エメルソンの右足から放たれたボールが不思議な弧を描いて舞い上がった。息を呑むスタンド。一瞬後、ボールを吸い込んだゴールネットが揺れた。「浦和の夢」が大きく近づいた瞬間だった。
「サッカーの広告のような試合だった。両チームとも攻撃的で、積極的に得点を狙いにいった」と、浦和のブッフバルト監督が語ったハイレベルな攻防の前半。しかし後半は一転して、「浦和の強さを見せつけられた」(鹿島・トニーニョ・セレーゾ監督)試合となった。
先週土曜日、鹿嶋で行われた鹿島アントラーズ対浦和レッズは、Jリーグ第2ステージのタイトルの行方を大きく浦和に傾かせる結果となった。後半39分のエメルソンの決勝点で3−2の勝利を収めた浦和は、2位に勝ち点5差をつけ、優勝に向かって大きく前進した。残り5節の対戦カードを見れば、この勝利で浦和優勝の可能性は非常に高くなったと言えるだろう。
浦和は8月からの第2ステージで急に強くなったわけではない。シーズンの序盤こそ負けが込んだが、5月以降は25の公式戦で実に18勝4分け3敗という抜群の成績を残しているのだ。6月から9月にかけては公式戦で9連勝。うち6試合は1点差勝ちという勝負強さも見せた。
5月からの急上昇は、今季前にサンフレッチェ広島から獲得したDF田中マルクス闘莉王の、オリンピック予選での負傷からの復帰と符合する。エメルソン、永井雄一郎、田中達也とそろったFW陣の得点力は昨年から定評があった。今季の好成績は、守備陣強化の成果なのだ。
ロシア代表のDFニキフォロフの負傷からの回復が思わしくないと見ると、7月はじめに韓国の仁川からトルコ代表DFアルパイを補強し、さらに日本代表DFの坪井慶介が代表の試合で故障すると、ためらうことなく8月にブラジル代表DFのネネを獲得した。万全の守備陣を築いたことがそのまま成績に反映されているのが今季の浦和だ。
昨年浦和に初めてのタイトル、ナビスコ杯優勝をもたらしたオフト監督との契約を更新せず、かつて浦和の守備のリーダーだったブッフバルトを監督として呼び戻した。何が何でも優勝するという姿勢は、シーズン前の補強に明確に表れていた。
代表クラスの日本人選手の補強は闘莉王ひとりにとどまらなかった。清水からMF三都主アレサンドロ、名古屋からMF酒井友之...。9月にMF山瀬功治と長谷部誠が相次いで負傷しても、厚い選手層を生かして乗り切った。
これほどの大型補強が可能になったのは、けっして大金持ちの「パトロン」がいるからではない。いや、「パトロン」はいる。地域のファン、サポーターだ。入場料収入、グッズ売り上げはJリーグでも群を抜く。関心が集まるから、スポンサーからの収入も増える。今季これまでの12のホームゲームで平均3万6044人という驚異的な観衆の多さ、地域からの熱烈なサポートこそ、浦和がもつ最大の「財源」なのだ。
地域との結びつきは一朝一夕で成されたものではない。十数年前から積み重ねてきた小さな努力の結晶である。常にファンの立場に立ち、試合を新鮮な思いで楽しんでもらおうという運営努力、思いが余って暴走を繰り返してきたサポーターたちとの密接な対話、地域に深くはいり込んだ営業努力...。チーム強化では失敗を繰り返してきた浦和だが、地域のファン、サポーターとの絆はどこよりも強く、そして広範にわたっている。
そのファンが待ち望んだものの実現へと、いま、一歩一歩進んでいる。「浦和の夢」が近づいている。地域の力を結集して、Jリーグに新しいチャンピオンが生まれる。
(2004年10月27日)
来月17日に埼玉スタジアムで行われるワールドカップのアジア第1次予選最終戦、シンガポール戦についてのジーコ日本代表監督の「計画」が波紋を広げている。
先週マスカットでオマーンに1−0で勝ち、日本はこの試合を待たずに最終予選進出を決めた。残る1試合で、ジーコは「日本のために長年戦い、歴史を築いてきてくれた人びとにプレーしてもらいたい」という意向を表明した。
試合後に彼から直接その考えを伝えられた日本サッカー協会の川淵三郎キャプテンは、その話のなかにカズ(三浦知良)や中山雅史の名前が挙がったことを明らかにした。
さまざまな意見が出ている。「現役である以上、常に代表を目指してプレーしている」と語る選手たちに対して失礼ではないかという意見。若い選手にチャンスを与えるべきだという意見...。もろ手を挙げて歓迎の空気ではない。
最初に彼がこの計画について漏らしたのは、試合直後の記者会見においてだった。
「シンガポール戦はどう戦うのか」という質問が出たのは、オマーンとの対戦を振り返った後だった。
「いまは最終予選に進出した喜びをかみしめたい」。そう切り出した後、ジーコの表情がゆるんだ。そして「実はひとつのアイデアがあるんだ。ただこれは川淵キャプテンと話し合ってからでないとお話しできない」と続けた。
どんなアイデアなのか、その場では、彼は具体的なことは話さなかった。試合日の深夜の便で現地を離れた私がジーコの計画を知ったのは、翌日、関西空港に到着して買った新聞を開いたときだった。
この計画に異論を唱える人びとの思いはわかる。私も、これまで出場機会に恵まれなかった選手や、最終予選に備えて若い選手を起用するのがいいのではと、漠然と考えていた。同時に、国際Aマッチは、その時点で可能な最強のチームで出場することを義務付けられた試合でもある。
だがあのときのジーコの表情を思い起こすと、簡単に「それは違う」とは言い切れない。
記者会見の場でのジーコは、常に感情を押し殺し、ほとんど「沈鬱」といった表情で淡々と話す。しかしあの夜、「ひとつのアイデアがある」と語ったときだけは、まるでいたずらを見つかった子供のような表情を浮かべたのだ。
就任以来、2006年のワールドカップに日本を連れていくことを最低限の目標として彼は戦ってきた。予選はもちろん、強化のための準備試合も、勝つことだけを第一にして指揮をとってきた。
そうしたなかで、彼には、ひとつの「負い目」があったのではないか。監督としていろいろなものを切り捨ててこなければならなかった。Jリーグ立ち上げの3年も前から日本のサッカーにかかわってきた彼にとっての最大の負い目は、日本サッカーの現在を築くために奮闘しながらも、現在ではメディアでもあまり取り上げられなくなってしまった数々の選手たちに対するものだったに違いない。
2年間、まじめ一筋で日本代表の強化に心を砕き、自らにも選手たちにも厳しい姿勢で臨んできたジーコ。そのジーコが初めて見せた「スキ」は、日本のサッカーに対する彼からの「敬意」のように、私には感じられる。もしそうであれば、この計画はあくまでもジーコの心をとらえ続けてきた「功労者」たちに対する、彼個人の敬意である。けっして人気投票で決するようなものではない。
2年間に渡る苦闘の末、ジーコは、アジアの強豪と比較してもけっして弱くはないオマーンを相手に、アウェーで堂々と勝てるチームをつくり上げた。彼自身の口でその計画の全貌を明らかにされるまで静かに待つのが、ジーコに対する私たちの「敬意」のように、私は思う。
(2004年10月20日)
2年ほど前、ロンドンから1冊の本を取り寄せた。アンディ・ドゥーガンというジャーナリストが書いた『DYNAMO』というタイトルの本だった。2001年に発行され、たちまちベストセラーのトップ10にはいって、翌年にはペーパーバック版が発売された。私が手に入れたのは、その1冊だった。
旧ソ連のウクライナのサッカーにはひとつの「伝説の試合」がある。1942年夏、この共和国の首都キエフを占領したナチス・ドイツの軍隊のチームが地元チームと試合を行い、負けることを命じられた地元チームが勝利を収めたため、チームはユニホーム姿のまま逮捕され、全員が射殺された----。
いろいろな本や雑誌記事でこの「伝説」を読み、私はその真実を知りたかった。ドゥーガンの丹念な取材で「伝説」が1冊にまとめられたことを知って入手したものの、読む時間が取れないまま本棚でほこりをかぶっていた。ところが先日東京の書店でその翻訳が出ていることを発見した。『ディナモ〜ナチスに消されたフットボーラー〜』(千葉茂樹訳、晶文社)と題された本を読み、ようやく念願の「真実」に触れることができた。
著者ドゥーガンは、ウクライナという国の歴史から説き起こし、そのサッカーの歴史、そしてナチスによるソ連侵攻、占領下の生活など背景をていねいに語り、占領下のパン工場につくられたチームがどう戦い、どんな運命をたどったか、詳細に調べた。そして「伝説」には、真実とともに、ナチの後にこの国を治めたソ連の国家的な意図で曲げられたまま言い伝えられた部分もあることを発見した。
その「真実」は、ぜひこの本を買って読んでほしい。ここでは、この本のなかに語られている「小さな真実」について触れたい。
ドイツ侵攻とともに四散した強豪クラブ、ディナモ・キエフの選手たちがパン工場に集められてつくられたチーム「FCスタート」は42年6月7日に最初の試合を行い、連戦連勝の強さを見せた。7月17日、彼らの前に初めてドイツ軍のチームが現れた。PGSというチームだった。24時間シフトの工場勤務で、しかも栄養不足という悪条件をものともせず、FCスタートはこの試合も6−0で勝った。
この後、ナチスはFCスタートを屈服させて占領政策に力を与えようと、8月の試合で負けるよう強要し、その試合で勝ったことでFCスタートはわずか2カ月間の活動にピリオドを打たれるのだが、7月の試合では、まだそうした兆候はなかった。
このチームから生き残ったFWのゴンチャレンコが40年後にラジオのインタビューに答えて語ったところによれば、「1試合を除いては、ドイツチームも(中略)スポーツマンシップにのっとったフェアなふるまいをした」(日本語訳より)という。「どちらの選手たちも政治的な背景は脇において、ただサッカーの試合そのものに意識を集中させた」(同)。
PGSとの試合後、両チームで撮影した写真が本の表紙となり、私が入手した原著のペーパーバック版では口絵にも掲載されている。
写真だけ見ると、まるで10年来、毎年定期戦をしているクラブ同士の写真のようだ。大敗したドイツ軍チーム(白ユニホーム)の選手たちも、笑顔さえ浮かべている。
「20世紀最大の戦争のさなかの写真であるにもかかわらず、あたかものどかな日曜の公園でのひとコマであるかのようだ」(日本語訳より)と、著者ドゥーガンは書いている。
政治や戦争は容赦なくスポーツを追い詰める、ときにはそれを利用する。しかしスポーツのもつ「力」の一端を、この1枚の写真ほど雄弁に物語るものはないように思う。
(2004年10月13日)
濃い褐色のごつごつした岩山に囲まれた小さな町----マスカットには、そんな印象がある。
来週、日本代表が2006年ワールドカップのアジア最終予選進出をかけてオマーン代表と戦う同国首都マスカット。97年のワールドカップ・アジア第1次予選でも同じ組にはいり、このときにはマスカットと東京で全試合の半分ずつを開催したため、1週間ほど滞在した。
「まさかり」のような形をしたアラビア半島の「刃」の位置を占めるオマーンは、日本の4分の3にあたる約31万平方キロの国土に230万あまりの人びとが暮らす国だ。その歴史は古く、8世紀ごろから海洋国家として栄えた。
「千夜一夜物語」で有名な船乗りシンドバットはマスカットの北西に位置する古都ソハールの人で、当時アラビア半島で最大といわれたこの港から各地に出航していったという。このころのオマーン人の活動範囲はアフリカの東海岸から中国の広州まで広がり、アフリカにはいくつもの植民都市をもっていた。
現在は石油の国である。1960年代に内陸の砂漠地帯で石油が発見され、その輸出が始まると再び活気が生まれた。現国王スルタン・カブースは、社会基盤を整備し、産業を振興するとともに、国民の教育に力を入れ、石油が枯渇した後にもオマーンが繁栄していく基礎をつくろうと努力を続けている。
その努力のひとつがスポーツの振興であることは間違いない。今回の試合が行われるスルタン・カブース・スポーツコンプレックスはマスカットの西の郊外にあり、3万人収容の美しい施設だ。
7年前の3月、マスカットを初めて訪れたときには、「人びとが穏やか」という印象を受けた。一般にアラビア半島のアラビア人は誇り高く、他の民族を見下したような態度をとることが多いが、この国ではそうした人にはあまり出会わなかった。オマーンの人びとは人当たりが柔らかく、笑顔もよく見せた。
しかしそうした人びとが、サッカーになると目の色が変わる。ことしのアジアカップで証明されたように、ここ数年、アラビア半島諸国のサッカーの伸びはすさまじい。カタール、バーレーン、ヨルダンなどが急激に力をつけ、サウジアラビア、クウェートといった伝統国に迫っている。オマーンもそのひとつだ。
97年のワールドカップ・アジア第1次予選でも、オマーンとは1勝1分けだった。マスカットではDF小村徳男の得点で1−0の勝利を収めたが、東京ではMF中田英寿のゴールで先制したものの、後半に追いつかれて1−1の引き分けに終わった。
ことしの2月に埼玉スタジアムで行われたワールドカップ1次予選では、ロスタイムにFW久保竜彦が決めてようやく1−0の勝利。7月の重慶(中国)での対戦もMF中村俊輔のゴールで再び1−0で勝ったが、終始オマーンに攻勢を許し、薄氷の勝利だった。これまでも、楽な試合はひとつもなかった。
7年前の1次予選ではマスカットのスタンドはがらがらだった。日本には、予選初戦の硬さはあっても、アウェーのプレッシャーはほとんどなかった。しかし今回は満員になるだろう。600席用意された日本人サポーター用の特別席は10リアル(約3000円)だが、その他の一般席は0・5リアル(約150円)で販売されるという。満員の声援でオマーン・チームを奮い立たせ、日本を圧倒しようという意図は明白だ。
今週土曜日、日本代表はマスカットに向け出発する。勝つか引き分けなら、来年の第2次予選への切符をもって帰ることができる。間違いなく、これはことしの日本サッカーで最も重要な試合だ。
(2004年10月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。