サッカーの話をしよう

No521 ボールボーイの社会学

 中国で開催されているアジアカップのある試合で、興味深いシーンを目撃した。7月24日、タイ×日本戦の前に重慶で行われたオマーン×イラン戦のことだ。
 前半のなかば、試合はオマーンが1−0でリードしていた。イランの左サイド、ゴールラインに近いところでオマーンの反則があり、笛が吹かれてイランのFKとなった。ボールはいったんコーナー付近から外に出たが、広告看板にぶつかってころころとピッチ内に戻ってきた。
 リードされていらいらしていたイランの左サイドバック、ハダビが、タッチラインの外に座っていたボールボーイのひとりに「早くボールをよこせ!」と怖い顔で怒鳴った。しかしボールボーイは動じなかった。座っている椅子から腰も上げず、手のひらを上にして右手を上げ、「お前の後ろにある」とやり返したのだ。

 ハダビが振り向くと、たしかに、そこにボールが転がってきていた。彼はおとなしくそのボールを拾うと、小さくキックしてインプレーの状態に戻した。
 小さな出来事だった。しかし私はボールボーイの毅然とした態度に、思わず吹き出してしまった。そして98年のワールドカップ・フランス大会のことを思い出した。
 1試合にたくさんのボールを用意しておき、外に出たらすぐに代わりのボールを入れて無駄な時間を減らそうという「マルチボール・システム」がワールドカップで初めて採用されたのは、この大会だったと思う。すでにJリーグでも採用されており、日本ではおなじみだった。
 ところが同じシステムでも、Jリーグとフランスでのワールドカップではずいぶん違いがあるのに気づいた。Jリーグでは、ボールが出るとその近くのボールボーイがほとんど即座にボールを投げ入れ、選手たちもそれに反応する。その呼吸は本当に見事だ。

 ところがフランスでは、出てからボールが投げ入れられるまでにずいぶん時間がかかるのだ。「ずいぶん」と言っても、数秒のことだっただろう。しかしそれが、とてももどかしく感じられた。
 だがよく観察すると、これは「コミュニケーション」の問題であることがわかった。フランスの少年たちはボールが出たというだけでは投げない。ボールを右肩の上に持って投げ入れる準備はするが、受ける選手と目が合うまでは、けっして投げないのだ。
 何かを「渡す」という行為は、渡す側だけの意思だけでなく、受け取る側の意思がなければ成り立たない。それを互いに確認するのが、目と目を合わせる「コミュニケーション(相互の意思疎通)」である。フランスの少年たちは、「コミュニケーションができなければ物を渡すことはできない」という、日常生活では当然のことをしていたのだ。

 Jリーグでは、ボールボーイたちは、「出たら即座に投げなさい」と指導されている。選手とのコミュニケーションなど関係ない。選手も、ボールが出たら、ボールボーイから渡されるのではなく、どこからか即座にはいってくるから、それに対応する。
 中国のボールボーイは、中国人の自己主張の強さを象徴しているように感じた。
 十数億もの人がいる国では、自分自身で何かを主張しない限り、埋もれてしまう。誰か周囲の人が引き上げてくれるなどありえない。誰に何を言われようと、自分の考えを押し通す。
 決められたことをきっちりとやろうとする日本のボールボーイ。コミュニケーションが取れなければボールを渡さないフランスのボールボーイ。そしてどんな権威にも動じない中国のボールボーイ。
 ピッチの周囲の小さな脇役たちからも、文化の違いを明確に見て取ることができる。
 
(2004年7月28日)

No.520 審判を聖域化しないAFC

 普通の客室からベッドを取り払い、10数個の椅子とプロジェクター用の白いスクリーンを置いただけのホテルの一室。しかしそこでは、アジアのサッカーを担う「もうひとつのチーム」の重要なミーティングが行われていた。
 7月18日日曜日午前10時。中国・北京の高級ホテルの11階の部屋で始まったのは、前日に工人体育場で行われたアジアカップの開幕戦、中国対バーレーンの審判団の「レフェリング反省会」だった。
 出席者は、この試合を担当したスブヒディン・モハド・サレー主審(マレーシア)を中心とした4人の審判員と、この大会の北京地区を担当する残り4人の審判員、そしてアジアサッカー連盟(AFC)審判委員会委員長で、「アジアの審判員の父」といわれるファルク・ブゾー氏(シリア)。さらに、私を含め、数人のジャーナリスト...。

 そう、AFCは、審判員の反省会を、報道関係者にもオープンにし、同席だけでなく、場合によっては質問や発言まで許したのだ。世界でも初めての試みだという。
 まず、サレー氏が「自己評価」を求められる。
 「開幕戦で、多くの人が私たちを見ているという責任感を感じた。しかしプレッシャーはなかった。全力を尽くすことだけを考えた」
 前に進み出た37歳の陽気な主審は、自信に満ちた言葉で振り返った。
 この試合では、1点をリードされた地元・中国が後半猛攻をかけ、10分過ぎにPKを与えられて追いついた。そのPKの判定と、そして、いったんはPKからシュートを決めたDFの鄭智にキックのやり直しを命じたことが、大きな話題となった。
 「ペナルティーエリア内でバランスを崩して倒れたバーレーンの選手が、意図的に手を伸ばしてボールに触れたのを確認した」。サレー主審はそう説明した。ビデオを再生すると、その言葉どおり、明確なハンドの反則だった。

 「この判定の良かったポイントは何か」。ブゾー委員長が審判たちを見回す。
 「ポジショニングが的確だった」。日本の上川徹主審が手を上げて答える。
 「そう、距離も角度も非常に的確だった。それから?」
 「自信にあふれていた」
 そう答えたのは、第4審判を務めたレバノンのタラート・ナジム氏だ。
 「そのとおり。笛の吹き方も、ペナルティースポットを指し示す動作も、冷静で、自信が強く感じられた。だから選手たちからは何も抗議が出なかっただろう?」
 ブゾー委員長の言葉に、サレー主審は満足そうな笑顔を浮かべた。
 驚いたことに、PKのやり直しを命じたのは、サレー氏にとって審判生活で初めてのことだったという。しかしキッカーの鄭智がける前に他の中国選手が大きくペナルティーエリアにはいっていたため、迷うことはなかった。

 「的確な判定だった。これで、今後、選手たちが注意するようになるだろう」と、ブゾー委員長はほめた。
 ほめるだけではない。編集したビデオを見ながら、細かな点まで批評し、改善点を指摘した。そしてサレー主審には、「いいレフェリングだった。しかし満足してはいけない。満足すれば、その後は落ちるだけだ。次に担当するときには、もっといい試合をしようと努力しなければならない」と、強い言葉で要求した。
 アジアの審判レベルを上げたいというブゾー委員長の情熱と審判員たちの真剣な取り組みに、深い感銘を受けた1時間だった。そしてまた、こうした話し合いを審判委員会と審判員だけのものにせず、すなわち審判を「聖域化」せず、ファンにも広く知ってもらおうと、報道関係者にまで公開したAFCの姿勢は、それ以上に大きな驚きだった。
 
(2004年7月21日)

No.519 男子オーバーエージと女子サッカー

 アテネ・オリンピックの開幕まで1カ月を切った。開会式は8月13日だが、試合と試合のインターバルを数日間とらなければならないサッカーは、その2日前の11日に第1戦が行われる。
 男子で話題になっているのが「オーバーエージ枠」の問題だ。オリンピックは「23歳以下」(正確に言えば1981年1月1日以降生まれ)という年齢制限があるが、18人の登録枠中、3人までその制限を超える選手を起用していいというルールだ。
 山本昌邦監督は、GK曽ヶ端準(鹿島)、MF小野伸二(フェイエノールト=オランダ)、FW高原直泰(ハンブルガーSV=ドイツ)の3人を予備登録に入れた。「オーバーエージ」と言っても、3人とも79年生まれで2歳しか違わないのだから、溶け込むのも容易なはずだ。

 ところで、オリンピックの「オーバーエージ枠」が、女子サッカーの発展に大きく関与するという、意外なつながりを知る人は多くはない。
 オリンピックのサッカーで正式にプロの出場が認められたのが1984年ロサンゼルス大会。88年ソウル大会までは、ワールドカップに出場したことのない選手という条件がつけられていた。
 主催の国際オリンピック委員会(IOC)は、一切の制限を取り払い、最高クラスの選手が集う大会にしたいという希望をもっていた。大きな競技場を使って32試合も行うサッカーは、どの大会でも最大の観客動員力がある。世界的なスターが出場すれば、さらに大きな収益が見込めると計算したのだ。
 しかしサッカー競技の運営に当たる国際サッカー連盟(FIFA)は断固反対だった。「ワールドカップはひとつでいい。それは私たちが主催する大会だ」。それがFIFAの立場だった。

 FIFAには、17歳以下と20歳以下という年齢制限を設けた2つの世界選手権があった。そこで、オリンピックを23歳以下の世界選手権と位置づけようと、IOCの反対を無視し、92年バルセロナ大会で新方式を断行した。
 IOCは悲鳴を上げた。この大会は地元スペインが優勝して盛り上がったが、スペインが出場した試合以外は空席が目立った。再び年齢制限の撤廃を求めたが、FIFAは「3人のオーバーエージ枠」という代替案を示した。
 その譲歩の見返りとして、FIFAが求めたのが、オリンピックでの女子サッカーの実施だった。もしかすると「オーバーエージ枠」でスーパースターが出場するかもしれないという誘惑に、IOCは逆らうことができなかった。結局、要求をのんだ。そして96年アトランタ大会から、「オーバーエージ枠」が制度化され、同時に女子サッカーがオリンピックの一員となった。

 91年に第1回女子ワールドカップが開催されて、急速に発展しつつあった女子サッカー。その流れを加速したのは、間違いなくオリンピックの正式種目化だった。もちろん女子には、オリンピックでも男子のような年齢制限は存在しない。オリンピックの金メダルは、女子ワールドカップ優勝と並ぶ「世界チャンピオン」のタイトルなのだ。
 IOCとFIFAは、ことしもドーピング検査の基準をめぐって対立、一時は「オリンピックからサッカーが除外されるかもしれない」との憶測も流れた。しかしサッカーを外したらオリンピックの財政は成り立たない。そしてFIFAにとっても、男子はワールドカップに直結する若手プロの登竜門であり、女子にとっては世界に注目される最高の舞台とあって、オリンピックはいまや不可欠な存在となった。両者の利害が一致して、いまのところ、オリンピックからサッカーが消える可能性は低い。
 
(2004年7月14日)

No.518 ギリシャの優勝

 「私たちには、失うものなど何もない」
 そう言い続けて1つひとつの試合を戦ってきたギリシャが、ヨーロッパ選手権(EURO2004)で初優勝を飾った。地元ポルトガルとの決勝戦は、最初から最後までギリシャらしいサッカーを貫き、後半12分にFWハリステアスが決めた1点で、ギリシャとヨーロッパのサッカー史に新しい1ページを書き加えた。
 正直なところ、6月12日の開幕戦を見るまで、私はギリシャを完全に見くびっていた。ギリシャを見るのは、実に10年ぶりのことだった。94年のワールドカップ・アメリカ大会では、個々の技術は優れているものの、時代遅れの戦術と、チームとしての完成度の低さばかり目立った。間違いなく、あのワールドカップに出場した24チーム中、最もレベルが低かった。

 けっして「サッカー小国」というわけではない。むしろ、サッカーに対する熱狂ぶりで有名な国だ。しかしその情熱の大部分は、国内のクラブサッカーに向けられていた。首都アテネの3大クラブ、パナシナイコス、AEKアテネ、そしてオリンピアコスの対決が、この国のサッカーのすべてといっても過言でないほどだった。
 代表チームは、まったくと言っていいほど成果を上げていなかった。メジャーな選手権の決勝大会に出場するのは、80年ヨーロッパ選手権(イタリアで開催)、94年ワールドカップに続いて今回がわずか3回目。過去の2大会は、もちろんいずれも1次リーグで敗退し、6試合プレーして1分け5敗という成績だった。

 その状況を劇的に変えたのが、ドイツ人監督のオットー・レーハーゲルだった。ベルダー・ブレーメンをブンデスリーガの2部から引き上げ、チャンピオンにまでした名監督。奥寺康彦が、ブンデスリーガ在籍の9シーズンのうちの6シーズンをこのレーハーゲルの下で過ごし、厚い信頼を受けて活躍したことでも知られている。しかし代表チームの指揮を執るのは、ギリシャが初めての経験だった。
 レーハーゲルはギリシャ代表に何が足りないかをよく知っていた。チームプレーの欠如、そして代表チームでのプレーに対する消極性。2001年に就任すると、彼は情熱を込めて選手たちと接し、その基本的な態度を180度変えてしまったのだ。

 今大会の開幕戦でギリシャを見て感じたのは、11人の選手たちがチームの勝利のために自らの役割を徹底してこなそうとしている姿勢だった。フィーゴ、ルイ・コスタといったポルトガルのスターたちの餌食になるのではないかと予想していたのだが、彼らはチームの結束で見事にそれをはね返し、自分たちの特徴を生かした攻撃を繰り出して2−1の勝利をつかんだ。
 チームプレーの徹底という面でギリシャに比肩できたのは、今大会ではチェコぐらいだっただろう。フランス、オランダ、ポルトガルといった優勝候補たちが「代表チームではこれが限界」と言わんばかりに個人技主体のチームとなってしまったなかで、ひとつの意思を表現する集団としてプレーしたギリシャとチェコは傑出していた。
 ギリシャは、準々決勝以降の3試合をすべて1−0、しかも決勝点はすべてヘディングで決めて勝った。1対1の守備の場面での相手への寄せのスピード、ファウルをせずにスライディングしながらボールを奪う技術は、相手チームのスターたちから「マジック」を奪った。
 全員がチームの勝利だけを目指してプレーし、自分たちの特徴を生かしきったギリシャの優勝。ビッグチームが次つぎと消えてがっかりしたファンも少なくなっただろうが、私には、「サッカーが勝った」大会のように思えた。
 
(2004年7月7日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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