先週日曜日に東京・国立競技場で行われたJリーグ「横浜対C大阪」で、なんと11枚ものイエローカードが出された。そのうち2枚は横浜のMF佐藤由へのもので、佐藤は前半わずか23分で退場となった。試合は2−2の引き分けだった。
この日勝てば首位を取り戻せる状況だった横浜にとって、勝ち点を1しか積み重ねられなかったのは悔やまれる結果だっただろう。勝利を逃した最大の要因はもちろん、相手より少ない人数で70分間もの戦いを強いられたことだ。
主審は奥谷彰男さん。前半7分に佐藤由に最初のイエローカードを出したのを皮切りに、前半だけで6枚。後半の序盤にも立て続けに4枚を出し、一時は「1試合12枚のJリーグ記録の更新は確実」と思われた。しかしその後は1枚出ただけで、計11枚で止まった。
日本サッカー協会の審判委員会は、J1、J2の審判レベルを上げるために、主審33人を対象に毎月研修会を行っている。
審判によって判定基準にばらつきがあると、選手たちは混乱する。研修会の目的は、個々の審判のレベルを上げるだけでなく、Jリーグを担当する審判の判定基準をできるだけ合わせていこうという点にある。そしてこの10月に行われた研修会でとくに強調されたのが、遅延行為や異議に対して厳然と対応することだった。
笛が鳴って反則が取られる。相手ボールのFKだ。しかし味方の守備組織が整う前にけらせないようにと、守備側がボールをちょんとけってしまうプレーが横行してきた。昔のように大きくけってしまう選手はもうほとんどいない。しかし相手がボールを拾おうとした瞬間にほんのわずか触れ、1メートル動かして時間を稼ごうという姑息な手段は、今季のJリーグでごく当たり前に見られてきた。
「判定に対するあからさまな異議とともに遅延行為に対する主審の態度が、今季は甘かった」と、Jリーグ審判の指導を担当するレスリー・モットラムさんは語る。
そして「審判員は強くならなければならない」と、10月の研修会ではカードを出すべき行為に対してしっかり出すように求めた。
各チームにも、「今後はこうしたケースに厳しくイエローカードを出す」と説明した。その話は、当然、選手たちにも伝えられている。
横浜−C大阪戦では、横浜のマルキーニョス、C大阪の森島、大久保の3選手が、判定に対する異議でイエローカードを受けた。しかし遅延行為によるカードは1枚もなかった。選手たちが気をつけた結果だったのだろう。それがなければ、確実に「12枚」のJリーグ記録が破られたはずだ。
前日の「市原−磐田戦」では、市原がFKのポイントに戻そうと動かしたボールが自分の前にきた磐田の名波が、途中で止め、イエローカードを出された。名波も、それがカードを出される行為であることは十分承知していたはずだ。しかしこれまでそうした行為を当然のように繰り返してきたため、つい足が出てしまったのだろう。
横浜−C大阪戦の11枚のイエローカード中6枚は、「ラフプレー」によるものだった。首位奪取をかけた横浜。第2ステージ最下位という不振で西村監督が解任され、塚田新監督が就任して2戦目でどうしても初勝利がほしかったC大阪。リーグ終盤、どのチームも必死だ。勢い余ってラフプレーが増えるのは、ある程度仕方がない。
しかし遅延行為や異議はプレーではない。こうした行為を撲滅し、プレーに集中して残り4節を全力で戦い、プロらしく誰をも納得させる試合を見せてほしいと思う。
(2003年10月29日)
今週も、日本代表の遠征取材で訪れたルーマニアの首都ブカレストの話から始める。
短い滞在の最終日は穏やかな日差しに恵まれた日曜日。出発は午後の便だったので、午前中、静かな町を歩いた。そして大通りから少し奥まった通りでステアウア・ブカレストのクラブショップを発見した。
ステアウアは国軍のクラブ。1947年の創立以来、リーグ優勝21回という圧倒的な強さを誇る。強いだけではない。ブカレスト市民、そしてルーマニア国民に最も愛されているクラブでもある。
何か買って帰りたかったが、残念なことに「日曜は閉店」と書いてある。しかし大きな窓を通して店内の様子を見ることができた。ステアウアの赤いマフラーやユニホームだけでなく、ルーマニア代表のユニホームも売られていた。
店内をのぞき込むうちに、壁に思いがけないものを発見して小さなショックを受けた。背番号7のついたルーマニア代表の黄色いユニホーム。番号の上に「LACATUS」の文字があったのだ。
マリウス・ラカトシュは64年4月5日生まれ。19歳でルーマニア代表にデビュー、22歳で迎えた86年のトヨタカップではステアウアのエースだった。そして90年ワールドカップではソ連戦で2ゴールを決めて世界の注目を集め、大会後、イタリアのフィオレンチナに移籍した。
その後、スペインのオビエドを経て94年にステアウアに復帰、代表にも返り咲いた。そして98年ワールドカップまでルーマニアの牽引車となって活躍した。
ルーマニア代表84試合13得点。同時代のルーマニア代表の代名詞でもあったゲオルゲ・ハジの記録には及ばないが、ステアウアのファンにとっては誇りに違いない。
小さなショックは、引退からずいぶん時間がたち、現在のステアウアにも数多くのスターがいるのに、いまもラカトシュが最大の「英雄」と遇されている事実だった。
ブカレストを後にして訪れたフランスのマルセイユでは、93年のUEFAチャンピオンズリーグ優勝の写真がいまも町のあちこちで見られた。その決勝ゴールを決めたバジール・ボリは、この町の変わらぬ英雄だ。
大スターの移籍も珍しくないヨーロッパのサッカー。しかし移籍で他のクラブに行ってしまっても、あるいは引退して舞台から消え去っても、人びとは彼らが自分たちに与えてくれた栄誉や幸福感を忘れることはない。
彼らの活躍は親から子へと語り継がれ、出版物などでも繰り返し言及されて、やがて伝説となる。そんな英雄が、どのクラブにも、そしてどの町にもいる。それがクラブへの誇りや愛情につながる。
日本ではどうだろうか。他のクラブに移籍した選手がライバルとしてホームスタジアムに戻ってきたとき、拍手で迎えられるだろうか。長く活躍した末に引退した選手たちは、その後も敬意を払われ、クラブや町の英雄として扱われるだろうか。
たとえば、サンフレッチェ広島を94年第1ステージ優勝に導いたヒーロー高木琢也の名は、いまも広島の人びとの話題に上るのだろうか。鹿島の人びとは、Jリーグの最初の優勝の原動力ひとりだった好漢DF大野俊三をいまも誇りに思っているだろうか。
スターは次つぎと生まれる。しかしサッカークラブはスクリーン上だけの夢の世界ではない。ピッチ上で生身の選手たちが情熱を傾けて戦った試合やプレーの数々を、まるでポスターを張り替えるように忘れてしまうのは、もったいなさ過ぎる。
「英雄たち」の伝説が長く生き続ける町。それこそ、「サッカーが文化を豊かにした町」ではないだろうか。
(2003年10月22日)
久しぶりのブカレストは「別世界」だった。
日本代表の遠征を追って、チュニジア、ルーマニアへと、せわしない旅に行ってきた。ルーマニアの首都ブカレストは、トヨタカップ出場チーム取材のため86年秋に訪れて以来だから、17年ぶりということになる。独裁者チャウシェスクが君臨し、国民は悲惨な生活を強いられていた時代だった。
アメリカドルの現金さえもっていれば、「ドルショップ」で何でも買えたし、ホテルのレストランで飽食することも可能だった。しかし現地通貨で買える物は、町には皆無といってよかった。商店の大半は、商品が底をついたまま休業状態になっていた。
ルーマニアは元来、豊かな農業国だった。しかし65年に政権を握ったチャウシェスクは、黒海で石油が出たのを機会に70年代はじめに強引に工業化を進めた。だが油田はすぐに底をつき、同時にオイルショックが世界を襲った。工業を維持するためにソ連から高価な石油を買わざるをえなくなり、ドル建ての支払いが重なってルーマニア経済は破綻へと向かっていく。
当時のヨーロッパでは珍しかった温室設備を備えた農業は、冬でも豊富な野菜を生産したが、それはすべて西ヨーロッパに売られ、獲得した外貨はソ連への石油代金支払いとチャウシェスクの私腹を肥やすことで消えた。
秘密警察や密告制度でチャウシェスクが恐怖政治を敷くなか、国民は零下10度の真冬にも暖房もなく、ごくたまにパンが売りに出されれば長蛇の列を作って買うという生活を強いられた。
当然、当時のブカレスト市民は一様に暗い顔をしていた。この年の4月には、隣接するウクライナのチェルノブイリで大規模な原発事故が起こり、雨が降れば死の灰の懸念もあった。唯一の明るい話題は、国軍のクラブである「ステアウア」が東欧のクラブで初のヨーロッパ・チャンピオンとなったことだった。
その3年後の89年12月、弾圧されていたハンガリー系住民の蜂起をきっかけに大規模な市民デモが起こり、国軍がそれを支援したことでチャウシェスクは政権から追われ、処刑された。
一方、チャウシェスクの秘密警察のクラブが「ディナモ」だった。日本がルーマニアと試合をしたのが、ディナモのスタジアムである。収容は1万6000人。この国の「2強」でありながら、5万人のスタジアムをもつ国軍のクラブ、ステアウアとの人気の差があるのは当然だった。
革命後のルーマニアは経済の立て直しが順調には進まず、物不足も解消されなかった。しかしここ数年で大きく変わった。街道には大きな広告看板が並び、街なかは豊富な商品を扱う店が軒を連ねている。スーパーマーケットには新鮮な野菜や肉が積まれている。レストランでも、豊富なメニューが用意されている。そこには、ヨーロッパのどの都市とも変わらない、普通の市民生活があった。
制服から解放され、ジーンズ姿になった中学生や高校生の表情が明るいのが目につく。彼らの多くが最も熱心に勉強しているのが英語だ。言葉さえできれば、仕事のチャンスは大きく広がるからだ。そして、20年間近い恐怖政治の時代を生き抜いた年配の人びとは、一様に穏やかな表情をしていた。
経済はまだ安定したとはいえない。インフレも激しい。しかしもう盗聴や密告にびくびくすることはない。若者たちが明るい表情で前向きに勉強している限り、生活はどんどん改善されるだろう。
日本代表に対する心配より、ルーマニアという国、その国民、ブカレスト市民たちのことが心を占め、街を歩くたびに「本当に良かったな」と思う数日間だった。
(2003年10月15日)
ここ数年で最も印象的な選手交代の成功は、2001年10月6日、ワールドカップ出場に王手をかけたイングランドがマンチェスターでギリシャと戦った試合だった。
勝てば2002年大会への出場が決まるイングランド。しかし前半に思わぬ失点を喫し、後半なかばまで相手の堅守を破れずに苦しんだ。後半22分、エリクソン監督はベテランFWシェリンガムの勝負強さにかけようと交代を決断する。代えるのはFWファウラーだ。
ちょうどイングランドにFKが与えられたときだった。交代を知ったファウラーは走って戻り、シェリンガムがピッチにはいっていく。そしてちょうどペナルティーエリアにさしかかったとき、ベッカムのライナーのFKがきた。ボールはぴたりとシェリンガムの頭に合い、芸術的なバックヘッドから放たれたボールがゴールに吸い込まれた。シェリンガムが交代してわずか10数秒、歩数にして50歩あまりの同点劇だった。
試合はこの後再びリードを許し、ロスタイムにベッカムが劇的なFKを決めて2−2の引き分けに持ち込む。そして同じ組で首位を争っていたドイツも0−0で引き分けたため、イングランドの「日本行き」が決まる。
ベッカムのゴールもすばらしかった。しかし私には、あまりに鮮やかな選手交代の成功が印象的だった。
Jリーグや海外のサッカーを見ながら苛立たしく感じるのは選手交代のときだ。交代を告げられた選手が外に出るまでにかかる時間は、平均して20秒から30秒になる。もし試合の後半に両チームが許された3人の交代枠をすべて使ったら、それだけで2分から3分間のロスが生じることになる。
当然のことながら、リードしているチームの交代は時間がかかる。「ここで時間を稼ぐのが最後の仕事」とでも思っているのだろうか、選手たちは下を向き、ゆっくりと歩いて出て行く。ピッチを出るまでの30秒間に、その試合の自分のプレーを顧みているのか。自分に集中する観客の視線、テレビでアップにされているだろう映像を想像し、安っぽいヒロイズムに酔っているのかもしれない。
現在では、レフェリーたちはこうした時間をしっかり「ロスタイム」に算入しているから、「時間稼ぎ」の目的は達成できない。しかしそれでも、相手を苛立たせ、リズムを壊す役割は果たす。
苛立たせるのは相手の選手や監督だけではない。観客を、そして、テレビで見ている何百万人(ときには何千万人)ものファンを苛立たせているのだ。観戦歴の長いファンは無意識のうちにその苛立ちを表面化させないすべを身につけているかもしれない。しかし初めてサッカーを見た人は、あまりにフェアでない選手たちの態度に驚くはずだ。
ルールでは、交代要員はハーフラインのところからはいることになっているが、退出する選手はどこから出てもよい。交代を知らされたときにいる場所に最も近いラインから出れば、いちばん早い。
代わってはいる選手のところに行って出るのがわかりやすく、見苦しくもないというのであれば、せめて、そこまでさっさと走るべきだ。それまで超人的な運動量で戦っていたのだから、そのくらいの力は残っているだろう。
シェリンガムの同点ゴールのヒーローは、当然ながら得点したシェリンガムと、その頭にピンポイントでパスを合わせたベッカム、そしてあのタイミングで交代の決断をしたエリクソン監督ということになるだろう。しかし交代を告げられるや顔色も変えずに走って出るというプロらしい態度をとったファウラーも、同点劇の「流れ」をつくった重要な「キャスト」だった。
(2003年10月8日)
まったく逆の結果になっても不思議がなかったカナダとの試合を1−3で失い、日本女子代表の第4回ワールドカップが終わった。
「試合全体を通じて、間違いなく日本のほうが優れたチームだった。彼女たちはとても美しくプレーした。きっちりとパスを回して組み立て、カナダよりずっと組織だったプレーで、見ている私たちを楽しませた」
大会を主催する国際サッカー連盟(FIFA)が選任した技術研究グループのカナダ戦担当だったフラン・ヒルトンスミスはそう報告している。実力で得られるはずだった「ベスト8」の座を逃した悔しさがあるはずだ。しかし専門家のこの言葉は、小さな慰めにはなるだろう。
アルゼンチン、ドイツ、カナダと対戦したこの大会、明らかに体格差のあるチームを相手に、日本は高度な組織サッカーを見せた。あわてずにDFラインでつなぎ、そこから中盤の選手たちがしっかりとパスを組み立て、両サイドに展開して崩すサッカーは、本当に見事だった。そしてFW澤穂稀の「決定力」は、男子代表のジーコ監督さえうらやましがらせたに違いない。
サッカーを愛する人なら、この大会の日本女子代表のプレーぶりは見る価値のあるものだったはずだ。高い技術、しっかりとした戦術能力、仲間との協調、最後の最後までけっしてあきらめない精神、そして何よりも、フェアなプレーぶり。
昨年就任した上田栄治監督は、いかんともし難い身長やパワーの差があるチームに対抗するため、バランスの良いポジショニングと、サイドでスピードアップできる攻撃をつくり上げた。澤という国際的なスター選手に頼るのではなく、中盤の構成力を高め、チーム全体で押し上げていくサッカーは、優勝候補のドイツも手を焼いたほどだった。
しかしそれ以上に、日本女子代表のフェアな試合ぶりは感動的だった。
3試合、270分間を戦って、レッドカードはもちろん、イエローカードも皆無だった。出場16チーム中唯一の記録である。そして3試合で取られたファウル計33も、ブラジル(28)に次いで少なく、韓国と並ぶ(最多はナイジェリアの63)。そして受けたファウル計58は、北朝鮮の61に次いでいる。日本は、数多くの反則を受けながら、自分たちは非常にクリーンにプレーしたことになる。
数字に表れたものだけではない。日本選手は、どんな判定に対しても、文句を言わないのはもちろん、不満な顔さえほとんど見せなかった。
カナダとの試合の後半、FW大谷未央がMF宮本ともみのパスを受けて見事なダイビングヘッドでゴールに叩き込んだシーンがあった。2−2の同点! 引き分ければ準々決勝進出という試合だったから、日本にとって待望の得点だ。大谷はピッチに仰向けに寝転んで歓喜を表現した。しかし見ると、副審の旗が高々と上がっている。オフサイドの判定だった。
普通なら、「なぜ?」という表情のひとつぐらいする。しかし大谷は、ちらっと主審のジェスチャーを見ると、すぐに目を輝かせ、「次は決めてやる」という表情で自陣に戻って行った。こんな選手は初めて見た。その前向きな精神は、心を打つものがあった。
ファウルが少なかった背景には、ゴール前で圧倒的に不利な状況になるFKを相手に与えてはならないという、上田監督からの戦略的な指示もあったはずだ。しかしそれ以上に、厳しく戦いながらも、選手たちはルールをわきまえ、その範囲内でひたむきに戦った。そこには、現代の男子サッカーでは見られない純粋な感動があった。
日本女子代表は、本当に美しく戦った。
(2003年10月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。