ワールドカップ予選が一段落したと思ったら、ワールドユース、コンフェデレーションズカップと、深夜のテレビ観戦が続いて寝不足のファンも多いだろう。でももう少しだ。今週末のワールドユース決勝戦ですべてが終わる。来週からはぐっすりと眠れる。
ところで国際サッカー連盟(FIFA)が主催するワールドユースとコンフェデで、副審のオフサイドのシグナルのタイミングがずいぶん遅くなったのに気づいたファンも多いだろう。ことしのルール改正で第11条(オフサイド)に新しく「国際評議会の決定事項」が付け加えられ、解釈が変わるためだ。
「オフサイド・ポジション」にいるだけでは反則にならない。反則になるのは、このポジションにいる選手が「積極的にプレーにかかわった」ときだ。ところがこれまでのルールに書かれたその説明が簡単すぎてわかりにくかった。
1 プレーに干渉する
2 相手競技者に干渉する
3 その位置にいることによって利益を得る
ルールブックにはそう説明されている。だが1の「プレーに干渉する」とはどういう状態なのか----。従来の解釈では、パスに向かって走るなど積極的に動くだけで「干渉」とみなされ、その時点で副審が旗を上げていた。
しかし7月1日に発効する新しい「決定事項」には、ボールに実際にタッチするまでは反則にならないと明記されることになった。その結果、副審は、オフサイドの状況があっても、誰かがボールに触れるか、ボールがピッチ外に出るまでは旗を上げられないことになったのだ。ワールドユースとコンフェデでは、この改正を先取りして実施することにしたのだ。
大会が始まる前に、FIFAはホームページ上でオフサイド・ルールの新しい解釈の例を動画入りで説明している。13例のなかには、これまでなら明らかに反則になったケースが「オフサイドではない」とされているものがある。
オフサイド・ポジションにいる選手Aが出されたパスに向かって走る。しかし最初にこのボールに触れたのはその選手ではなく、オフサイドではないポジションにいた別の選手Bだった。Aはボールに触れていないのだから、反則ではないというのだ。
「旗も上がらず、笛も吹かれないからオフサイドではないと思って走ったら、ボールに触れたとたんに旗が上がり、笛が吹かれる。一生懸命に走った選手がかわいそうだ」
このような感想を持ったファンも多いだろう。もしかすると、今後、この新解釈を利用して、オフサイド・ポジションにいたことを知りながらパスに向かって走り、相手を油断させておいて自分はボールに触れず、味方にプレーさせようとする選手も出てくるかもしれない。
私は、多少のトラブルがあっても短期間のことだろうと思う。新解釈の狙いは、できるだけプレーを継続させ、サッカーをより魅力的なものにしようという点にある。
オフサイド・ポジションの選手にパスが出されても、味方が気づいたら「触るな!」と声をかけ、他の選手がボールを追えばいい。そうすれば、無粋なオフサイドの笛で試合が中断され、ため息がもれることは減るだろう。
副審にとっても、オフサイド・ポジションの選手が最終的にボールに触れたか触れないかで判定すればいいのだから判断がシンプルになるはずだ。しかし実際には、瞬間的なプレーだけでなく、たくさんの情報を整理して判断しなければならなくなる。主審との連携、コミュニケーションもより重要になるだろう。
7月1日から世界中で適用される新解釈。ぜひFIFAのホームページで13の動画をチェックしてみてほしい。
(2005年6月29日)
FIFAコンフェデレーションズカップ取材のためにドイツにきている。
現地の雑誌社発行の大会ガイドの表紙には、「ミニWM」と大書されている。「WM」とは、「世界選手権」の略で、ドイツではワールドカップをこう表現するのが最も一般的だ。大会の正式名称よりも、「ミニ・ワールドカップ」、すなわち1年後に迫ったワールドカップの「プレ大会」という色彩が濃い。
当然、使用されるスタジアムはワールドカップ用のもので、大会運営も、何から何まで大げさなワールドカップ仕様である。取材する私たちにも、日本代表の活躍ぶりとともに、ワールドカップの「下見」の意識がある。
西ドイツでワールドカップが開催されたのは1974年だから、もう31年も前のことになる。私にとって初めてのワールドカップ取材。以後も何回かドイツにきたが、こうして試合を追いながら移動する旅はそれ以来だ。
驚くのは、ドイツが「狭く」なったことだ。東ドイツと合わさったのだから、実際には1・5倍ほどの面積になったはずなのだが、都市間の移動が信じがたいほど早くなった。ドイツ国鉄が高速化し、路線によっては新幹線化された結果だ。かつては2時間半から3時間かかっていたフランクフルト空港−ケルン間が、1時間かからなかったのには、本当に驚いた。新幹線網はまだ完成しておらず、特急も在来線の線路を使っている路線が多いので、これほどの変化がある区間は少ないが、それでも高速化は進んでいる。
私は今回、ケルンに「基地」を置き、そこからいろいろな試合会場に通った。他の都市での試合後には、そこに1泊して翌朝移動という計画だった。しかし試合が終わり、仕事を終えても、十分ケルンの基地まで帰ることができるため、いくつかのホテルはキャンセルしたほどだ。
ただ、「新幹線」は山中を貫いて走るので、景色は少し味気ない。だからフランクフルトで日本とギリシャの試合があった日には、早めに出発し、フランクフルトまで1回の乗り換えを含め2時間半もかかる在来線の急行を使った。おかげで、美しい緑に彩られたライン川沿いの景色をゆったりと楽しむことができた。
来年、ドイツに来ようと思っている人には、「鉄道の旅」がお勧めだ。日本でドイツ国鉄のパスを購入してくれば、いちいちチケットを買う手間が省けるうえに、毎日長距離移動をしてもそう費用はかからずに済む。
ワールドカップに向けて大改装されたスタジアムは、どこも美しく、都心からの公共交通機関が整備されていてアクセスもいい。周囲で売っているソーセージの味は30年前とまったく変わらない。
驚くほど変わったのは、都市間の交通とともに、地元の人びとの表情だ。ドイツ人といえば、愛想がなく、表情が固いというイメージだったが、今回、そうした印象を受けることは滅多になかった。どんな場所でも、何かを聞けば笑顔を見せ、親切に答えてくれる。英語で話しかけても、いやな顔ひとつせず、ほとんどの場合、英語で返事がくる。
ワールドカップ地元組織委員会のベッケンバウアー会長は、2002年韓国/日本大会での「笑顔と親切」に感動し、ドイツでもそうした態度で世界からのファンを迎えようと懸命にPRしたという。
今回、私が受けた好印象は、PRの成果なのか、それともEU(ヨーロッパ連合)のおかげで人の行き来が増大したためかわからない。しかし理由はともかく、30年間で社会が大きく変わり、ドイツが気持ちよく滞在できる国になったのは確かだ。
来年のワールドカップは、笑顔にあふれた、とても楽しい大会になる予感がした。
(2005年6月22日)
テレビに映し出されたのは、緑・白・赤に染め分けられた国旗を振りながら狂喜するファンの姿だった。
6月8日夜バンコク。日本がワールドカップ3大会連続出場を決めたスタジアムから戻り、私はホテルでパソコンと格闘していた。早朝にチェックアウトするまでに書き上げなければならない原稿が山ほどあった。部屋のテレビは、テヘランからの生中継、イラン対バーレーンの様子を伝えていた。
バーレーンは5日前の日本戦とは比較にならないほどのがんばりを見せ、前半にはイランより数多くのチャンスをつくった。しかしイランは冷静に対処し、前半に記録した1点を守りきって、時間的には日本に次いで世界で2番目に予選突破を決めた。この日再びキャパシティいっぱいの12万人を入れることを許されたテヘランのアザディ・スタジアムは、まるで「革命前夜」のように沸騰していた。
それは、「無観客」のバンコクのスタジアムで冷静に「出場決定」を迎えた私の気持ちとは対照的だった。イラン人ファンの喜ぶさまを、私は一種不思議な気持ちをもって見つめていた。
「私たちは、『予選突破』の本当の喜びをまだ知らないのではないか」----。そんな思いが心をよぎった。
イランにとって、この予選は楽なものではなかった。1次予選ではホームでヨルダンに敗れて絶体絶命の危機に立たされ、アウェーでなんとかその敗戦を取り戻して乗り切った。昨年9月、アンマンに乗り込んでのヨルダン戦を迎えたときには、ファンは生きた心地がしなかっただろう。
それ以前に、イランには苦難の経験がある。2002年大会だ。出場権獲得をほぼ手中にしながら最終戦でバーレーンに1−3で敗れ、2位に落ちてプレーオフに回らざるをえなかった。そしてアジアの3位決定戦でUAEを下して臨んだヨーロッパとの最終プレーオフでは、強豪アイルランドと当たり、ホームでは1−0で勝ったものの、合計得点1−2と及ばず、98年フランス大会に次ぐ連続出場を逃した。
言ってみれば、イランのファンはなんども「地獄」を見てきた。だからこそ、点差や試合内容はどうだろうと、ただ出場権を獲得したという事実だけで至上の幸福感を味わうことができたのだ。
一方日本は、試合内容はもの足りなくても、ジーコが植えつけた勝負強さのおかげで順調に勝ち点を積み上げ、この日の出場決定に至った。
「もう少しはらはらさせてくれても良かったのにな」
仲間の記者には、こんな本音をもらす者もいた。
ブラジルとドイツを除く世界中の国が、過去に「ワールドカップ予選落ち」の地獄を味わっている。それに対して日本は、「ドーハの悲劇」と言われた94年大会予選も、それまでにいちども出場権を獲得したわけではなかったので、大きなものを取り逃した悔しさはあったものの、喪失感とまではいかなかった。
今回の予選では、早くから多くの人が「出場権を獲得できて当然」と語り、なんとなく大丈夫だろうという空気があった。そしてそのとおりになった。ほっとした気持ちはあるだろうが、日本の多くのファンの心には、イランのファンのような爆発的な喜びはなかったのではないか。
6月8日に、アジアの4カ国とアルゼンチンの出場が決まった。秋になると、次つぎとそのほかの出場国も決まっていくだろう。そして、「地獄」を知るファンたちが心から喜ぶ様子が見られるだろう。
できれば今後も「地獄」など見たくはない。だが今後、何年か何十年後かわからないが、必ずそうした日がくる。そのときには、「本当の喜びのための苦難」と思うことにしよう。
(2005年6月15日)
午後5時に練習が始まって30分、ウォームアップが終了したころ、空が真っ暗になり、なぐりつけるような雨が降り出した。その雨を無視するかのように、ジーコ監督は北朝鮮戦を想定したポジショニングとセットプレーの練習を繰り返した。
しかし雨は激しくなる一方で、水はけのよかったグラウンドもさすがに水が浮き始める。そこでジーコは、最後のシュート練習を「緊急メニュー」に切り替えた。ラストパスやポストからシュートさせるボールを、すべて「浮き球」にさせたのだ。ゴール前に勢いよく走りこんだ選手たちは、ボレーやヘディングで思い切ったシュートを放ち、次つぎとネットを揺らした。
猛烈な暑さのバーレーンで快勝した日本代表は、6月5日、北朝鮮との決戦の地バンコク(タイ)にはいった。チームを待ち構えていたのは熱帯地方の猛烈な雨だった。
「スコール」というような陽気なものではない。こんなにたくさんの水がどこから運ばれてきたのかと思うほどの豪雨なのだ。5日にはそれがたっぷり1時間半続いた。今夜の北朝鮮戦のキックオフは現地時間で5時半。「雨中戦」になる可能性は十分ある。
雨の多い日本だが、集中豪雨のようななかで試合が行われることは稀で、ピッチも水はけが良いためか、いまの日本選手たちは水たまりに弱い。もしこんなコンディションで雨に慣れた東南アジアのチームと対戦したら、得意のパスはつながらず、苦戦は必至だ。
雨のピッチで意外な強さを見せるのがブラジルの選手たちだ。スコールが多いためか、水たまりだらけのグラウンドでも、苦もなく得意のドリブル突破を見せる。日本やヨーロッパの選手たちだったら、ピッチ上に浮いた水にボールがつかまり、ドリブルなどまったく不可能だ。
ブラジル人たちのドリブルの秘密は、ボールタッチの技術にある。日本やヨーロッパの選手たちはボールの真横やや上の部分を「押して」運ぶ。だから水につかまる。しかしブラジル人選手たちは、ボールの下に足先を指し込み、「切る」ようにして軽く浮かせながらスピードを落とさずに前進していくのだ。
もちろんパスも浮かせる。グラウンドにつかなければ、イレギュラーバウンドや思わぬところで止まってしまうことはない。ドリブルのくせを簡単に変えることは難しいが、パスなら、意識すれば簡単に「大雨対策」ができる。ジーコの指導は、ブラジル人らしく、的を射たものだった。
ところで、私の見るところ、北朝鮮は日本以上にこうしたコンディションに弱い。北朝鮮サッカーの基本はグラウンダーのすばやいショートパスにある。スピードがある一方で背の低い選手が多いことから考えられた戦法だ。選手たちは徹底してこのプレーを叩き込まれている。だがその戦法は、水が浮き出すような大雨のグラウンドでは威力を半減させられてしまう。
1985年3月、日本と北朝鮮の間でワールドカップ予選が行われた。当時の力関係から圧倒的な劣勢を予想されたが、大雨と、水たまりだらけの東京・国立競技場のピッチがそれをひっくり返した。
パスがつながらず苦しむ北朝鮮。ひたすら大きくける「雨用サッカー」を見せる日本。最後には、水たまりに止まったボールを日本FW原博実(現F東京監督)がボールの下に足先を入れて浮かせながら運んでタックルをかわし、決勝ゴールをけり込んだ。
もちろん、北朝鮮も経験を積み、コンディションに適したプレーができるようになっているはずだ。しかし今夜、観客ゼロのスタジアムで記録される決勝ゴールは、日本選手のヘディングシュートか鮮やかなボレーシュートではないかと、私は期待している。
(2005年6月6日)
「正念場」がやってきた。
この言葉は、元々は「性根場」だったらしい。「本来の姿を現すべき重要な場面」というような意味である。
今週金曜、日本代表はアウェーでバーレーンと戦う。勝てば3大会連続のワールドカップ出場に大きく前進する。引き分けでも勝利に近い価値がある。だが負ければ、グループ3位に転落し、追い詰められることになる。
2002年7月に就任が決まり、10月のジャマイカ戦で初めて指揮を執ったジーコ監督。以来、先月のキリンカップまで3年間で47戦26勝9分け12敗。就任時に27位だった「FIFAランキング」は、昨年のアジアカップではね上がり、ことし4月には17位になった。世界のなかでの日本の実力を正確に表す数字とは思えないが、「どんな試合でも勝つことに全力を注ぐ」という、ジーコのスピリットが反映された結果であることは間違いない。
2002年ワールドカップ決勝トーナメントのトルコ戦を見たジーコは、「監督に言われたことしかできないチームでは、世界とは戦えない」と憤慨した。その怒りが、自ら日本代表の監督に就任するという、誰もが(本人さえ)予想していなかった事態につながった。
「選手たちが才能を伸び伸び発揮し、自分たちの判断で試合を進めていけるチーム」。それがジーコの目指した日本代表だった。Jリーグ開始前の1991年以来11年にわたって日本のサッカーにかかわってきた彼は、日本選手たちの才能を、まるでわがことのように誇りにしていたのだ。
サッカーチームの成長とは、水を与えれば伸びるというたぐいのものではない。人間の成長が、背が伸びる時期、筋肉がつく時期、神経系が発達する時期、精神的に成熟する時期などそれぞれにずれているように、チームも、伸び悩みの時期、急成長で自信がふくらむ時期、そして壁に突き当たる時期などを繰り返しながら成長していく。
ジーコのチームは2004年の春まで暗中模索のような時期だったが、それを抜けるとまるでいますぐワールドカップがきてもだいじょうぶと思わせるほどの急成長を見せた。しかしことし、チームは再び苦しんでいる。
ワールドカップのアジア最終予選でB組2位。最後までこの位置をキープできれば出場権が手にはいる。しかし2月、3月に行われたこれまでの3試合の内容は、ファンをやきもきさせるものだった。3月のバーレーン戦では、相手のオウンゴールでかろうじて勝利をつかんだ。
いま、日本の前には、強豪バーレーンと戦う前に大きな敵がいる。試合地マナマの暑さだ。日中、37、38度まで上がった気温が日没とともに急激に落ちると、猛烈な湿気が襲ってくる。せっかくかいた汗が蒸発してくれず、体温調整が難しくなる。
その不快な暑さのなかで、選手たちは昨年のアジアカップを思い起こすだろうか。猛烈な蒸し暑さのなかでの連戦。そして再三にわたる絶体絶命の危機...。それをしのいで決勝戦に進出し、地元中国を堂々たるプレーで破った日本代表を、ジーコは絶賛した。
「どんな状況でも冷静さを失わず、最後のホイッスルが吹かれるまで集中して戦った。すごい選手たちだ」
2002年以来、苦戦しながら自らのスピリットを吹き込み続けて日本代表が本物のチームになったことを、ジーコが認めた言葉だった。
今週金曜日、日本代表はマナマのピッチに立つ。ジーコが就任して以来の3年間の成果が、この1試合に凝縮されなければならない。「冷静さ」、「最後まで失わない集中力」。自分たちの本来の姿を思い起こさなければならない。
まさに、正念場なのだ。
(2005年6月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。