2002年ワールドカップでは準々決勝進出を果たし、現在FIFAランキング11位。世界の強豪のひとつと言っても過言ではないアメリカ代表チームが、大きな危機を回避した。「代表選手協会」のストライキが終了し、ようやく合宿をスタートできることになったのだ。
アジアと同様、北中米カリブ海地域でも、2月9日にワールドカップの最終予選がスタートする。出場枠は3・5。6チームが出場し、3位までにはいれば自動的に出場権を獲得し、4位チームはアジア5位とプレーオフを戦う。場合によっては日本のライバルとなりうるグループだ。
出場はアメリカのほか、メキシコ、トリニダード・トバゴ、グアテマラ、パナマ、コスタリカ。2月9日から10月12日にかけて全10節を消化する。アメリカは、ポート・オブ・スペインに遠征して初戦をトリニダード・トバゴと戦うことになっている。
ところが昨年11月17日の2次予選最終戦以後、アメリカ代表はまったく活動していなかった。ブルース・アリーナ監督は12月中旬のトレーニング合宿と1月中旬からの予選直前合宿を計画していたのだが、2次予選終了後に「アメリカ男子代表チーム選手協会(USMNTPA)」がアメリカ・サッカー協会にストライキを通告、1月中に予定されていた2つの親善試合とともにすべてが白紙になった。
労働組合と認可されているUSMNTPAには70人を超す選手が加盟している。この全員にボイコットされたら、代表チームは成り立たない。
代表選手協会とサッカー協会間の勝利給支払い契約は、2002年末以降更新することができず、丸2年間、旧来の契約に基づく勝利給が支払われてきた。両者の条件には大きな隔たりがあり、代表選手協会は昨年春に「合意できなければストも辞さず」の方針を決めていた。
スト突入後、ことしにはいっても両者は歩み寄ることができず、終結のめどは立たなかった。たまりかねたアリーナ監督は、代表選手協会未加入の選手(主として下部リーグやインドアリーグの選手)22人を選んで17日からキャンプにはいった。
「代表選手協会が折れなければ他の選手で予選を戦う」というサッカー協会側の強硬姿勢により、事態はようやく動いた。21日金曜日、代表選手協会はスト解除を決めた。協議は続くが、暫定処置として勝利給は38パーセント増額されることになった。
ただ、今回の合意はことし末までのもの。新契約締結に至らなければ、予選を突破しても、最悪の場合、来年のワールドカップにアメリカがベストチームを送れない危険性も残されているという。
代表チームと協会のボーナスをめぐる対立の例は、世界中に掃いて捨てるほどある。2002年大会でカメルーンの来日が遅れたのはそのためだったし、南米(とくにブラジル)でもヨーロッパでも、珍しいことではない。
実は97年の予選前、日本でも同じような事態になりかけた。そのときには当時の加茂周監督が選手たちと協会の間にはいって信頼関係を取り戻させてことなきを得た。
現在の信頼関係を保つため、日本サッカー協会の努力が不可欠なのは言うまでもない。だが、「代表選手」という、考えようによっては不安定な立場でプレーする選手たちの側に立ち、彼らの権利を守る役割や組織を検討する必要があるのではないか。そうしたケアが行われれば、選手とサッカー協会が対立したり、さらにこじれてストという最悪の事態に陥る予防にもなる。協会にもプラスになるはずだ。
それは「代表監督」の仕事ではない。対立をあおるのではなく、代表選手が安心して全力を尽くせるシステムの構築が必要だと思うのだ。
(2005年1月26日)
2004年の「世界最優秀選手」にロナウジーニョが選ばれた。このブラジル人FWは、信じがたいテクニックで相手を抜き、シュートを決める。そしていつも楽しそうな顔でプレーし、「サッカーの喜び」を世界中に伝えている。
そのロナウジーニョに引っぱられて、スペイン・リーグで首位を快走しているのがFCバルセロナだ。いま世界で最も注目を集めているクラブは間違いなくバルセロナだ。
私には、このクラブについて以前から不思議に思うことがあった。クラブカラーの由来だ。FCバルセロナはスペインの自治州であるカタルーニャのシンボルともいうべき存在だ。ところがカタルーニャの旗は「赤と黄」なのに、FCバルセロナは「エンジと青」なのだ。この色は何に由来するのだろうか。
FCバルセロナの創始者はハンス・カンペールというスイス人。アフリカで事業を興そうと祖国を旅立った22歳のハンスは、叔父の住むバルセロナに立ち寄り、偶然が重なって住み着くことになる。スイスでFCチューリヒの創立にもかかわった彼は、ここにもサッカーのクラブを創ろうと思い立ち、1899年、10人の仲間とFCバルセロナを創立する。仲間の多くは「外国人」だったが、スペイン人も何人か含まれていた。
ある資料によれば、「エンジと青」は、彼の出身地であるスイスの州旗からとったものだという。しかしハンスはチューリヒ州の出身で、その旗は「白と青」である。
最近、ようやく疑問が解けた。イギリス人のJ・バーンズが書いた『バルサ』という題の本に、「エンジと青」の起源が書かれていたのだ。
クラブを立ち上げて間もなく、ハンス・カンペールはイギリス人兄弟に声をかけた。運送業者ウィッティ家のアーサーとアーネストだった。バルセロナで生まれ、イギリスの「マーチャント・テイラー」というパブリックスクール(私立寄宿学校)で学んで戻ってきたばかりの兄弟は、たちまち中心選手となった。
「マーチャント・テイラー」の校技はラグビー。サッカーはなかった。しかしバルセロナには芝生のグラウンドはなく、石ころだらけのグラウンドでラグビーをするのはあまりに危険だったので、戻ってきてから、兄弟はもっぱらサッカーをしていたのだ。
クラブが誕生して1年後の1900年11月、バルセロナは初めて「エンジと青」でプレーした。それは、ウィッティ兄弟の母校「マーチャント・テイラー」のラグビーチームのカラーだった。
ふたりがパブリックスクールで学んだのは、純粋なスポーツマンシップだった。スポーツとは、自らを鍛え、友情を築くものだった。「フェアプレー」は、その最も重要な規範だった。その精神を、自分たちの新しいクラブにも吹き込もうとしたのだ。
ハンスは、やがて「ジョアン・ガンペール」というカタルーニャ風の名前に改称し、クラブを大きくするためにビジネスを広げ、政治とも結びつけた。現在FCバルセロナがカタルーニャの独立運動と密接な関係をもつのは、その伝統を引くものでもある。
しかしウィッティ兄弟は、そうしたハンスのやり方に賛同できなかった。役員就任の要請を断り、終生、一会員として過ごした。彼らの名前はやがて忘れられ、「エンジと青」のカラーだけが残った。
◇
ワールドカップ予選で北朝鮮と対戦することになって、サッカーとは無関係の関心が高まっている。しかし私は、ウィッティ兄弟のように、純粋なサッカーの試合としてこの試合を応援し、楽しみたいと思っている。日朝間には難しい問題があるが、この試合には関係がない。あくまでもスポーツとして、スポーツらしく開催してほしいと思う。
(注)スイス名はHans Kamperで、カタルーニャ名はJoan Gamper。一般には、バルセロナの創立者は「ハンス・ガンペール」と書かれることが多いが、スイス姓は濁音のない「カンペール」が正しい。
(2005年1月19日)
セレッソ大阪からスペインのマジョルカへ移籍したばかりの大久保嘉人がデビュー戦でフル出場し、1得点1アシスト、チームに貴重な勝ち点をもたらす活躍を見せた。
0−0で迎えたディポルティボ・ラコルーニャとのホームゲームでの後半、1点をリードされると、7分後に右から正確なクロスを入れてFWルイス・ガルシアにアシスト、その5分後に勝ち越し点を許したが、わずか2分後に自らヘディングシュートを決めて再び同点に追いついた。
右からカンパノがクロスを入れたとき、相手ゴール前にはGKと2人のDFがいた。マジョルカは2人に挟まれるように大久保がひとり。しかしボールにいち早く反応し、落下地点に走ったのが大久保だった。簡単なシュートではなかった。ファーポスト側へ背走しながらのヘディング。飛び出してくるGKにもひるまずに放ったシュートがゴール右に吸い込まれた。才能だけでなく勇敢さも示し、本当に見事なゴールだった。
国見高校時代から輝いていた才能は、2003年に日本代表のジーコ監督から「日本の将来を担うタレント」と高い評価を受け、アテネ・オリンピック世代では誰よりも早くA代表に引き上げられた。しかしなかなか力を発揮できず、オリンピック出場による離脱もあって、昨年はA代表での出場はほとんどないまま終わっていた。
スペインでのデビュー戦、大久保は驚くほど伸び伸びとプレーしていた。初得点を上げられず、あふれるような意欲が空回りしていた日本代表でのゲームより、何倍もリラックスしていたように見えたのは不思議だった。それでいて意欲に欠けていたわけでも、周囲に遠慮していたわけでもない。いつものように自信をもってボールをキープし、相手を抜きにかかっていた。
マジョルカ入りしてまだ3週間。スペイン語でのコミュニケーションができるわけではない。しかし大久保は、自然に、まるで何年も前からそこにいる選手のようにチームに加わり、他の選手たちとパスを交換していた。
厳しいことで知られるクペル監督が、「やる気がある」と評価しているという。ピッチの中でも外でも前向きに取り組んでいる姿勢が、本来もっている技術などサッカーの能力を素直に認めさせる要因になったのだろう。
昨年夏に京都サンガからフランス2部のルマンに移籍した「アテネ世代」のMF松井大輔も、完全にチームに溶け込み、周囲から認められ、かわいがられているという。ヨーロッパに出ていっては「コミュニケーション」で苦労した先輩たちに比べると、若い年代の選手たちは、これまで日本選手に欠けていると言われてきた資質を身につけつつあるのだろうか。
ところで大久保は、このデビュー戦で右ひざに強い打撲と裂傷を負い、全治10日間の負傷だという。前半5分、抜いて出ようとしたところに、ボールをクリアしようとした相手選手のスパイクが当たったものだった。ピッチ横で医療用ホチキスの治療を受け、テープで巻いてその後の85分間をプレーした。そんなひどい状態であることなど表情にも出さずにプレーを続け、チームに貢献できたのは、本当にたいしたものだ。
気になったのは、日本にいたころと変わらず、ストッキングを下げてプレーしていたことだ。負傷の原因になったわけではないが、激しいスペイン・リーグであのスタイルを続けていたら、活躍すればするほど、相手DFから狙われるのは必至だ。
最高のデビューだった。しかし本当の勝負はこれからだ。あらゆる面で一歩も二歩も成長し、日本人選手がはね返され続けてきたスペインで成功を収めてほしいと思う。
(2005年1月12日)
「浦和が『攻撃的』だなんて、誰が言ったの?」
そう問われて、返事に窮した。昨年秋、浦和レッズがJリーグで快進撃していたころの話だ。「浦和の攻撃をどう止めるか」という私の質問に、あるクラブの関係者がこう聞き返してきたのだ。
「浦和はね、3人で攻めているだけなんだ。残りの7人は守っている。そのサッカーのどこが攻撃的なのか」
チーム全体で果敢に押し上げて分厚く変化に富んだ攻撃をする自分のチームのほうが浦和よりはるかに攻撃的だと、その人は主張した。
その論理によれば、1試合平均2・7得点を記録している浦和より、その半分程度の得点しか挙げられないチームのほうが「攻撃的」であり、ファンを喜ばせているということになるのだろうか。なんだか議論をする気になれず、私はその場を辞した。
ジーコ監督率いる日本代表は昨年のアジアカップで優勝を飾った。だが地元中国を3−1で下した決勝戦以外は、相手にボールを支配され、苦しい試合ばかりだった。パスはつながらず、キープできず、必死に守ってFKやCKを生かしてなんとか勝ちんだ。
ボールを支配しイニシアチブを取ってプレーを進める、練習してきたチームプレーを発揮する...。そうした試合を、私は「いいサッカー」と評価してきた。そしてそれが勝利やタイトルに不可欠な要素と考えてきた。しかしジーコには違った基準があるのではないかと、私はこのころから考え始めるようになった。
もちろん「いいサッカー」ができれば勝利の可能性は大きくなる。しかしそれができないからといって勝てないわけではない。
自分たちのゴールを守り、相手のゴールにシュートを決めることさえできれば、勝利はおのずと自分たちのものとなる。そのためには、どんな相手も恐れず、みくびらず、試合が始まったらあわてず、集中を切らさず、終了の笛が吹かれるまで全力でプレーする----。アジアカップで、日本代表チームはこうした「ジーコイズム」というべき姿勢を十二分に発揮した。ジーコはそうした選手たちに最大の賛辞を送った。
「攻撃的サッカー」や「いいサッカー」は、私たちにとって一種の強迫観念だったのではないか。それにとりつかれ、肝心なものを見失っていたのではないか。そんなことを考えながら年を越した。そして元日の天皇杯決勝で、私は東京ヴェルディのプレーに目を見張らされる思いがした。
タイトルから久しく遠ざかり、低迷が続いた東京V。しかしこの天皇杯で見せたプレーは、過去、どんなタイトルを取ったときにも増して魅力的だった。ピッチ上の選手たちが、例外なく生き生きと前向きにサッカーに取り組んでいたのだ。「ポジティブ・サッカー」。試合を見ながら、そんな言葉が思い浮かんだ。
1年ほど前までの東京Vは動きが少なく、躍動感の少ないサッカーをしていた。
「年寄りのサッカー」と、アルディレス監督は表現した。だがこの1年で根本的に変わった。一人ひとりの選手が自分の能力を信じ、仲間を信じて、それを試合で示そうという意欲に燃えていた。東京Vのサッカーは、見ていて心躍るものへと変身を遂げた。
「ネガティブな話は一切しなかった。ポジティブな姿勢を選手たちに植えつけるのは監督としていちばん大事な仕事だ」と、アルディレス監督はその道のりを語った。
「攻撃的」であるかないか、「いいサッカー」であるかないかなど、第二次的なテーマであるのに違いない。選手たちが自己を前向きに表現する勇気をもたせることさえできれば、サッカーは十分に美しく、そしてまた生命力にあふれたものになるからだ。
(2005年1月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。