ドイツへの道----2006年ワールドカップ・ドイツ大会へ向け、アジアでは「最終予選」を戦う8チームのうちまだサウジアラビア1つしか決定していない。日本も10月13日のオマーン戦(マスカット)という関門が待っている。ところが世界には、「ドイツへの道」へのゴールが見えるところまできた地域がある。オセアニアだ。
2002年に単独のワールドカップ出場枠を保証されながら、昨年ひっくり返されて0・5枠に逆戻りしてしまったオセアニア。この地域を勝ち抜いても最終的には南米予選の第5位とプレーオフを戦わなければならないが、そのオセアニア代表を決定する「最終予選」の組み合わせが早くも決まった。オーストラリア対ソロモン諸島である。
オセアニアでは、これまでオーストラリアとニュージーランドの力が傑出しており、2002年ワールドカップの予選ではオーストラリアがアメリカ領サモアに31−0という国際Aマッチ最多スコアで圧勝したこともあった。実は、「強いのは2チームだけ」というイメージこそ、昨年の「出場枠削減決定」の重要なファクターだったのだが、ことし5月の1次予選に続いて6月にオーストラリアのアデレードで行われた第2次予選は、「2強時代」がすでに過去のものになりつつあることを示すものとなった。
6チームの総当たり方式で行われたこの2次予選、オーストラリアは初戦から4連勝してあっさりと2位以内、最終予選進出を決めたが、ニュージーランドがバヌアツに2−4で敗れる波乱があったのだ。ソロモン諸島はニュージーランドに0−3で敗れていたが、最終日にオーストラリアと対戦し、FWメナピの2ゴールで2−2の引き分けに持ち込んだ。その結果、ソロモン諸島が2位になり、オーストラリアへの挑戦権を獲得してしまったのだ。
ニューギニア島の東に浮かぶ100近い島からなるソロモン諸島。人口約7万の首都ホニアラのあるガダルカナル島は、第2次大戦中の日米の激戦地でもあった。現在の総人口は約45万。登録サッカー選手数は1000人あまりと少ない。
しかし20世紀の4分の3を占めたイギリス保護領時代の影響から、サッカーへの関心は高い。1999年からは国際サッカー連盟(FIFA)の援助を受けて施設を拡充してきた。全員アマチュアとはいえ、代表チームもイングランド・サッカー協会から派遣されたアラン・ジレット監督の指導でめきめきと力をつけた。ジレット監督は、80年代末に日本でフジタ工業(現在の湘南ベルマーレ)を指導した経験をもつ人だ。
オセアニアの予選は少し変わっている。今後1年の間に、オーストラリアとソロモン諸島はホームアンドアウェーの「決勝戦」を2回、計4試合行う。ワールドカップ2次予選が、「オセアニア選手権」の2次予選を兼ねていたからだ。
まずことし10月に「オセアニア選手権」の決勝を戦い、来年6月にドイツで行われるFIFAコンフェデレーションズカップ(日本も出場)出場チームを決める。さらに来年もういちど対決し、ワールドカップ出場をかけて南米5位に挑むオセアニア代表を決定する。
来月の「第1回決戦」に備えて、オーストラリアのフランク・ファリナ監督はFWキューウェル(イングランドのリバプール所属)を含む最強のメンバーを招集した。強化の面で、コンフェデレーションズカップ出場は大事だ。そしてそれ以上に、急成長を続けるソロモン諸島をこのあたりでしっかりと叩いておかなければならないからだ。
試合は10月9日(ホニアラ)と12日(シドニー)。「ドイツ」に向けて、オセアニアのサッカーが最初のクライマックスを迎える。
(2004年9月29日)
「大変だったでしょう」
9月8日のインド戦を終えて帰国した後、会う人ごとにそう言われた。ハーフタイムの停電事件だ。日本代表が勝ったことよりも、停電のほうが日本のファンの間では大きな話題になっていたらしい。
日本が1点をリードして迎えたハーフタイム、突然スタジアムが暗くなった。しばらく待つとスタンド上部の記者席は電気がついたり消えたりを繰り返すようになったが、スタジアムの照明は戻らない。結局、後半が始まったのは、前半終了から45分も経過した後だった。
私自身は、取材中にスタジアムの照明が落ちてしまった経験が何回かある。停電自体にはそう驚かなかった。
1987年にポルトガルでヨーロッパ・チャンピオンズ・カップを取材したときには、後半の途中に突然スタジアムが真っ暗になってしまった。停電ではなく、誰かが誤って照明のメインスイッチを切ってしまったらしく、数分後には照明が戻った。
真っ暗な間、スタンドのファンが非常に冷静なのに感心したことを覚えている。騒いだり、あわてて動いたりしたら、大きな事故につながる危険性がある。停電で最も怖いのは、観客のパニックだ。
最も奇妙な「停電体験」は、99年のワールドユース選手権(ナイジェリア)だった。決勝トーナメント進出をかけた1次リーグ第3戦、バウチで行われた日本×イングランド戦のことだ。
引き分ければいい日本だったが、イングランドの予想外のがんばりで苦しい試合になった。前半30分、FW永井雄一郎(当時カールスルーエ、現在浦和)に代えてMF石川竜也(当時筑波大、現在鹿島)を入れ、左サイドの守備を強化した直後に、突然、スタジアムが暗くなった。
バウチのスタジアムには4基の照明塔がそれぞれのコーナーに設置されていた。そのうちの2基、イングランドのゴール裏の照明が消えてしまったのだ。不思議なことにメインスタンド側の1基はいくつかの電球が生きていて、弱い光を放っている。一方、日本のゴール裏の2基は、まったく問題がなかった。
ナイジェリアに滞在中は、毎日のように停電があった。だからこのときも驚かなかった。チュニジア人のムラド主審も平然と試合を続けさせた。日本選手からは、ボールも相手もよく見える。しかしイングランド選手たちは非常にやりにくいに違いない。イングランドの監督がしきりに何かを叫んだが、試合はそのまま続行された。
FW高原直泰(当時磐田、現在ハンブルガーSV)がファウルを受けて相手ゴール正面やや右で日本がFKを得たのは38分のこと。MF小野伸二(当時浦和、現在フェイエノールト)が小さく動かし、左利きの石川がきれいにゴールに叩き込んだ。このとき、イングランドのGKからは、選手やボールがシルエットのようにしか見えなかったはずだ。あまりフェアな形での得点とはいえなかった。
このまま照明が消えたままだったら後半は苦しいぞと思っていたら、ハーフタイムのうちに全照明が生き返った。後半の立ち上がりに小野が見事なゴールを決め、日本は2−0で勝った。
この後、日本は調子を上げて勝ち進み、世界大会で初めて準優勝という快挙を成し遂げた。そこで得た自信をベースにこの大会に出場した選手たちの何人もが2002年ワールドカップでも日本の屋台骨を背負ったことを考えると、あの停電は、日本サッカーにとって天の助けのような出来事だったのかもしれない。
サッカーではいろいろなことが起こる。そして小さなハプニングがチームや選手たちの命運にさまざまな影響を及ぼすこともある。
(2004年9月22日)
先週コルカタで行われたインドとのワールドカップ予選は、私にとっても特別な体験だった。「アウェー」の試合はたくさん経験しているが、10万人近くの相手サポーターの前での試合というのは初めてだったからだ。
インドのファンは非常にフェアだった。日本チームに敵意を示すわけではなく、ひたすらインドに声援を送った。インドがボールをもってチャンスを迎えそうになると、猛烈な声援となった。
10万人がいっせいに発する声がどんなパワーをもつか、表現する力は私にはない。しかしピッチ上の日本選手たちが少なからぬプレッシャーを受けたのは間違いない。
一部に組織化された「応援団」のような人びとはいたが、スタンドの大部分は普通のファンのようだった。しかしその大半がいっせいに大声を出してインドを応援するのだ。その迫力は、どんなJリーグのスタジアムでも経験できないものだった。
その試合を見ながら、だいぶ前に、あるJリーグ・クラブの役員に提案し、日の目を見なかった「歌うスタジアム」のことを思い出していた。
別に大きな費用を必要とする話ではなかった。ただ、スタジアムに集まった全員が大声で歌えるような雰囲気をつくろうという話だった。
そんなことを思いついたのは、96年にイングランドで見たヨーロッパ選手権の光景が印象的だったからだ。
この大会では、試合前やハーフタイムにいろいろな音楽を流したが、多くはファンに歌わせるための音楽だった。
クイーンの「We will Rock You」では、曲が始まるとスタンドは手拍子で包まれ、サビの部分になると全員が歌った。試合前の盛り上げにこれほど効果的な曲はなかった。
この大会で大ヒットした「Three Lions」がハーフタイムにかかると、スタンドのファンはみんな立ち上がり、踊りながら歌った。「66年にワールドカップで優勝して以来、イングランドは負け続けだったけれど、私たちはいつでも胸に3頭のライオンのマークをつけたイングランド代表を愛している」という、ちょっぴりのペーソスを交えた歌詞は、イングランドの人びとの心をとらえていた。
歌っているファンの表情を見ると、本当に楽しそうだった。大声を出して歌うことの開放感、そしてスタンドの全員が歌うことで生まれる心を揺さぶるパワーを、誰もが楽しんでいた。
日本では、歌うのは一部のサポーターだけだ。同じチームを応援していても、一般のファンは、手拍子はするものの自分では歌わず、サポーターの歌を聴いているだけだ。それでも十分楽しい。しかしもしスタジアム全体で歌う雰囲気をつくることができたら、サッカー観戦はもっともっと楽しいものになる。
試合中は固唾を飲んでプレーを見守り、好プレーに歓声を上げる。しかしハーフタイムになったら、リラックスした雰囲気のなか、みんなといっしょに歌い、応援とはまた違った喜びを体験する。そんなスタジアムになったら、ファンの数もどんどん増えていくのではないか----。そう思ったのだ。
コルカタでは歌は出なかった。しかし誰もがいっせいに大声を上げてインドを応援していた。そこには「歌う人と聴く人」の区別はなかった。10万人がひとつのプレーに反応し、いっせいに声を上げていた。
懸命な声援にもかかわらず、インドは0−4で敗れた。しかし人びとは試合後も驚くほど陽気で、なぜか幸福そうだった。それは、10万もの人びとが心をひとつにして声援を送り続けるという非日常的なイベントに参加できたことから生まれた幸福感ではないか----そう感じた。
(2004年9月15日)
アテネ・オリンピックの女子サッカーで、日本女子代表(なでしこジャパン)がフェアプレー賞を獲得した。
国際サッカー連盟(FIFA)運営の大会では、毎試合、マッチコミッショナーがフェアプレーポイントをつける。イエローカードやレッドカードの数だけでなく、相手選手やレフェリーへの敬意、ベンチでの控え選手や役員の態度、積極的な攻撃を試みたかなどがチェックされ、ポイント化される。それを平均し、最も高得点だったチームにフェアプレー賞が与えられる。
今回、日本は3試合を戦って857ポイント。スウェーデンと並ぶ最高得点で、両者受賞となった。
女子の1次リーグが男子の試合と組んで行われるおかげで、オリンピックでは女子と男子の試合を交互に見ることができる。誰もが気づくのが、女子の試合のクリーンさだ。
勢い余っての反則、技術が未熟なための反則はある。だが男子サッカーではどの試合でも見られる故意の反則、報復行為などほとんどない。今大会も、女子の試合では、一発退場は皆無だった。世界のトップクラスといっても、総合力からいえば男子高校生ぐらいのレベルかもしれないが、女子の試合が見ていて心地よいのは、そのためもある。
なかでも日本のクリーンさは群を抜いていた。アメリカとの準々決勝まで3試合を戦い、1枚もイエローカードを出されなかったのだ。出場全10チームで唯一の記録だ。
上田栄治監督が率いた今回の「なでしこジャパン」は、昨年の女子ワールドカップ(アメリカ)でも3試合を戦ってイエローカードなしという記録を残している。この大会では、フェアプレー賞の対象がベスト8以上に限定されたため受賞は逃したが、2つの世界大会で連続してイエローカードなしというのは、おそらく、FIFAの大会の歴史でも空前の記録だろう。
日本選手があまりにひ弱で反則さえできなかったのではない。それどころか、ラインを前へ前へと押し上げ、前線から積極的に相手にプレッシャーをかけ、ときには激しくボディーコンタクトしながらボールを奪おうと戦った。しかしきたないプレーや卑劣な反則は一切なかった。
スウェーデンを倒した歴史的な1勝の後、日本はナイジェリアと対戦、相手の激しい当たりに苦しんだ。この日の主審があまり反則をとらなかったため、ナイジェリアの反則はエスカレートし、そのなかでMF宮本ともみが右足に8針も縫う裂傷を負うというアクシデントも起こった。
しかし日本の選手たちは冷静さを失わなかった。ナイジェリアの当たりに慣れると、いつものようにしっかりとパスをつないで中盤をつくり、試合を次第に日本ペースに変えていった。
試合後、取材陣はミックスゾーンと呼ばれる場所で選手たちから話を聞くことができる。この日のミックスゾーンで、私は深い感銘を受けた。
松葉杖をついて出てきた宮本が、まったくいつもと変わらない穏やかな表情で話をしているのだ。ナイジェリアに0−1で敗れた悔しさ、自らの負傷、次の試合に対する不安などを一切表に出さず、ひとつひとつの質問に、礼儀正しく、ていねいに受け答えをしている。他の選手たちも同じだった。自分自身の反省を語り、次の試合に向けての課題を語った。
「この選手たちは、本当に強いんだ」
そう感じた。その強さは、おそらく、サッカーに対する純粋な情熱から出ているのだろう。サッカーを心から愛し、楽しんでいるから、余計な反則はせず、自分たちのプレーに集中できるのだ。フェアプレーの原点は、そこにあるに違いない----。私はそう確信した。
(2004年9月9日)
台風16号が通り過ぎて、夏が終わった。ヨーロッパ選手権からアジアカップ、アテネオリンピックと続いた2004年の長い夏が終わった。
きょうは、この夏でいちばん、私が自分自身を恥じた瞬間の話をしよう。それは7月31日、中国の重慶で行われたアジアカップ準々決勝のことだった。
ヨルダンとの準々決勝は予想に反して苦しい試合となった。相手より休みが1日短く、しかも大半の選手が休みを取らず4試合連続出場となったためだろうか、日本は非常に動きが悪かった。完全な劣勢だったわけではないが、次つぎと守備を突破され、シュートを打たれた。1−1の同点でどうにか120分間をしのぎ、PK戦に持ち込んだという形の試合だった。
そのPK戦。先攻日本の2番手三都主アレサンドロが、1番手中村俊輔のキックをコピーするように、踏み込んだ立ち足を滑らせて大きくけり上げてしまった。すでに、ヨルダンの1番手は、右足で力強くけり込んでいた。
信じ難いことが起こったのはそのときだった。ヨルダンの2番手のキック順だというのに、日本のキャプテン宮本恒靖が主審のところに走り寄り、両手を後ろに回して何かを必死に懇願している。さらに信じ難い光景が続いた。本部役員のところに行って何かを確認した主審が、PK戦で使用するゴールを変更すると指示したのだ。
抗議するヨルダン。混乱するピッチ。混乱が収まり、代えたゴールでヨルダンの2番手が決める。3番手になって日本は福西崇史がようやく決めたが、相手も決めて1−3。絶体絶命の状況だ。しかしここでGK川口能活が奇跡を起こす。相手の4番手のキックを左手1本で止め、5番手は右に外す。5人を終わって、日本が3−3に追いつく。
ところが日本の6番手、中澤佑二のキックは相手GKにストップされる。相手の6番手はFWズブン。それまでの試合を見て、私が最も警戒していたスーパーサブだ。この試合も後半半ばに出場し、まだ十分足に力が残っている。
このときである。
PK戦が行われていたゴールに近いスタンドに設けられた記者席で、私は思わず目をつぶって祈ろうとしたのだ。
「いけない!」
つぶりかけた目を、私は見開いた。どんな状況になっても、日本の選手たちはけっしてあきらめず、顔を上げて必死に勝利を目指している。それを最後まで見守るのが、私の役目ではないか----。
その瞬間、ズブンの強いシュートを、左に跳んだ川口が右手1本ではじいた。ボールは計ったようにバーに当たり、ピッチ内に落ちた。そして続く7番手宮本が冷静に決め、追い詰められた相手のキックはポストを直撃して日本の準決勝進出が決まった。
私が深く自分自身を恥じたのは、一瞬でも、目をつぶって何かにすがろうとした弱さだった。1997年のワールドカップ・アジア最終予選を通じて、可能性がある限り最後の最後まで戦うメンタリティを得たつもりだったのに、何という弱さだろうか。
試合後川口は、相手の4人目から事前にコースの予測をやめ、キックに反応することにしたのだと語った。あとでビデオを見ると、ボールをセットするキッカー、ズブンの一挙手一投足を、彼は表情ひとつ変えずに凝視していた。何の力みもなかった。結果も考えていないようだった。ただ、自分が、そして自分のみができることに集中していた。そこに、虚勢ではない本物の「強さ」があった。
夏が終わり、9月8日のインド戦(コルカタ)からワールドカップ予選が再開される。私も、もういちど強いメンタリティを思い起こして取材に当たらなければならない。
(2004年9月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。