PKのことが、少し気にかかっている。
先月18日に行われたオマーンとのワールドカップ予選で、日本は前半29分にPKを得たものの中村俊輔が失敗した。コースは少し甘かったが、けっして悪いキックではなかった。しかしオマーンのGKハブシは、左に跳んでこのシュートをはじき出した。
ジーコ監督になってからの21試合で、日本は3回PKをもらっている。昨年3月のウルグアイ戦、そして12月の香港戦だ。最初の1本はオマーン戦と同じ中村が、場所もほぼ同じ向かって右すみにけって決めた。そして2本目は、中村が不在の試合で三都主アレサンドロがけり、左上に決めている。成功率は3分の2。3本に共通するのは、左足キックだったことだ。
PKの歴史は古い。アイルランドの弱小クラブでプレーするひとりのGKが考案し、アイルランド協会を通じてルール改正の公式機関である「国際サッカー評議会」に提案した。そして1891年の評議会で正式にルールに組み入れられた。
考案者ウィリアム・マクラムとともに、公式戦での最初のPKキッカーの名前も歴史に残されている。ベルファスト(現在の北アイルランド)の「カナディアンズ」というクラブでプレーしていたJ・ドルトンというアメリカ国籍の選手だった。1891年8月29日のことだった。
PKを、キッカーとGKの両側から見てみよう。ボールを置くペナルティースポットからゴールまでの距離は、ちょうど11メートル。ゴールの幅は7・32メートル。ゴール裏のテレビカメラを通じると、外すのが難しいほど広い角度のように見えるかもしれないが、ボールを頂点に37度の角度しかない。これにキッカーの緊張度を加味すると、どこにけっても取られそうに思えるほど狭く見えてしまうのだ。
GKは、普通、ゴールライン上、ゴール中央に立つ。そこからポストまで3・66メートル。隅ぎりぎりにけられたら、計算上はとても届かない。ところが、GKには技術がある。ゴールライン上をまっすぐポストに向かって跳ぶのではなく、斜め前へと跳ぶのだ。「ペナルティースポットとポストを結ぶ線」への最短距離は、ゴールラインの中央からその線に下ろした「垂直線」となり、これだけで15センチもボールに近づくことができる。
もうひとつ技術がある。キックの直前に1歩前に出るのだ。ルールでは「けられるまでゴールライン上にいること」となっているが、はなはだしい前進以外は、とがめられることはない。
実はオマーンのGKハブシも、中村のキックの直前に1歩前進し、そこから「垂直線セービング」を見せた。1メートル前進すると、カバーできる範囲はさらに広がる。守るべき範囲は、ゴールライン上を跳んだときより46センチも短い3・2メートル。身長184センチのハブシ。右か左か、読みが的中すれば、キックを防ぐ確率は高くなる。
こうした状況だから、最近では、PKは、正確さよりGKの反応を上回るボールスピードが求められているように感じる。とにかく強いキックで叩き込むというのが、最近のPKの傾向だ。
日本代表の中村と三都主はいずれもテクニシャンで、正確なキックをするタイプだ。こうしたキッカーだと、GKが2つに1つのヤマをかけて跳んだとき、2本に1本は止められても仕方がないということになる。
日本代表は新たなPKキッカーを探しておくべきだ。私なら、稲本潤一の思い切りの良さとパワフルなキックにかけてみる。通常、PKのキッカーは監督が決め、試合前にチーム全体に伝えておく。試合中の無用な混乱を避けるためだ。さて今夜、ジーコ監督は誰を指名するだろうか。
(2004年3月31日)
「彼はフィニッシング・タッチを取り戻した」
外電はそう伝えてきた。イングランド代表とリバプールFCのエースストライカー、マイケル・オーウェンである。先週水曜日に行われたプレミアリーグのポーツマス戦で、彼は2得点を記録して3−0の勝利に貢献したのだ。
この試合前、オーウェンは厳しい批判にさらされていた。前節の試合でPKを失敗し、チームはサザンプトンに0−2で敗れた。FAカップの試合に次いで、3月にはいって2回目のPK失敗だった。昨年11月に足の故障で短期間欠場して以来、オーウェンはプレミアリーグで9試合に出場し、わずか1得点を記録しただけだった。プレーの質が落ちていたわけではない。ただ「ゴールの女神」に見放されていたのだ。
しかし17日のポーツマス戦、先制ゴールのアシストをした後、難しいパスをトップスピードで走りながら胸でコントロールして抜け出して2点目を決め、後半にはライナーの左CKにヘディングで合わせて3点目を取った。
「フィニッシング・タッチ」という言葉に適した訳語を見つけるのは難しい。「決定力」などと言ったら、実もフタもないように思う。難しい状況のなかから一瞬のチャンスが生まれるのを予感し見抜く目と感覚、そしてフィニッシュ(シュート)の場面で必要なスキルを的確に使ってゴールを決める技術。「タッチ」という言葉には、画家の筆づかいのような、微妙な感覚を伴った技術のニュアンスがある。
週末にニュース番組でオーウェンの活躍を見ながら思い出したのは、U−23日本代表FW大久保嘉人(C大阪)のことだった。
大久保の才能に異論をはさむ余地はない。昨年のJリーグでも16ゴールを記録し、C大阪の攻撃をリードした。日本代表のジーコ監督が昨年5月に21歳の大久保をデビューさせ、その後も使い続けて世界に通じるストライカーに育てようとしたのは、当を得たことだった。
しかし日本代表では、何度も決定的なチャンスをつかみながら得点を挙げることができなかった。ひとことで言えば、「フィニッシング・タッチ」を欠いていたのだ。「決めてやろう」という意気込みが勝ちすぎ、冷静な判断や技術とのバランスを失って、大久保は「女神」から見放された。
そしてついにことし2月のワールドカップ予選(オマーン戦)のメンバーから外された。その直後にはU−23代表のオリンピック最終予選のメンバーからも落選し、ファンを驚かせた。日本代表合宿での無断外出事件にもかかわり、2月から3月にかけての大久保は、想像を絶する苦境だったに違いない。
しかしこうした苦境を、彼は見事にはね返した。C大阪でのトレーニングや練習試合で、冷静さを取り戻し、じっくりと考える時間があったのかもしれない。3月16日、U−23代表に復帰してレバノン戦のピッチに立った大久保は、昨年の上滑りしたような調子ではなかった。猛烈なファイトは見事にコントロールされていた。そして大きな価値のある決勝ゴールを決めた。2日後のUAE戦では、大久保ならではの「フィニッシング・タッチ」を見せて2得点を記録した。
2点とも、簡単な得点ではなかった。何もないところからチャンスが生まれるのを見抜く目と、瞬間的に的確なスキルを用いる天才的な「フィニッシング・タッチ」があってこそのゴールだった。
さらに3日後のJリーグで、彼は浦和から鮮やかな2点を奪った。大久保は完全に「フィニッシング・タッチ」を取り戻した。シンガポール戦のメンバーから彼を外さなければならなかったジーコは、残念で仕方がないに違いない。
(2004年3月24日)
先日決まった今年度のルール改正の話をしよう。
サッカーのルール改正を決める「国際サッカー評議会」の年次総会は2月28日にロンドンで開催された。私が期待した「FK前進ルール」や「負傷者2分間ルール」は残念ながら採択されなかった。人工芝の公式戦使用が認められ、親善試合でも交代は6人までと定められた。
いちばん大きな改正は、「得点の方法」というタイトルがついたルール第10条だろう。手で得点してもいいことになったわけではない。90分間を終わって同点の場合にも、引き分けにはできない大会における勝敗決定方法の規定が加わったのだ。そして、93年以来、国際サッカー連盟(FIFA)主催の大会で採用されてきた「ゴールデンゴール(日本ではVゴール)」が廃止された。
これからは、勝ち抜きチームを決めなければならないノックアウト方式の大会では、前後半合わせて30分間までの延長戦を行う。延長戦の間にどちらか一方のチームが得点を記録しても、決められた時間までプレーして、得点の多いチームが勝者となる。それでも決まらない場合には、PK戦で決着をつける。
新ルールは7月1日から世界中で実施される。したがって、すでに開催要項が発表されているJリーグのナビスコ杯の決勝トーナメントやサントリーチャンピオンシップも、Vゴールでなく、通常の延長戦に変わる可能性が大きい。
積極的にFIFAの大会に「ゴールデンゴール」を取り入れたのは、当時事務総長のブラッター現会長だった。ワールドカップの86年大会でベルギーが、90年大会でイングランドが、それぞれ3試合もの延長戦を戦った。合わせると、他チームより1試合分多く戦ったことになる。こうした負担を少しでも軽くしようという考えだった。当時「サドンデス」と呼ばれていたこの方式に「ゴールデンゴール」という名称をつけたのも、彼自身だった。
しかしヨーロッパを中心に、2年ほど前から批判が高まっていた。「ゴールデンゴールはサッカーの精神に反している」というのだ。
「失点という失敗があっても、決められた試合時間内ならそれを取り戻すチャンスを与えられる。それがサッカーの精神ではないか」
そう鋭く批判したのは、イングランドの名門アーセナルを率いる名将ベンゲルだった。
ヨーロッパでは昨季から「シルバーゴール」方式を採用している。延長戦にはいってどちらかが得点しても、その得点のあったハーフまでは試合を続ける方式だ。延長前半の時間内に得点が生まれても延長戦のハーフタイムまで、後半に生まれても延長戦が終わるまで試合が続けられる。
しかし試合の勝敗を決める方法の不統一は混乱を招く。そこで今回のルール改正でゴールデンゴールを廃止し、通常の延長戦に戻したのだ。そして昨年までは全17条のルール内には含まれていなかった「試合の勝者を決定する方法」のガイドラインを、第10条に組み入れ、強制力をもたせることにした。
2002年ワールドカップでは、決勝トーナメントの16試合中5試合が延長戦にはいり、3試合がゴールデンゴール、2試合がPK戦だった。
日本のファンにとって「ゴールデンゴール時代」の最高の思い出は、間違いなく、97年、マレーシアのジョホールバルで行われたワールドカップ予選アジア第3代表決定戦、イラン戦の岡野雅行のゴールだろう。
延長戦も残りわずか、通算117分の得点だった。中田英寿のシュートを相手GKがはじき、ゴール前にこぼれてきたボールを岡野がスライディングしながら押し込んだ。一瞬置いて、歓喜が爆発した。そんな経験は、もうできない。
(2004年3月17日)
アブダビから戻って数日たつが、まだ時差の影響が抜けない。
朝がつらい。目覚ましが鳴っても頭の中で5時間引いて「アブダビはまだ夜中か」などと思うと、とたんに起き上がる力が失せてしまう。その代わり、夜になると頭が冴えてなかなか寝付けない。原稿を書くにはいいが、午前中ぼうっとしているのはつらい。
オリンピックのアジア最終予選を2勝1分け、首位で折り返してUAEの首都アブダビから戻ってきたU−23日本代表。しかし休む間もなく、日曜日に始まる後半戦「日本ラウンド」の準備にはいった。残り3試合はホームの声援を受けての試合とはいえ、予断は許さない。不利な条件もいくつもあるからだ。
そのひとつが時差調整だ。アブダビでの前半戦のために、日本は試合が始まる1週間以上前に現地入りし、時差の調整を図った。そして現地時間に慣れたと思ったら、日本ラウンドのために再度時差調整しなければならない。
昨年、日本女子代表がワールドカップ予選のプレーオフをメキシコと戦ったときも、最初がアウェーだった。15時間もの時差を調整し、1週間後のホームゲームのために帰国してから再び時間を戻さなければならなかった。相手チームは、時差調整は日本に来る1回だけでいい。時差を調整するだけでかなりのエネルギーを必要とするから、それが倍になったら、大きなハンディに違いない。
今回のオリンピック予選の相手3カ国はすべて中東の国。前半戦のUAEラウンドには時差調整は必要なかった。日本のようにいちど調整したものを戻すのではなく、1回調整すればいいのだから、負担はずいぶん違うだろう。
日本にとってもうひとつの問題は、アブダビの暑さに備えたトレーニングの負担だ。
ワールドカップ・フランス大会を目指した97年のアジア最終予選で、日本は9月7日にホームでウズベキスタンと戦い、13日後の9月20日にアブダビでUAEと対戦した。「気温40度、湿度80パーセント」と予想された過酷な気象条件下の試合に備えるため、日本代表は試合の10日前に日本を出発し、UAEの隣国オマーンで暑さに慣れる過酷なトレーニングをこなした。
40度にこそならなかったが、あのUAE戦のような暑さの試合を、私はほかには知らない。日陰の記者席に座っていても、滝のように汗が流れ、下を向いてノートに書き込んでいると、その上にぽたぽたと落ちた。しかしトレーニングのおかげで日本は最後までしっかりと戦い、0−0で引き分けて勝ち点1を得た。
だがそのわずか1週間後、東京に戻っての試合では、1点を先制しながら、終盤に2点を失って韓国に逆転負けを喫し、そこから3連続引き分け、加茂監督解任など、迷宮をさまようことになる。韓国戦の最大の敗因は、オマーンでのトレーニングとUAE戦で蓄積された疲労だった。
今回のオリンピック予選では、UAEラウンド3試合の疲労は全チーム同じ条件だ。しかし日本には、その前の暑さ対策のトレーニングの疲労もプラスされる。
日本の代表チームが「アウェーで戦う」ということは、鹿島アントラーズが埼玉スタジアムで浦和レッズと戦うのと同じではない。時差、気候の変化、食事や環境の変化など、あらゆるものとの戦いに打ち勝たなければ、アウェーでの勝利はありえない。そしてその勝利は、時として大きな代償を要求する。
残された数日のうちに、日本の選手たちはどこまでダメージから回復し、コンディションを整えることができるだろうか。おそらく、100パーセントの状態にするのは無理だろう。そこに日本ラウンドの怖さがある。
(2004年3月10日)
なぜ始めたかよりも、なぜ続けているかが重要----。常々、私はそう考えている。
私がサッカーを始めてからことしで38年になる。中学3年、15歳のときに出合ったサッカー。何でもいいから思い切り体を動かしたいと考えていた時期に、ワールドカップのテレビ放送を見たのがきっかけだった。
ところがサッカー部にはいってみると、あっという間にサッカーの「とりこ」になってしまった。大学を出ると脇目も振らずにサッカーの専門誌の編集部に飛び込み、以後30年間をサッカーの取材と報道で生きてきた。
不思議でならないのは、サッカーというシンプル極まりないスポーツが、こんなに長くかかわり続けても、いまも新鮮そのものだという点だ。
どんな試合でも、見るたびに新しいものが見つかる。ワールドカップ決勝戦のような最高クラスの舞台でも、自分で監督をしている女子チームの試合でも、それは変わらない。そして短時間でも自分でボールをけり、ゲームに参加したときの喜びは、何十年を経ても変わることがない。
最初に「サッカーの快感」を味わったのはいつだっただろう。そのひとつは、中学のサッカー部にはいってしばらくしてから、紅白戦で決めた初ゴールだったように思う。
そのころはFWだった。ペナルティーエリアの右にはいっていったとき、絶好のパスが足もとにはいってきた。私の足に吸い付くようなパスだった。ボールを止める。右足を振りぬく。すべてが、無意識のなか、自動的にこなされた動作だった。気がつくと、私の右足から放たれたボールはGKの右を破り、ゴールネットに突き刺さっていた。
そのあとどんなふうに喜んだか、まったく覚えていない。いまも脳裏に浮かび、心によみがえるのは、ボールがゴールに吸い込まれていくシーン、そしてそのときの何ともいえない「完成感」(変な言葉だが、そうとしか言いようがない)だ。この人生のなかで、自分自身の力で何かを成し遂げることができる----。大げさでなく、そんな思いを抱かせる瞬間だった。
いまもいっしょにボールをけっている仲間たちと、大学時代にチームをつくった。社会人になってからは毎週日曜日に数時間会うだけだが、本当にかけがえのない仲間になった。そのグループで過ごす時間は、メンバーの誰にも、宝物のように価値のあるものに違いない。
サッカーはひとりではできない。たとえどんな天才でもひとりで試合に勝つことはできない。仲間が必要だ。仲間と心を合わせ、力を合わせることが必要だ。そしてメンバーの誰もがチームのために自分に何ができるかと一生懸命に考え、努力したとき、かけがえのない仲間が生まれる。
試合を見る喜びも、プレーすることや仲間をつくることに劣らない。ヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニ、ディエゴ・マラドーナ、ジネディーヌ・ジダン...。彼らが天才と呼ばれたのは、プレーするたびに何かを創造し、サッカーというゲームの新しい側面を見せてくれたからだ。
カズ(三浦知良)、中山雅史、森島寛晃など私が敬愛する選手たちは、いつもいろいろなものを教えてくれる。彼らのプレーを自分自身の目で見、彼らの魂を感じることができたとき、サッカーには勝利やタイトルを超越したものがあると信じることができる。
こんなふうに、私はサッカーを続け、愛してきた。
30数年間をサッカーとともに過ごしても、私が触れ、感じることができたのは、その魅力のほんの一部にすぎない。それぞれのプレーヤー、それぞれのファンには、それぞれの「愛し続ける理由」があるに違いない。あなたは、どうだろう?
(2004年3月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。