証拠でもある。単なる「スター軍団」ではない。真っ白なユニホームの下には、ハードトレーニングに裏付けられた「より強く」の渇望がある。
8月に東京でFC東京と戦うレアル。ディステファノの魂を確認したいと思う。
(2003年7月16日)
世界にはたくさんのクラブがあり、それぞれのクラブカラーをもっているが、「緑」は意外に少ない。その例外のひとつが、そのものずばり、「レ・ヴェール(緑)」のニックネームで呼ばれるフランスのASサンテチエンヌだ。
先月のFIFAコンフェデレーションズカップの大会中、私は初めて、フランス中部のサンテチエンヌに滞在した。なんども行ったことがあるが、これまでは数十キロ離れたリヨンに滞在して試合を見に行っただけだった。
パリからリヨン経由のTGV(フランス新幹線)で約3時間。550キロの旅行はあっという間だった。私の滞在中は連日気温37度の猛暑。町なかでも、日中は人影が少なかった。
人口は約20万人。かつては炭鉱の町であり、19世紀には、金属、機械、兵器など、重工業の中心地となってフランスの発展を支えた。しかし現在は、そうした「フロントランナー」の立場をはずれ、落ち着いたたたずまいを見せている。
この町の誇りは、フランス・リーグで最多の優勝10回を誇る「レ・ヴェール」、ASサンテチエンヌだ。
1920年に小売チェーン「カジノ」のクラブとして発足、その店が緑と白で塗られていたことから、緑のユニホームが伝統となった。「カジノ」は、いまでは全国に数多くのスーパーマーケットを展開する巨大チェーンとなり、現在もクラブを支える最有力スポンサーである。
クラブは順調に成長し、31年には自前のスタジアムを完成させた。初代会長ピエール・ギシャールは、このスタジアムに小売チェーンの創始者である父ジェフロワの名を冠した。スタジアムは今日、サンテチエンヌ市の所有に移されているが、「ジェフロワ・ギシャール」の名はしっかりと残されている。
57年、「レ・ヴェール」はフランス・リーグで初優勝を遂げる。クラブはここでスタジアムの大改修を決意、陸上競技用のトラックをつぶし、サッカー専用のスタジアムに変えた。改修はその後も続き、84年にヨーロッパ選手権を迎える前には、収容4万8274人の大スタジアムとなった。このスタジアムでミシェル・プラティニがハットトリックを達成、フランスはユーゴスラビアを3−2で下して初めてのメジャータイトル獲得に勢いをつけた。
「レ・ヴェール」自体は、60年代から70年代にかけて黄金期を迎える。この間に8回もの優勝を記録しているのだ。そして76年にはヨーロッパ・チャンピオンズカップで決勝に進出、バイエルン・ミュンヘンに敗れたが、ヨーロッパでもトップクラスの実力があることを示した。その活躍は、フランス・サッカー復興のシンボルでもあった。
チームの大半がフランス代表のレギュラーとなり、79年にはプラティニも加わった。しかし81年のリーグ優勝が最後のタイトルとなる。
82年、選手への報酬支払いで脱税していたことが発覚、以後、チームは急速な下降線をたどり、84年には2部に降格する。そして今日まで、ASサンテチエンヌは、1部と2部を往復する生活を続けている。
しかしそれでも、クラブは市民の誇りであり、ジェフロワ・ギシャールは今日でもフランスの主要なスタジアムのひとつであることに変わりはない。2部のゲームでも多くのサポーターがスタンドを埋め、フランスで最も熱狂的な応援が繰り広げられている。
余談になるが、Jリーグで唯一の「緑」のクラブ、東京ヴェルディも、このクラブとは無縁ではない。ヴェルディの「緑」は、70年代終わりにサンテチエンヌのユニホームをそっくりまねてつくったことから始まったものだ。
(2003年7月9日)
カメルーン代表のMFマルクビビアン・フォエは75年5月1日生まれ。まだ日の高いリヨンのジェルラン・スタジアムでコロンビアと対戦した日、28歳の若さだった。
恐ろしい光景だった。後半のなかば、何の前触れもなく、突然、彼はピッチの中央で倒れた。接触プレーがあったわけではない。ボールははるか遠くにあった。
最初に異常事態に気づいたのは、コロンビアのDFイェペスだった。白目を剥き、ぴくりとも動かないフォエを見て、彼は即座に大声でドクターを呼ぶ。救急医療班とドクターがかけつけ、様子を見ると、わずか2分でピッチ外に運び出す。試合が再開される。その脇で、懸命の救急措置がとられる。しかし数分後、再び担架に乗せられてスタジアム内の医務室に運ばれるとき、フォエの右腕はだらりと垂れ下がったままだった。
国際サッカー連盟(FIFA)の発表では、医務室に運ばれて人工呼吸や酸素吸入を行っている間に心臓が停止した。心臓マッサージや電気ショックなどの蘇生措置が続けられたが、ピッチで倒れてから約50分後の8時20分、フォエは短すぎる人生を終えた。
ワールドカップなどFIFA主催の大会で試合中に選手が死亡するような事故は皆無だった。スポーツは生命の躍動のために存在する。けっして命を賭して行うものではない。生命の危険を伴うスポーツ的行為は、「冒険」である。そしてサッカーは、断じてそうした種類の競技ではない。
しかし世界では、心臓トラブルによる死亡事故の報告がときおりある。イタリアでも、試合中に心臓停止した選手をピッチ内での蘇生処置で助けた例があり、以後、セリエAでは、蘇生のための機器が救急医療班の横に置かれるようになった。しかしこの大会では、そうした機器は医務室にしかなかったようだ。
フォエはカメルーンのエンコロで生まれ、19歳で94年ワールドカップに出場、その年にフランスのランスに移籍した。190センチ、85キロという巨体に繊細なテクニックを備え、イングランドのウェストハムに貸し出された後、リヨンに移籍、5月に終了した昨シーズンは、再びイングランドのマンチェスター・シティに貸し出されていた。
彼を知る人びとは、口をそろえて、「猛烈なファイターだが、ピッチを離れると寡黙で、心の優しい男だった。何よりも、周囲の人びとを幸福な気分にさせるすばらしい笑顔の持ち主だった」と語る。
若い選手が多かった今回のカメルーンのなかでは中心的な存在だった。体調があまりすぐれない状態で臨んだこの試合も、シェーファー監督がハーフタイムに「交代するか」と聞くと、「僕がチームを引っ張らなければならない」と気力にあふれた表情で語り、ピッチに戻っていったという。
彼の死をすべての人が悲しんだ。日曜日に行われた決勝戦は彼のために捧げられた。カメルーン・チームは彼の写真をもって入場し、監督やサブの選手たちは全員、背番号17のついたフォエのシャツを着た。カメルーンとフランスはいっしょに円陣を組んで両国国歌を聞いた。優勝したフランスのデサイー主将が、カップを受け取るときにカメルーンのソング主将を呼び、いっしょに受け取ったシーンは感動的だった。
しかし大事なのは、彼の死の原因を完全に究明し、けっして繰り返さないようにすることだ。試合前に何か原因があったのか。チーム医療の体制は万全だったか。所属クラブを含めた普段からの健康管理に問題はなかったか。そして、スタジアムでの救急医療体制に落ち度はなかったか。
マルクビビアン・フォエの魂を、世界の2億5000万人のプレーヤーのために生かさなければならない。
(2003年7月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。