「今シーズンのJリーグMVPはいったい誰だろう」
友人のジャーナリストがしきりに聞く。Jリーグ・アウォーズ(12月15日)で発表されるMVP(最優秀選手賞)は、選手や監督の投票で選ばれるが、ことしは、絶対的な候補がいない。シーズンを通じて活躍できた選手が多くはないのだ。
横浜なら、DF中澤佑二かMF奥大介だろうか。MF遠藤彰弘もコンスタントなプレーでチームを支えた。
私は、現在のJリーグで最も力があるのは浦和のFWエメルソンだと思う。昨年来のオフト監督の指導で、精神的にもずいぶん成長した。しかしシーズンの最も大事な時期に累積警告で2試合の出場停止になった代償はあまりに大きかった。
最優秀選手を選ぶのは難しい。しかし「最優秀監督」は簡単に選べる。市原のイビチャ・オシムだ。
今季のJリーグには、見事な仕事をした監督がたくさんいた。横浜の岡田武史監督は、第1ステージを制覇しただけでなく、主力の半数が欠けた第2ステージの前半に思い切った采配で見事にチームを立て直した。質量ともにハイレベルな動きとパスワークで相手守備を崩すサッカーも、高く評価されるべきだ。
FW高原、MF藤田を移籍で失うなど痛手を受けながら現時点で年間最多勝ち点を上げている磐田の柳下正明監督の粘り強さも見事だ。ファンを喜ばせる攻撃的姿勢を貫いたFC東京の原博実監督、降格の危機から東京Vを救い上げたオスバルド・アルディレス監督も、手腕を見せた。そして浦和に初めてのタイトルをもたらしたハンス・オフト監督がいる。昨年から若い選手を徐々に伸ばし、ことしの後半に一挙に花開かせた指導力はさすがだった。
しかしこうした監督たちのなかでも、市原のオシムは別格だった。
今季の市原は、第1ステージで優勝の可能性をつかんだが、最後の2試合でプレッシャーに押しつぶされる形で後退した。しかし第2ステージでも高いレベルのチームプレーを維持、最終節まで優勝争いに加わった戦いは、見事というほかない。
U−22代表のMF阿部勇樹がいるが、日本代表選手がいるわけではない。かといって韓国代表FW崔龍洙やスロベニア代表DFミリノビッチに頼りきりでもない。若く、代表とは無縁の選手たちが、それぞれの能力を最大限に発揮し、チームとして戦ったのが、今季の市原だった。
オシム監督は2月のキャンプで徹底した走り込みをさせ、「走る市原」をつくりだした。シーズンにはいると、ポジションにこだわらず積極的に前のスペースに走るプレーに目を見張った。こうしたプレーによって、選手たちが内面から変わり、喜びをもってプレーしているのを知った。そしていくつかの試合を見て、オシム監督の指導が日本人選手の長所をフルに発揮させるものであることに気がついた。
日本人選手は、体格面やパワーでは劣っても、持久力に優れ、チームプレーの意識をもち、与えられた役割に対する責任感が強い。市原は、ただ走るだけではない。シンプルにボールをつなぎながら選手が連動して動く。スタンドプレーは皆無。ひとりで「スーパープレー」を狙うのではなく、数人のシンプルなプレーで驚きをつくり出す。
勝負はままならないこともある。勝った経験に乏しい選手たちは、プレッシャーにどう対処したらいいか、まだ身につけていなかった。
しかし1年ですべてを変えるわけにはいかない。オシム監督は、来季も市原の指揮をとる方向だという。「オシムのサッカー」が2年目にどんな発展を見せるのか、期待をもって見守りたい。
(2003年11月27日)
画面の右端に、コーナーキックをけろうとするボビー・チャールトンがいる。数百人の目が彼に集中している。
1970年のイングランド・リーグ。場所はイプスウィッチ。見つめているのは、ホームクラブのファンたちなのだろう。複雑な表情のなかにも、この国が生んだ不世出の天才選手に対する敬意があふれている。そして最前列を占める少年たちの瞳は、英雄への強いあこがれを物語っている。この時代、サッカーのスターたちは、莫大な富や名声で語られるのではなく、愛され、尊敬される存在として社会のなかで生きていた...。
イギリス人の写真家ピーター・ロビンソンさんから、立派な写真集が送られてきた。「FOOTBALL days」(ミッチェル・ビーズリー社刊)。1965年から撮り続けてきた膨大な写真のなかから、彼自身が選び抜いて構成した写真集だという。350ページというボリューム、内容の豊かさはもちろん、装丁や造本など、あらゆる面で第一級の写真集といえる。
44年2月23日、イングランド中部のレスター市生まれ。父は警察官、母は36年ベルリン・オリンピックでイギリス代表になった水泳選手だった。しかしピーターは映画に魅せられ、レスターの王立美術デザイン学院に進学する。その課題でサッカーの撮影をしてみようと思い立ったのがすべての始まりだった。
1965年、当時のイギリスでは、ビートルズとともに、58年の悲劇的な航空機事故から立ち直ったマンチェスター・ユナイテッドが大きな話題になっていた。なかでも19歳になったばかりのジョージ・ベストは、ビートルズに劣らない人気をもっていた。
両親に買ってもらったロシア製の安いカメラ1台と薬屋(当時、カメラやフィルムは薬屋で扱っていた)で借りた望遠レンズを手に、ヒッチハイクでマンチェスターへ向かった。2本のフィルムを買うだけで手一杯だったからだ。そのときの初々しいベストも、この本に収められている。
不思議な運命に引っ張られて、やがてロビンソンさんはサッカー写真家として確固たる地位を築いていく。70年からは、四半世紀にわたって国際サッカー連盟(FIFA)の公式カメラマンという顔ももった。新聞や雑誌など特定の媒体に縛られなかったことで、創作意欲が保たれ、次つぎと新しいテーマに取り組むことができた。
「とにかく頑固なんです」。日本のサッカー写真の第一人者である今井恭司さんは、彼の人柄をこう語る。
「周囲に流されない。他のカメラマンがいっせいに右に行くときに、彼は敢えて左に行く。へそ曲がりなのではない。『こういう写真を撮りたい』という明確な狙いをもって左へ行く。そうして撮られた写真から、サッカーを通じてものすごくいろいろな人生が見えてくるんです」
イングランドが中心の本だが、世界中のサッカーシーンが収められ、日本で撮影したものも十数点ある。そのなかのひとつ、横浜FCのサポーターの写真は、弾むようなサッカーの喜びが息づき、ちょっぴりのユーモアとともに表現されている。
実は彼、10年ほど前に日本人女性と結婚した。頑固でけっして社交的とはいえなかった彼が、本来もっていた優しさや思いやりを素直に表現できるようになったのは、それからのように感じる。こんなすばらしい写真集が出来上がったのは、奥さんの支えが大きかったからに違いない。
「サッカーが人びとの人生の中でどんな役割を演じているのか、写真を通じて、それを表現したかった」とロビンソンさん本人が語る写真集は、日本でも、大手書店やインターネット書店「アマゾン」などで入手することが可能だ。
(2003年11月19日)
新しい試みがスタートする。東京西部の小金井市にある東京学芸大学が、JリーグのFC東京、そして地元小金井市との連携で「地域総合クラブ」を創設することになった。
教員養成の国立大学として知られる東京学芸大は、地域に開かれた大学を目指して、公開講座や図書館の公開など、各種の取り組みをしてきた。しかし来年4月から新しい「国立大学法人」へと移行するのに伴い、スポーツと文化の両面で地域社会の活動を支援する「学芸大クラブ」を創設することになったという。
JFL時代から江東区の深川にある施設を練習グラウンドとして使ってきたFC東京は、昨年から小金井市に隣接する小平市に移転した。味の素スタジアムの完成でホームスタジアムが東京西部の調布市となったためだ。
そして東京西部に根を張ろうと、少年サッカースクールなどさまざまな地域活動を展開してきた。FC東京の試合に行くと、おそろいの青いユニホーム姿の家族連れをたくさん見る。丹念に地域活動を展開してきた成果だろう。
しかしその一方で、中学生年代の「ジュニアユース」は、深川に置かれたままだった。小平の練習グラウンドには天然芝のグラウンドが2面しかなく、ここでジュニアユースまで活動をすることはできなかったからだ。
中学生年代だから、あまり遠くから通うことはできない。地域活動を深めれば深めるほど、「東京西部にもジュニアユースのチームをつくってほしい」という要望が強まった。
学芸大との連携は、この面だけを考えても大きなメリットのあるものに違いない。FC東京は人工芝のサッカーグラウンド2面を学芸大に寄付し、そこを舞台にさっそく新しいジュニアユース・チームを立ち上げる予定だという。
人工芝のグラウンドは、サッカーの練習だけでなく、いろいろな活動やイベントに使うことができる。毎日、朝から晩まで酷使しても問題はないので、新しくできる「学芸大クラブ」にとって非常に有用な財産になるだろう。
「将来的にはクラブハウスをつくりたい」と、東京学芸大の岡本靖正学長は語る。サッカーに限らず、広く小中学生のスポーツ育成活動から手をつけていきたいというが、予算づけができているわけではなく、具体的にはすべてこれから詰めていくという。
同大学サッカー部監督の瀧井敏郎さんは、「FC東京というサッカーの面でも運営の面でもプロ集団との交流は、学生たちに大きな刺激になり、幅広い人材育成に役立つ。大学にとっても非常にメリットのあること」と力説する。
注目したいのは、「学芸大スポーツクラブ」ではなく、「学芸大クラブ」という名称だ。スポーツだけでなく、音楽など、広く文化活動を展開していきたいという。
Jリーグの「百年構想」には、「スポーツで、もっと、幸せな国へ」という標語のとおり、もっぱらスポーツ環境の整備により、新しい文化を築こうという意図がある。現在、日本の各地で計画が進んでいる「地域総合スポーツクラブ」も、同じ考え方だろう。
しかし「学芸大クラブ」は一歩進んでいる。スポーツとその他の文化活動を区別する必要はない。目的は、地域の人びとの生活を豊かにすることだからだ。
地元小金井市も巻き込んだ新クラブづくり。国立大学とJリーグ・クラブの連携という新しい取り組みは、今後、いろいろな形で各地に波及していくのではと期待される。
具体像は明確ではないものの、「学芸大クラブ」は、大きな可能性を秘めた「プラットフォーム」のように思える。学芸大、FC東京だけでなく、市民が積極的に関与して、その上に豊かな「クラブライフ」を築いてほしいと思う。
(2003年11月12日)
「ウィー・アー・レッズ、ウィー・アー・レッズ!」
キャプテン内舘秀樹がナビスコ杯を高々と掲げると、国立競技場のスタンドの8割を埋めた浦和レッズのサポーターから歓喜の声が上がった。
「私たちはレッズだ」----。
それは、失望の底に突き落とされたときも、そしてこの歓喜の日にも、変わらず繰り返して叫ばれた言葉だった。
11月3日、レッズはついに初めてのタイトルを手中にした。Jリーグ・ヤマザキナビスコカップ決勝で鹿島アントラーズを4−0で下し、プロとしてスタートを切ってから12シーズン目にして、ようやく「優勝」にたどり着いた。
ハンス・オフト監督が2年間をかけてじっくりと作り上げたチームは自信にあふれていた。今季の補強は、GK都築龍太、DFニキフォロフ、そしてMF山瀬功治。いずれもいまや堂々たる中心選手だが、彼らのおかげで優勝できたわけではない。オフト監督就任時からチームに在籍し、その辛抱強い指導で着実に力を伸ばしてきた選手たちがつかんだ初優勝だった。
しかしこの勝利の根源的な力は、オフト監督でも、ゴールを決めたFW田中達也やエメルソンでもない。私は断言する。レッズの最大の力は、間違いなくサポーターだ。
Jリーグが誕生した当時から、レッズのサポーターのパワーは他を圧していた。数においても、そして過激さにおいても、レッズのサポーターほど社会現象化し、話題になった集団はいなかった。
しかしチームは、彼らとは対照的だった。「最下位」が指定席となり、真っ赤に染まった駒場スタジアムでも不甲斐ない成績を残し続けた。95年にホルガー・オジェック監督を迎えてチームは急上昇するが、それでもタイトルには届かなかった。もしかすると、「サポーターの期待に応えたい」という思いが強すぎて、心身のバランスを失っていたのかもしれない。
しかし負けても負けても、サポーターは減らなかった。それどころか、パワーを蓄積させ、数を増やしていった。
この時期、彼らの愛唱歌は、エルビス・プレスリーの『好きにならずにいられない』だった。試合前、静かで、それでいて力強いハミングが、数分間にわたって続けられる。それは、サポーターからチームへの、無条件の愛情の宣言だった。
しかし「連続最下位」も、99年11月27日のJ2降格決定の胸を引き裂かれる思いに比べたら、まだましだったのかもしれない。この日、ホームの駒場スタジアムを埋めた2万人の観衆の前で、レッズはサンフレッチェ広島に90分以内で勝つことはできず、クラブ・スタート以来最大の失望を味わった。
そのとき、サポーターから際限なく繰り返されたのが、「ウィー・アー・レッズ!」の声だった。
「僕たち自身が浦和レッズだ。J2だろうと何だろうと、これからも、胸を張ってチームとともに歩む」
この日の「ウィー・アー・レッズ」ほど、クラブや選手たちの心を強く打つものはなかっただろう。その決意のとおり、翌年、サポーターたちはレッズとともにJ2の44試合を戦い抜き、苦難の末にJ1への復帰を勝ち取った。
あの99年11月27日から4年、サポーターは歓喜にあふれた「ウィー・アー・レッズ」を叫んだ。
喜びのなかで、監督も選手も、誰もがサポーターのことを語った。その言葉には、支えられ続けてきた彼らに、ようやくふさわしいものをもたらすことができた安堵の気持ちがあふれていた。
おめでとう、「浦和レッズ」。言うまでもなくこの言葉は、クラブと、チームと、サポーターと、そしてレッズを愛するすべての人へのものだ。
(2003年11月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。