サッカーの話をしよう

No.566 世界戦略とクラブ倫理

 「世界全体でサッカーをもっと盛んにするためには、私たちのようなクラブの『世界戦略』が不可欠だと思う」
 臆面もなくそう語ったのは、レアル・マドリード(スペイン)のルシェンブルゴ監督である。レアルは、アメリカのシカゴ、ロサンゼルス、中国の北京、そして東京を経てタイのバンコクを回る「ワールドツアー」の真っ最中。シーズン前、まだ体づくりもしていない時期になぜこんな無理をするのか。理由はただひとつ、「世界戦略」のためだ。
 ヨーロッパのプレシーズンにあたるこの時期、ビッグクラブが次つぎと来日して試合をする。いつも応援してくれている日本のファンに感謝するためではない。「世界戦略」のためである。

 1990年代のはじめにはどんなビッグクラブも苦しい経営に悲鳴を上げていた。しかしわずかな期間で一部のリーグやクラブに巨大な資金が流れ込み、あっという間に年間予算がひとケタ増え、世界中から競ってスター選手を買いあさるようになった。
 巨大資金はテレビからやってきた。デジタル多チャンネルへの切り替え時期、視聴契約獲得のための切り札としてサッカーが目をつけられた。独占放映権の獲得競争が巨額の放映権契約を生んだ。
 これが「バブル」であることは誰もが知っている。遠からぬ将来に泡のように消え、後には何も残らないことも、ビッグクラブの優秀な経営者たちは理解している。
 そこで「世界戦略」である。90年代後半にイングランドのマンチェスター・ユナイテッドが世界中でレプリカユニホームを売りまくった。プレミアリーグの放送が世界中に広がるなか、圧倒的な強さを見せるユナイテッドが、プロサッカーの基盤がない地域では人気ナンバーワンのクラブとなったからだ。年間100億円を超えるグッズ売り上げは、「ポスト・テレビバブル」の有力な財源と評価された。

 レアルが追随し、ACミラン、ユベントスといったイタリアのクラブが続いた。北米やアジア、とくに購買力のある日本と中国を中心的なターゲットに激しい攻勢を開始する。スター選手獲得はチャンピオンになるためだけではなく、マーケットを世界に広げるための目玉商品だった。
 「バブル時代」には巨大クラブが並び立った。しかし世界戦略の時代には共存はない。「ひとり勝ち」でない限り、目的は達成されないからだ。
 ここでルシェンブルゴ監督の言葉を思い起こしてほしい。彼は「世界戦略」を世界のサッカー振興のためだと説明した。まったくの詭弁だ。
 香港やマレーシアのクアラルンプールといったアジアの伝統的なサッカー地域で、町中をユナイテッドのレプリカユニホームを着た若者が闊歩するなか、地元のサッカーは人気が落ち込んでいる。

 サッカーのクラブは、地元に支えられて存在する。巨大クラブも同じだ。ホームゲームに満員の観客を集め、地元の人びとを楽しませることが、すべてのベースだ。テレビ放映権もスポンサーもグッズ販売も、地元での圧倒的な支持がなければ、それこそ泡のように消えてしまう。
 他の国の国内サッカーの存立を脅かす「世界戦略」は、世界のサッカーの振興どころか、「侵略」にほかならない。「サッカークラブ倫理」というものがあるとすれば、現在巨大クラブが進めている「世界戦略」は、明らかにそれに反するものだ。他国のサッカー市場に一方的に自分たちを売りつけようという「世界戦略」は、断じて「国際交流」などではない。
 メディアがそれに乗る。侵略されている日本のクラブやJリーグがなぜかうれしそうに彼らを迎える。しかし聡明なファンは、すでにこうした侵略の意図に気づきはじめている。空席の目立つスタンドがそれを証明している。
 
(2005年7月27日)

No.565 審判員にも試合中の給水の準備を

 関東地方で梅雨が明けた18日、埼玉スタジアムで浦和×広島を見た。キックオフの午後7時でも、気温30度、湿度66パーセント。しかも無風で、サッカーのためのコンディションとしては本当に過酷だった。
 1カ月半の中断が明け、7月2日に再開したJリーグ。今月は週末と水曜日の試合が2週連続し、これが5試合目だった。その疲れに暑さが加わり、両チームとも涼しかったころに比べて動きが少ないように見えた。そして主審も、ボールの動きについていくのが大変そうだった。暑さだけでなく、審判も「5連戦」の間、人によってはほとんど休みなく「出場」しているのだから大変だ。
 「審判は、試合中にきちんと水を飲んでいますか」
 暑くなってきたころ、ある審判員にこんな質問をした。
 「ほとんど飲めません」
 その答えに、私は小さなショックを受けた。

 試合中、選手たちはプレーの停止中にタッチラインのところに立って外に置かれた水を飲むことが許されている。体温調整のための給水は、のどの渇きを自覚する前に行わなければならない。45分間のハーフの間に、少なくとも1、2回は給水しないと、高いパフォーマンスを続けることができなくなってしまう。
 プレーの停止中とは、ボールがゴールラインやタッチラインを割ったとき、あるいは反則で試合が止められたとき。選手たちはすばやく近くにある水を飲む。
 しかし審判たちは、こうしたときにも、何かトラブルがないか、緊張を強いられている。なかなか水を飲むチャンスがない。その結果、審判員たちは、更衣室を出てからハーフタイムに戻るまで、まったく給水しないケースが多くなる。

 現代のトップクラスの試合では、主審は1試合に12から14キロも走る。副審は、選手たちやボールの動きに合わせてスプリントを繰り返すことを強いられる。ボールをめぐる競り合いこそないものの、かなりハードな「アスリート」と言ってよい。そのアスリートが45分間も給水しないのは、現代スポーツ医科学の観点から言っても間違っている。
 「外国での試合へ行くと、負傷した選手を見にはいってきたドクターが、主審にも水を渡してくれたりするんです。でも日本ではそういうことはあまりないですね」
 そんな話も聞いた。日本のドクターやトレーナーたちは、自分の選手のことで頭がいっぱいなのだろうか。
 日本の審判員たちは、選手たちには給水を勧めても、自分はがまんをしているようなところがあるようだ。しかしそれは、「アスリート」として正しい態度ではない。

 審判員も、いまの日本のような暑さのなかでは試合中の給水が不可欠であることを強く自覚する必要がある。同時に、審判員がうまく給水できるような準備が必要だ。
 両タッチラインの外、ハーフラインのあたりに審判用の水を用意しておけば、副審の給水はできる。逆のエンドでのCK前など、チャンスを見つけられるはずだ。
 しかし常にピッチの中にいる主審が試合中に給水するのは、本当に難しい。負傷のケアのためにピッチ内にはいるドクターやトレーナーの協力が不可欠だ。そして、主審が積極的に給水する意識をもつとともに、選手たちも、主審が水を飲めるよう気を配り、協力する必要がある。
 真夏のピッチに立つと、こんなコンディションでサッカーをするのは、よほどの酔狂のように感じるときがある。相手チームも審判もその酔狂の仲間だ。過酷な状況を「生き残る」には、仲間として力を合わせるしかない。みんなで暑さと戦うしかない。
 
(2005年7月20日)

No.564 最近のボールの話

 「FOOTBALL」といえば国際的にはサッカーという競技のことだが、サッカーボールそのものも示す。
 「フットボール自体には進化などないよ。進化するのはそれをプレーする人間なんだ」と語ったのは、78年ワールドカップでアルゼンチンを優勝に導いたセサル・メノッティ監督。しかし「フットボール」が「サッカーボール」のこととなれば、その進化(変化と言っていいかもしれない)は著しい。
 ルールには簡単な記述があるだけだ。ボールは、「球形で、皮革または他の適切な材料で、外周が70センチ以下、68センチ以上で、重さが試合開始時に450グラム以下、410グラム以上で、空気圧が海面の高さで0・6〜1・1気圧のもの」とされている。

 ボールの質、機能は、過去半世紀の間に急速な進歩を遂げた。1950年代まではゴムのチューブに空気を入れて口を閉じてからボールの一部を皮ひもで10センチにもなるその口を閉じる作業を必要とした。ヘディングのときに皮ひもの部分が頭に当たると、猛烈に痛かった。
 60年代にはいって、空気入れの口にバルブを使用し、このひもを消すことに成功した。ヘディングの痛みをなくすとともに、空気入れの「労役」からプレーヤーを解放した「大革命」だった。
 五角形と六角形の計32枚のパネルを組み合わせたボールが出現したのが60年代。それまでは、12枚か18枚の皮革の組み合わせだったから、より完全な球形に近くなった。
 86年には、天然皮革に限られていた素材が人工皮革も許されることになった。天然皮革(主として牛の皮だった)には、伸びる方向に偏りがあり、使っているうちにボールがゆがんできた。人工皮革にすることで、そのゆがみが解消された。

 98年には、表皮の表面に細かな気泡を入れる加工が施されたボールが登場し、フランスで開催されたワールドカップで使用された。ボールの反発力が格段に高まり、シュートが高速になって「キーパー泣かせ」と言われた。
 そして2004年には、それまで32枚のパネルを手縫いで合わせていたものを接着剤で付けたまったく新しいボールが開発された。現在、Jリーグで使われているのがこのボールだ。キックの威力がさらに増したという。
 大会のロゴ、メーカーの商標以外の広告を付けることは禁止されているが、それを除くと、デザインについての規制はない。そのせいか、最近は、メーカーが毎年のようにデザインを変える。
 2002年ワールドカップでは東洋をイメージしたデザインのボールだった。昨年のヨーロッパ選手権では、開催国のポルトガルの歴史をモチーフにしたデザインのボールが使われた。来年のワールドカップでは、白をベースに、ドイツ国旗の黒、赤、黄があしらわれたデザインになる。

 サッカーといえば、誰の頭にも「白黒ボール」が浮かぶだろう。日本でサッカーが本格的に普及したのは64年の東京オリンピック以降。その直後にスタートした日本サッカーリーグでこのボールの使用に踏み切り、その新鮮な視覚的イメージがサッカーという競技の社会的認知に大きな役割を果たした。しかし現在ではほとんど使われていない。
 機能やデザインは変わっても、サッカーという競技のなかでボールが占める役割は変わらない。試合を優位に進めるのは、決まってボールを大事にキープできるチームだ。
 かつてイングランドで名監督として鳴らしたブライアン・クラフは、試合直前、タオルの上に1個のボールを置き、その周囲に選手を集めて、こう檄を飛ばしたという。
 「いいか、これが俺たちのターゲットだ。さあ、行ってこいつを取ってこい!」
 
(2005年7月13日)

No.563 目になるコメンテーター

 昨年のアテネ・パラリンピックで、視覚障害者のサッカー競技が話題になった。ボールに音源を入れ、それを頼りにプレーするのだが、関東や西日本でリーグ戦が開催されるなど、日本でも盛んになってきている。ことし8月には、ベトナムで開催されるアジア選手権に日本代表が出場することも決まっている。
 視覚障害者のサッカーは、1930年代にイギリスで始まり、60年代には協会がつくられて国際交流も始まった。97年にはバルセロナ(スペイン)で第1回ヨーロッパ選手権も開催されている。ルールの整備、審判員の養成などサポート態勢も充実し、急速に普及が進んでいる分野といっていいだろう。
 プレーとともに注目したいのが視覚障害者の観戦受け入れ態勢だ。国際サッカー連盟(FIFA)発行「FIFAマガジン」の最新号で、ドイツでそのための取り組みが広がり始めていることを知った。

 スタジアムに視覚障害者が安心して座れるスペースをつくり、ヘッドフォンで試合の実況を聞かせるというシステムである。実況は、彼らのためだけの特別のコメンテーターのもの。テレビ放送の音声では画面に映っているものはあえて語らないこともあるので、「見えない」ファンにはわからないことが多いからだ。
 視覚障害者たちは、以前から親しい人に伴われてスタジアムで「観戦」していた。しかし視覚を補う解説の訓練を受けていない人がいくら話してくれても、「見えてこない」部分が多かったという。
 新しいシステムのおかげで、いまでは、訓練を受けたコメンテーターの話に耳を傾けてボールの流れやプレーの状況を頭に描きつつ、スタンドの雰囲気、ファンの歓声やため息、口笛、拍手、そして審判の笛などから、試合の様子を生き生きと感じられるようになった。それは、まったく新しい体験だという。

 視覚障害者に対する「コメンタリー・サービス」はイングランドで始まり、マンチェスター・ユナイテッドのオールドトラフォード・スタジアムには、44のヘッドフォン付き席が常設され、常に満員になっている。いまでは、大半のプレミアリーグ・クラブが、こうした設備とサービスを行っているという。
 オールドトラフォードには、視覚障害者ばかりか、視覚とともに聴覚も失ったファンさえ「観戦」にきている。付き添い者がヘッドフォンで実況を聞きながらそのファンの手のひらに文字を書き、試合の様子を伝えるのだ。
 日本では、96年に1試合だけ、浦和レッズが駒場スタジアムで「コメンタリー・サービス」を実施したことがある。ラジオとヘッドフォンを用意し、この日行われていたラジオ中継を聞きながら「観戦」してもらったという。しかしそれ以降は、こうした試みは行われていないようだ。

 場内だけのFM放送設備をつくり、特別のコメンテーターを用意するのは、少なからぬ費用を必要とすることに違いない。しかし工夫次第で、経費はいくらでも落とすことができる。
 コメンテーターは、ラジオ局やアナウンサーの養成学校などでボランティアを募集したらどうだろうか。以前、スタジアムの記者席で実況の訓練しているアナウンサーをよく見かけたが、録音するだけでなく、少人数でも聴取者がいるというだけで、訓練としては効果がアップするのではないか。機械設備も、本格的なFM中継でなく、コメンテーターを近くに配して有線で対応すれば、安くできる方法が見つかるのではないか。
 スタジアムでサッカーを見るのは本当に楽しい。その楽しみをできるだけ多くの人に伝えていくことも、Jリーグやプロクラブの重要な使命であるはずだ。
 
(2005年7月6日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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