キックオフから終了のホイッスルまで、感嘆のしどおしだった。こんなに立派なサッカーを見たのは、何年ぶりだろうか。
日本女子代表が北朝鮮に勝った。幸運に助けられて勝ったのではない。攻撃でも守備でも、90分間、文句のつけようのないプレーをしての完勝だった。オリンピックの出場権がかかった試合で北朝鮮を3−0で破ったというのは、たとえていえば、男子代表がワールドカップ予選の最終プレーオフでイングランドを叩きのめしたようなものだ。
24日、国立競技場には、3万1324人という大観衆が集まった。大声援がピッチ上の選手たちに力を与え、選手たちのプレーがスタンドを燃え上がらせた。その熱気と一体感は、男子代表がワールドカップ初出場に大手をかけた97年のジョホールバル(マレーシア)でのイラン戦を思い起こさせた。
それにしても見事なサッカーだった。相手チームを研究し尽くし、日本の力と正確に対比させて戦略を練り、選手を鍛え上げた上田栄治監督の力量に改めて驚かされた。そして、それぞれの役割を忠実にこなし、自分自身の力を100パーセント発揮した選手たちの精神的な強さも見事だった。多くの選手にとっておそらく一生に何度もできないパフォーマンスを、この大事な一戦でやってのけたのは、本当にたいしたものだ。
日本のサッカーでは、女子の競技人口は男子のわずか40分の1程度にすぎない。サッカーは老若男女を問わず楽しめるゲームであるのにこれほどの差があるのは、女子がプレーできる環境がなかったためだ。男子なら、部活動やクラブなど、自分のレベルに合ったチームでプレーすることができる。しかし女子はそうはいかない。
チームがない。指導者がいない。グラウンドがない。更衣室などの施設もない。サッカーが大好きで、このスポーツを人生の友としてずっとプレーしたいという、男子ならごく普通の願いをもつ少女や女性たちが、その希望をかなえられる率はとても低い。
北朝鮮戦は16パーセントを超す視聴率を記録したという。「オリンピック予選」という呪術的な言葉に引きつけられた結果かもしれないが、視聴者は女子のサッカーの認識を大きく改めたに違いない。「女子サッカー」という特殊な競技があるのではない。男子に同じようなスピード感と創造性をもつ「サッカー」を、女子がプレーしているだけなのだ。その認識が、今後、女子の競技環境を改善する力につながってほしいと思う。
この予選をめぐる報道のなかで、選手たちの多くがアルバイトをしながらサッカーを続けていることが大きく扱われた。それをなんとかしてほしいと訴える選手もいた。
しかしそんなことは当然ではないかと、私は思う。選手たちは、誰かのためにサッカーをしているのではない。自分自身を表現する最高の手段として、自分自身のために取り組んでいるのだ。そして、彼女たちが通常プレーする試合には、数百人を超す観客がつめかけることはない。
わずか20数年の歴史しかない日本の女子のサッカーだが、企業の売名や宣伝に利用され、中途半端な状態で放り出されたことが何度もあった。そうした懸念もなく、自分自身の力で生活を立てながら誰はばかることもなく大好きなスポーツに取り組めるのは、何と幸せなことだろう。
テレビを通じて1000万の人びとを感動させても、オリンピックに出場しても、現状では、女子のサッカー選手たちは、それで生活していくことなどできない。間違いなくアルバイト生活は続く。打算で取り組んでいるわけではない選手たち。そこにこそ、彼女たちの強さと美しさがある。
(2004年4月28日)
「なぜサッカーは1チーム11人なのですか」
そう質問されて困った。「11」といえば、サッカーを象徴するといっていい重要な数字だ。しかしどんな理由でこの数に決められたか、明確な資料がない。私の説明も、推論の域を出ない。
サッカーの最初のルールは1863年に書かれた。その全14条には、1チームの人数の規定は含まれていない。「11人」が初めてルールに登場するのは、サッカーが誕生してから30年以上経た1896年のことである。
サッカーが生まれたころには、試合のたびに両チームで人数を取り決めていたらしい。それを「11人に固定しよう」と、主要クラブ同士で申し合わせしたのは1870年のことだった。翌年に始まったFAカップでは、大会規約に盛り込まれた。
ではなぜ、11人なのか。
競技としてのサッカーが、中世から行われていた「フットボール」という大衆娯楽に起源を発していることはよく知られている。しかし直接的には、イングランド各地の「パブリック・スクール」で19世紀にはいってから教育の一環として取り入れられたことが、近代的なスポーツとして成立する最大の要因となった。
パブリック・スクールとは、全寮制の男子私立中高等学校である。その寮対抗の形で行われたフットボールに、少年たちは熱中した。ただ、校内だけの競技だったから、各校はそれぞれのルールでプレーしており、進学先の大学ではどの学校のルールでプレーするかがいつも論争になった。「統一ルール制定」の動きが起こるのは当然だった。
さて、パブリック・スクールのフットボールには、大別すると、2つのタイプがあった。ひとつはボールを手にもって走るプレーを主体とするゲーム、そしてもうひとつは、原則として足でボールを運ぶゲームである。しかし1チームの人数は、学校によって実に多様だった。プレーするグラウンドの大きさがさまざまだったからだ。ある学校では、下級生は15人制、最上級生は6人制とされていた。体力に合わせたのだ。
足でボールを運ぶドリブル主体のゲームを伝統とする学校に、ロンドン郊外のハロー校があった。「ハロー・フットボール」のルールでは、試合はキックオフで始まり、「ベース」と呼ばれた幅5・4メートルのゴールがあり、オフサイドがあり、GKの原型となる選手もいた。現代のサッカーに近いゲームだった。
この学校には、縦135メートル、横90メートルのグラウンドがあった。その広さにちょうどの人数だったのだろう、1814年に「1チーム11人」と定められた。記録に残る最古の「11人」である。1863年に制定されたサッカーのルールはこのハロー校のものに近かったから、グラウンドの大きさも1チームの人数も、自然にハロー校のものが基準になったのではないだろうか。それが私の推論だ。
ところで、「なぜ11人か」というテーマで、忘れられない名解説がある。サッカー記者の大先輩である牛木素吉郎さんが、69年の「サッカーマガジン」に書かれた話である。
「人間が片目で同時に識別できる数は、4つがせいぜいであって、つまり、1人の人間は両眼で8人しか監督できない。そこで、主審と線審2人の計3人で合計24人を監督するのが限度なのである。両チーム合わせて、選手の数は22人ではないか、という質問に対してお答えすると、残りの2人は、審判員が、おたがいに、他の審判員を監督するのにあてられるわけである」
もちろんジョークである。しかし19世紀のパブリック・スクールのルールをいくら掘り起こしても、この創作ジョークの簡明さにはとてもかなわない。とにかく、サッカーは1チーム11人なのである。
(2004年4月21日)
初夏を思わせる陽気だった先週末。Jリーグに行って、自分のクラブの練習や試合に行って、副審までして、思い切りサッカーを楽しんだ。おかげでだいぶ日に焼けた。
木曜日には今月下旬のヨーロッパ遠征のメンバーが発表される。無断外出事件の8人はどうなるか、ジーコはどうチームを立て直すのかなど、あれこれ思い悩んでいたが、桜が舞い散るなかでボールをけっていたら、何か楽しいことを考えたくなった。そこで、「サッカーの世界は広い」という話を掘り起こしてみた。
最初に目に付いたのは、68年にコロンビアの首都ボゴタで行われた試合だ。
いまでこそ南米の強豪のひとつになり、ワールドカップ出場の常連になったコロンビアだが、この当時は、非常に弱い国のひとつだった。そのコロンビアの代表チームが、ブラジルのサントスFCを迎えて親善試合を行った。お目当ては「サッカーの王様」ペレである。外国のスターで観客を呼ぼうというコロンビア協会の作戦は、90年代初頭までの日本とそっくりだ。
狙いは見事に的中し、スタジアムは4万人のファンで満員となった。だがあろうことか、ギリェルモ・ベラスケスという主審がペレを退場処分にしてしまった。若いころ(といっても27歳だが)のペレは、危険な反則に怒って報復し、よく退場になっていた。
当然、ファンが騒ぎ出した。彼らの目当てはペレだけだ。ペレを見るために、通常より高い入場料を支払ったのだ。試合を続けられないほどの騒ぎに困り果てたコロンビア協会は、ベラスケス主審を副審と交代させ、ペレをピッチに戻してしまったという。
同じ年のイングランドには、決勝ゴールの得点者が主審という出来事があった。プロの3部リーグ、バロウ対プリマスでの話。CKのこぼれ球を拾ったバロウのジョージ・マクリーンのシュートはゴールを外れるコースだったが、ペナルティーエリアのラインあたりにいたイバン・ロビンソン主審を直撃、大きく跳ねてゴールにはいってしまった。
「審判は石と同じ」と、サッカーでは言われる。ボールが審判に当たってコースが変わっても、プレーはそのまま続くのだ。一瞬とまどったロビンソン主審だったが、すぐに冷静さを取り戻し、ゴールを認める笛を吹いた。その後プリマスが懸命に追い上げたがゴールを記録することはできず、結局1−0でバロウが勝った。得点者は、マクリーンと記録された。
60年代の後半というのは、いろいろ面白いことがあった時期のようだ。67年には、アルゼンチンの1部リーグで、1試合に7つものPKの判定があったという。主審はオスカル・チャベス。彼はインデペンディエンテに5本、バンフィールドに2本のPKを与えた。しかしこのうち成功したのは、インデペンディエンテの2本だけで、残りの5本は失敗に終わった。試合は3−2でインデペンディエンテが辛勝した。
どうやら、PKというのは、量産されると成功率が下がるものらしい。Jリーグの記録を見ると、過去11シーズンの全2826試合で697回PKが与えられ、523回の成功が記録されている。成功率は75パーセント。これが普通の「成功率」だろう。ところが私は、99年7月にパラグアイで開催された南米選手権で、1試合に5本のPKが与えられ、成功はわずか1本という試合を見たことがある。
2本与えられたコロンビアは1本をDFイバン・コルドバが決めたが、アルゼンチンは与えられた3本をすべてFWマルティン・パレルモがけり、全部失敗した。試合は3−0でコロンビアが勝った。
世界は広い。思い悩むより、どんなときにも前向きにサッカーを楽しんでいきたい。
(2004年4月14日)
日本のサッカーにとって、2006年は「約束の地」のはずだった。
2002年、日本は出場32チーム中最も若い、平均年齢24歳のチームで地元開催のワールドカップを戦った。4年前の98年大会に次いでこの大会もレギュラーとしてプレーしたのは、MFの中田英寿ただひとりだった。
「このチームの本当のピークは、2006年にくるだろう」。日本を率いたフランス人監督フィリップ・トルシエはそう語った。彼の言葉を待つまでもなく、それは多くの日本のファンの思いだった。
トルシエのチームの中心は、中田のほか、小野伸二、稲本潤一ら、20代前半の才能あふれる選手たちだった。こうした選手たちが何人もヨーロッパのクラブで何年か経験を積み、サッカー選手として最も脂の乗り切る20代後半を迎えたとき、日本はどんなチームとなっているだろうか...。
トルコを相手に圧倒的にボールを支配しながら、最後までゲームをコントロール下に置くことができず、ベスト16で2002年ワールドカップを終えたとき、「この悔しさこそ、4年後に飛躍するためのバネになるに違いない」と思ったのは、私ひとりではなかっただろう。「4年後」は、日本サッカーの約束された希望の年のはずだった。
しかしその道のちょうど折り返し地点のいま、私たちは、どうやら完全に迷路にさまよい込んでしまったようだ。
いまからちょうど4年前にも、代表チームは騒然とした空気のなかにあった。ソウルで韓国に0−1で負けて、一般紙の一面に「トルシエ解任」の見出しが躍ったのは、4月末のことだった。
しかし現在の混迷は、あのときの混乱とはまったく違う。4年前、トルシエは2002年に向けて着実にチームづくりを進めていた。U−20代表からスタートし、前年秋にはU−23代表をシドニー・オリンピック出場に導き、2000年のはじめにA代表とその下の年代の「融合」をスタートしたところだった。ただ、まだ「結果」が出ていないだけだった。そして、多くのファンが待望していた「強い日本代表」は、すぐ目の前にあった。
トルシエから日本代表を引き継いだジーコ現監督は、そうしたステップを踏む必要はなかった。手元には、若く、才能のある選手がそろっていた。ジーコの狙いは、彼らを真に自立させ、内面から変革させて、どんな状況にも対応できる成熟したチームをつくることだっただろう。
しかし彼は、その狙いを実現させつつチーム力を上げるコーチとしての手腕をもっていなかった。基本的な考え方の妥当性はともかく、チームづくりの前近代性は、最初の試合から明らかだった。そして1年半、22試合が空費され、混迷は深まる一方だ。
正直なところ、2004年中に軌道修正(監督交代)ができれば、2006年には間に合うだろうと私は思っていた。しかしそれは甘い考えだったかもしれない。迷路をさまよっているうちに、日本代表はどんどんレベルを落としてしまったからだ。
「ワールドカップのアジア第1次予選をなんとか勝ち抜くこと」が、日本代表チームの目標であっていいわけがない。「予選は厳しい」などというたわごとでごまかしてはいけない。死に物狂いで向かってくる相手でも、アジアの中であれば、圧倒してきちんと勝ちきるチームとしての力が、ほんの数年前の日本にはあった。いまはない。それだけのことだ。
このままジーコに任せておいても、チーム力が上がる見込みはない。日本サッカーの「約束の地」は遠ざかる一方だ。それは、苦労を重ねて選手たちを育て、レベルアップを進めてきた多くの人びとに対する大きな裏切りだ。
(2004年4月7日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。