12月18日、東京・北区の西が丘サッカー場で日本対チャイニーズ・タイペイ(台湾)の女子国際試合があった。
上田栄治監督から大橋浩司監督に交代しての第1戦。「なでしこジャパン」という名称ですっかりおなじみになった日本女子代表の攻撃陣には、澤穂希、荒川恵理子というアテネ・オリンピックのヒロインたちとともに、大野忍(20)、宮間あや(19)という新世代のアタッカーが並んだ。
両ウイングに位置したこのふたりの活躍により前半だけで8得点を記録。後半には荒川に代わって出場した北本綾子(21)がハットトリック、計11−0という大勝で、「大橋なでしこ」が船出した。
上田栄治監督にリードされてアテネ・オリンピックに出場したチームは、完成されたバランスをもっていた。大橋監督は、そこに敢えて「風穴」を開け、新しい能力をもった若手を起用した。その若手が伸び伸びと活躍したことで、大きな可能性が広がった。
「2005年は、1年間をかけて個のスキルアップ、個の戦術アップに努める」と大橋監督。元中学教師の熱血監督の下、なでしこジャパンがさらに成長する予感がした。
2004年の日本サッカーには、大きな話題がいくつもあった。ジーコ監督率いる日本代表のワールドカップ1次予選突破、アテネ・オリンピックへの男女代表出場、そして浦和レッズのJリーグ第2ステージ優勝...。しかし10年後には、女子サッカーの認知が高まった年として記憶されるのではないか。
4月24日、東京・国立競技場に3万1324人という大観衆を集めて行われたオリンピック予選で、強豪北朝鮮を3−0で下した試合が、大きな転換点だった。
10年間勝ったことのない相手に勝ち、難関の「アジア・ベスト2」にはいってオリンピックの出場権を獲得できたことだけではない。その試合内容が、これまで女子にはあまり興味のなかったファンを夢中にさせるほどすばらしかったからだ。
先制点を決め、2点目を生み出した荒川をはじめ、個々の選手が自分の個性を生かしきって戦った。上田監督がくみ上げたチーム組織もすばらしかった。そして何よりも、選手たちの燃えるような情熱、サッカーを愛する純粋な気持ちが一プレーごとに力強く伝わり、感動を与えた。
「オリンピック出場」が近づくと注目がさらに増した。日本サッカー協会が公募で決めた「なでしこジャパン」という秀逸な愛称もあっという間に広まった。そしてすべての競技に先駆けて行われたオリンピックの初戦で、優勝候補のスウェーデンを相手に攻撃的なプレーを展開、荒川の1点で歴史的な勝利を得た。
日本サッカー協会は1980年代から女子の普及と強化に取り組んできたが、2002年からはよりいっそう力を入れた。その最初の成果がアテネ・オリンピックだった。
だが派手な扱いを受けても、日本の女子サッカーは登録選手数がまだ2万人あまり。トップリーグのL・リーグもそう多くの観客を集められるわけではない。代表クラスでも、多くの選手がアルバイトで生計を立てながらプレーしている。日本代表の強化とともに、競技人口を何倍にも増やし、競技としての人気を高める努力を続ける必要がある。
12月18日、西が丘サッカー場に集まった観客は3549人だった。定員8000人のスタジアム。バックスタンドはほぼ満員になり、雰囲気は良かった。オリンピックも何も関係ない試合としては上々だと感じた。
ここが本当のスタート地点だ。これからの努力で、国立競技場を満員にできるようにしよう。10年後に、「あれが『なでしこ元年』だった」と言われるように...。
(2004年12月22日)
「最後のトヨタカップ」はゴールが生まれず、PK戦でFCポルト(ポルトガル)が勝った。「最後にしてはカードが地味で、面白くなかった」という評価も多かった。
しかし私は、2つのチームが真剣にタイトルをかけて争う試合を堪能できてうれしかった。劣勢のなかで小さなチャンスを生かしてなんとか勝利をつかもうとしたオンセ・カルダス(コロンビア)。相手の堅固な守備を切り崩すために、あの手この手と手段を講じながら攻め続けたポルト。寒い夜だったが、ピッチのなかは十分に熱かった。
その熱い戦いのなかに、印象的なシーンがあった。前半27分過ぎの出来事である。
ポルトがボールをキープし、左サイドに展開しながらオンセのエンドにはいっていく。左タッチライン際に上がったDFリカルドコスタが後方からパスを受け、サポートに寄ってきたMFマニシェにはたく。だがパスがずれ、守備に戻ってきたオンセのFWデニグリスがかっさらおうとする。マニシェは果敢にスライディングタックルをかけ、渡すまいとする。
一瞬早くボールに触れたデニグリス。しかし遅れてはいったマニシェのタックルをよけきれず、けられて倒れる。ファウルだ。だがボールがオンセのDFロハスに渡ったため、ラリオンダ主審(ウルグアイ)は笛を吹かない。
一歩もったロハスは、内側のMFベラスケスに短くパス。ベラスケスが前線に展開しようとする。しかしそのキックが、タックルから立ち上がってロハスに近寄ってきていたマニシェの体を直撃し、大きくはね返る。
はね返ったボールがどこに行くか、ボールに聞かなければわからない。だがこのときボールはまっすぐにポルトのFWマッカーシーのところに飛んだ。ゴールラインまで20メートルでDFと1対1。マッカーシーの破壊的なスピードからすれば、間違いなく決定的なチャンスのはずだった。
しかしデニグリスが倒れたままなのを見ているマッカーシーには、この千載一遇のチャンスを生かす気はなかった。彼は簡単にボールをタッチラインにけり出した。
すると、味方のマニシェが寄ってきて、マッカーシーに猛然とかみついた。「なぜ前に行かないんだ!」。ポルトガル代表としてことしのヨーロッパ選手権(EURO)で大活躍したマニシェは、このチームの厳然たるボスなのである。マッカーシーはマニシェの背後で倒れたままのデニグリスを指し、「仕方ないよ」という表情で肩をすくめた。
右足首を抱えて倒れ込んだままのデニグリスに主審が近寄り、状態を聞く。そこにやってきたのはマニシェだった。彼はデニグリスの背中を手で叩きながら一言かけ、右手を差し出して助け起こした。
オンセのスローインでプレー再開。ボールがポルトGKビトルバイアに向けて長くけりいれられると、スタンドからまばらな拍手が起こった。
南アフリカ代表のマッカーシーは、奇矯な行動で行く先々のクラブでトラブルを起こしてきた問題児だと思っていたが、本当は心根の優しい男だった。その行動に怒ったマニシェ、言い訳をするマッカーシー、やがてデニグリスを助け起こすマニシェ...。わずか数十秒間の出来事だったが、何か上質の芝居を見ているような味わいがあった。
相手チーム選手でも、負傷をして倒れていたらただのサッカー仲間----。マッカーシーの行動は「フェアプレー」の教科書に載せたくなるような見事なお手本だった。しかしそんな言葉ではもの足りないようにさえ感じた。
サッカーは人間の活動、人生そのもの...。このシーンを見ただけで、12月の横浜国際総合競技場で寒さに耐えた甲斐があった。
(2004年12月15日)
サッカーという競技が世界中の少年少女に愛されている要因のひとつは、「チームゲーム」という点にあるだろう。突き詰めれば、みんなで楽しく遊ぶことができるのだ。
試合だけでなく、練習でも必ず仲間がいる。極端に言えば、練習に対する積極的なモチベーションがなくても、グラウンドに行けば仲間がいる。その仲間と声を掛け合い、笑い合い、競争し合うことで、楽しい時間を過ごすことができる。
チームゲームには個人競技にはないたくさんの素晴らしい点がある。互いに尊重し合い、励まし合い、助け合うこと、集団のなかで自分自身をコントロールすること、そしてチームに対する愛情...。ひとりの力で勝つことはできない。自分自身の目標を達成しようとしたら、仲間と力を合わせて戦う以外にない。
しかし最近、私は、「孤独の時間の必要性」を考えるようになった。サッカー選手として一人前になるには、仲間から離れてひとりでサッカーと向き合う時間が、その成長過程のなかで、あるいは選手として戦い続けるなかで不可欠なのではないか----。完全に考えがまとまったわけではないが、少し説明してみたい。
中田英寿や小野伸二の「強さ」の根源を考えてみる。彼らは、日本国内では飛びぬけた存在だった。高校を卒業してJリーグのクラブにはいると同時に中心選手となり、やがて日本代表でも不可欠な存在となった。そして20代はじめという若さでヨーロッパのトップクラブに移籍、そこでもすぐに自分の力を証明し、確固たる地位を築いた。
高い技術と卓越したサッカー頭脳をもち、身体面でも激しいサッカーに適応できるものをもっていたのは確かだ。しかしそれ以前に、彼らには、言葉が通じないところに行っても自分自身を失わない強さがあった。ではその強さはどこから生まれたのだろう。
小野のボールテクニックはヨーロッパでも多くの人を驚かせているが、それを生んだのは少年時代の「ひとり」での練習だったという。小学校から帰ると、少年・小野伸二は、近所の仲間をさそって空き地でのサッカーに熱中した。やがて夕方になって仲間がひとり、ふたりと帰り、ひとりきりになっても、彼は壁にボールをけったり、ボールリフティングをしたり、時間を忘れて練習していたという。
小野は20歳のとき左ひざに大けがを負い、完治まで4カ月間、完全復調まで2年間近くを要するという苦闘の時期があった。チームから離れてリハビリに努めなければならなかった時期も、彼をさらに強くしたのではないか。
中田は、自分が陰で努力してきたことなど漏らさない。しかし彼にも、チームや仲間から離れて、ひとりでサッカーと向き合い、自分を高めるための努力があったはずだと、私は想像している。
一時期いじめが横行した影響なのだろうか、現代の日本人は孤立することを何より恐れている。その傾向は、子供たちの世界だけでなく、多くの集団にある。そしてサッカーのプレーヤーたちは、「チーム」という集団にいることだけで安心し、自分自身の全存在をそこに寄りかからせてしまっている。
中田や小野のようになるには、チームによりかからず、そこから離れて真剣に自分自身を高めるための時間が必要ではないか。そうでなければ、チームのために役立つ「強さ」は生まれない。
自分自身のなかでうまく整理できていないことを書くのは、ジャーナリストとして恥ずかしい。しかし世界に向けて壁にぶつかりかけている日本のサッカーが今後飛躍するには、一人ひとりの選手がもっと強くならなければならない。この問題はその重要な要素ではないかと思うのだ。
(2004年12月8日)
四半世紀続いた大会が最終回を迎える。12日に横浜で行われるトヨタカップ。ことしの第25回大会、FCポルト(ポルトガル)対オンセ・カルダス(コロンビア)でその歴史に幕を引く。
国際サッカー連盟(FIFA)は、6大陸のチャンピオンを集めて2000年に第1回大会を開催しながらその後頓挫していた「クラブ世界選手権」を、来年12月から本格的にスタートさせる。それに伴って、ヨーロッパと南米のクラブ・チャンピオン同士の対戦として1960年に始まり、80年度からは中立地・日本での1回戦制による「トヨタカップ」となって「クラブ世界一」を決めてきた大会は役割を終えることになった。
トヨタカップの第1回大会は81年の2月11日。イングランドのノッティンガム・フォレストとウルグアイのナシオナルの対戦だった。当時世界で最も勢いのあったストライカー、ビクトリーノのゴールで、ナシオナルが1−0の勝利を収めた。
当時の日本のサッカーは今日とはずいぶん違う。メキシコ・オリンピックから12年、Jリーグ開始まで12年。日本リーグの人気は「なべ底」状態で、日本代表は信じ難いほど弱かった。日本のサッカーは、かろうじて高校サッカーの人気に支えられていた時代だった。
そうした時代に世界レベルのサッカーを毎年1試合だけでも見ることができたのは、日本のサッカーにとって望外の幸せだった。トヨタカップはたちまちにして日本中のファンの心をつかんだ。第2回大会からは毎年12月に固定され、人びとは毎年この大会を心待ちにするようになった。
私自身、第1回から87年の第8回大会まで大会の公式プログラムの制作にたずさわった。82年からは出場クラブの取材でヨーロッパと南米を往復した。ワールドカップの取材からも得るものは多かったが、トヨタカップのための取材で世界的な強豪クラブとそのホームタウンをじっくり観察できたことは、人びとの生活にサッカーがどのように根づいているかを理解するうえでこの上ない経験となった。
トヨタカップ出場クラブは、当然のことながら、どこも成功したクラブだった。しかしサッカーの成功は、単に監督の頭脳や選手たちの才能や汗でもたらされたものでないことを知った。根源的な力はクラブ経営の成功だった。
あるクラブの会長は、危機に瀕していたクラブ財政を立て直すために就任以来何をしてきたか、こと細かく語ってくれた。クラブ施設を充実して会員を倍増させ、チーム強化に資金を投じてファンを喜ばせ、その国の3番手の勢力というポジションから一挙にヨーロッパ・チャンピオンに仕立て上げてしまったのだ。
クラブの財政を豊かにするためにカジノまでつくった。極めつけは、陸上競技型だったスタジアムを7メートルも掘り下げ、観客数を2万人も増やすと同時にサッカー専用にしたことだった。「21世紀のスポーツクラブ」というテーマを、卓抜したアイデアと実行力で追い求める姿は、強く印象に残った。
そのクラブこそ、ことし最後のトヨタカップに来日するFCポルトである。トヨタカップが始まった81年に47歳で就任して大改革を成功させたピント・ダ・コスタ会長は、70歳にしていまも元気にクラブを率いている。
2002年ワールドカップを経てサッカーが国民生活に溶け込み、Jリーグのクラブが各地に根づいて12回目のシーズンを終えつつある現在、トヨタカップの存在意義は、あの当時のように大きなものではなくなった。日本のサッカー史に大きな足跡を残したトヨタカップは、その歴史的役割を終え、いま静かに最後のキックオフを待っている。
(2004年12月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。