わが目を疑ったのは、試合が始まって10分しか経過していないときだった。
鹿島アントラーズ陣内で反則があり、東京ヴェルディにフリーキック(FK)が与えられた。先週土曜日、東京の味の素スタジアムでのJリーグ第21節。8月に新監督を迎え、前節、3カ月ぶりの勝利を得た東京Vにとっては、上位浮上への重要な1戦だった。ところがその大事な試合で見たのは、まるでOBサッカーのような緩慢な動きだった。
反則の笛が鳴った後、鹿島側のゴールラインに向かって転がったボールを、東京VのFW平本がゆっくりと歩いて拾いに行ったのだ。そしてようやくボールを拾った平本がFKの位置にボールを戻すと、こんどはMF小林大がゆっくりと(というよりだらだらと)ボールを置き、周囲に指示を出し始めたのである。
もちろん、あわてる必要はない。しかしなぜ平本は小走りにでも走ってボールを拾いに行かないのだろうか。なぜ小林大は、もっときびきびと準備を整えないのだろうか。
前半10分である。疲れているはずはない。走って拾いにいかないのは、それがJリーグの「常識」だからだ。個人名を挙げたが、平本や小林大が特別に怠慢なのではない。主審が笛を吹いてプレーが止まった後の緩慢な動きは、いまやJリーグの「体質」のようになってしまっている。
最も顕著なのは、コーナーキック(CK)のときだ。ボールが出てからCKがけられるまで、Jリーグでは優に30秒を必要とする。ところがヨーロッパのリーグの試合をテレビで見ていると、大半が20秒程度なのだ。
違いはキッカーにある。ヨーロッパではボールが出た瞬間にキッカーが走っていく。そしてボールをセットすると、即座にキックする。ところがJリーグでは、動きだすまでに一瞬の間があり、コーナーへは歩いて向かい、そしてセットしてからあれこれと中央にサインを出す。
十数秒の差は、試合のリズム、スピード感に大きな違いを生じる。早いタイミングのキックに対応するため、中央の選手の動きも自然ときびきびとする。安くない入場料を払い、狭い座席や混雑もものともせずファンがスタジアムに足を運ぶのは、鍛え抜かれたプロフェッショナルの超人的なプレーを見たいからだ。けっして、だらだらと歩くのを見るためではない。
選手交代のときの怠惰といってよい動きも、観客からサッカーを楽しむ時間を奪う。一瞬前までボールを追って疾走していた選手が、リードしている状況では、まるで「最後の仕事」とばかりにゆっくりと歩いてベンチに向かう。安っぽいヒロイズムを見るようで、気持ちが悪い。
Jリーグがスタートしたころには、全選手が「ファンを失望させてはならない」と懸命のプレーを見せた。未熟な部分はあったが、労をいとわないプレーがサッカーに関心の低かった人びとの心をつかみ、Jリーグがプロとして成り立つ礎がつくられた。
いまのJリーグの試合からは、そうした熱意、あるいは責任感を感じ取ることはできない。かといって、ヨーロッパのリーグのようなプロフェッショナルとしての姿勢があるわけでもない。「地元クラブ」を応援する愛情豊かなサポーターはいても、熱心なサッカーファンがどんどんJリーグ離れを起こしてヨーロッパのサッカーにひきつけられているのは、スターたちの存在やプレーのレベルだけでなく、いやそれ以上に、選手たちのきびきびとした動きが心地良いからではないか。
「走って拾いに行く」「走ってコーナーに向かう」、あるいは、「交代のときに走ってベンチに退く」ことは、誰にでもできる。それをしないのはプロとして大きなものが欠けているように思う。
(2005年8月31日)
第二次世界大戦が終結して60年を迎えたことし、世界の各地であの戦争が振り返られている。イギリスでは1冊の本が復刻された。『戦時下のサッカー(SOCCER at WAR)』。記録集計の第一人者ジャック・ロリンが20年前に書いた名著である。猛暑と言っていい気温ながら時折流れる風が心地よくなってきた8月の午後、この本を読んで過ごした。
1939年8月26日、青空が美しい土曜の午後、イングランドではプロリーグのシーズンが開幕。ドイツとの開戦の不安が広がるなか、1部から3部までの全44試合で60万人ものファンがスタジアムにかけつけた。
しかし9月1日、ドイツが突然ポーランドに侵攻、2日後、イギリスはドイツに宣戦布告する。そして政府の命令により、プロリーグはわずか3節で中止される。戦争が始まればイギリス本土が爆撃にさらされる危険性が高い。多くの人が集まるプロの試合は非常に危険だった。
だが少し落ち着くと、各地のプロクラブは地元警察の許可を得て親善試合を開催するようになる。試合の人気は高く、政府も観客数を8000人以下と制限する条件で容認せざるをえなくなった。クラブはやがて地域ごとにリーグを組織する。選手の報酬は週1・5ポンドに固定され、勝利給は全廃されたが、不満など出なかった。
選手の多くは兵役に志願していた。国内の駐屯部隊に配属された選手は許可を得て週末の試合に戻ってきたが、選手不足は否めなかった。
あるクラブは3台の車に分乗してアウェーゲームに出かけた。だが途中で1台が故障、もう1台に乗っていた選手たちもその修理に追われて、試合地に到着したのは1台、2選手だけだった。仕方なくホームクラブが控え選手5人とコーチを貸し、不足の3人は観客から志願者を募ってようやく11人にした。
試合は5−2でホームが勝った。ビジターの2ゴールのうち1点は貸し出されたホームのコーチが決めたものだった。これが「戦時下のプロサッカー」の現実だった。
戦争が始まった年の11月には国際試合も再開された。といっても、イングランド、スコットランド、ウェールズ間、「英国国内の国際試合」に限られ、選手不足はこちらも同じだった。ロンドンで行われたイングランド対ウェールズでは、試合途中にウェールズの選手が負傷、イングランドのベンチでただひとり控えていた交代選手が急きょユニホームを着替えてウェールズ代表として出場したこともあった。
恐れていたドイツ軍による英国本土爆撃が始まったのは41年秋。軍隊に徴用されていたスタジアムは爆撃の目標となり、使い物にならなくなった。こうしたクラブは、近隣のライバルチームのスタジアムを借りて試合をした。
他に喜びがない時期だったからだろうか、どんなにスター選手が欠けていても、サッカーの人気は衰えなかった。それどころか、全席が前売りの入場券は売り切れの試合も多かった。そして45年、ようやく戦争が終わると、空前のサッカーブームが訪れる。
「サッカーは第二次世界大戦を生き抜いた。それだけでなく、この国でサッカーが真に『キング・オブ・スポーツ』となるのは、第二次世界大戦を経た後だった」と、著者ジャック・ロリンは書く。
スター選手たちが戦地から戻り、空襲の心配もなく何万もの人びとがスタジアムに集うことができるのは、まさに平和の恩恵だった。しかしそれ以上に、食料調達もままならない戦時下に選手たちが懸命のプレーを見せ、爆撃の恐怖をものともせずスタジアムで国民がその喜びを共有し続けてきたという誇りが、イギリスの社会におけるサッカーの地位を決定的なものにしたに違いない。
(2005年8月24日)
今晩のイラン戦で、ことしになってからの「国際Aマッチ」は15試合となった。
世界大会の予選、地域の選手権など「公式戦」だけでなく、親善試合も含めた代表チーム同士の対戦を総称して「国際Aマッチ」と呼ぶ。
国際サッカー連盟(FIFA)によれば、昨年1年間に世界中で行われた国際Aマッチは、史上最多の1066試合に達した。FIFAには205協会が加盟しているから205の代表チームがあることになるが、平均すると1代表あたり10試合強となる。
そのなかで、日本は昨年、22試合をこなした。アジアカップ(中国)という短期間でまとまった試合数をこなす大会があったことが大きい。ことしも、FIFAコンフェデレーションズカップ(ドイツ)、東アジア選手権(韓国)に出場したことで試合数が増えている。ことしも年末までに19試合になる予定だ。
日本代表の強化相手は、91年までヨーロッパや南米のクラブチームが中心だった。こうした試合はFIFAの分類では「国際Cマッチ」と呼ばれ、正式な代表試合には数えられない。日本で最も多くの「国際試合」に出場したのは釜本邦茂(代表出場1964〜77)で、なんと232試合にも出場しているが、「国際Aマッチ」はそのうち75試合にすぎなかった。
92年に日本サッカー協会は方針を変更し、日本代表の対戦相手は原則として代表チームに限ることにした。以後Aマッチが急増した。
現時点でのAマッチ最多出場数は井原正巳(代表出場1988〜99)の123。三浦知良(代表出場1990〜)の91が続く。これが現役最多だ。
代表Aマッチ出場は、サッカー選手にとって最高の栄誉と言われる。ヨーロッパに行くと、どの国にも、1回でもAマッチに出場した全選手の出場記録やプロフィールを詳細に記した記録集が発行されている。
イングランドでは、A代表出場を「キャップ」という言葉で表現する。そして実際に試合に出場するたびに小さなひさしと頭頂部に飾りひものついた帽子を贈られる。
これは19世紀からの習慣らしい。サッカー揺籃の舞台であるパブリック・スクール(私立の中高校)では、安全のためこうしたキャップをかぶったままプレーしていた。19世紀後半のイングランドのサッカーでは、各選手がそれぞれに自分の出身パブリック・スクールのカラーのキャップをかぶり、それで観客が選手を識別する目印にしていた。背番号がまだなかったからだ。
やがて1870年代にプロ化の波が押し寄せ、試合が激しくなって、試合中にキャップをかぶる選手はいなくなった。代表試合に出場するたびに、キャップをひとつ渡す習慣が生まれたのはこのころだった。代表に出場しても報酬は出ない。せめてその栄誉をたたえようと、代表カラーのキャップをつくり、出場選手に贈ったのだ。
「キャップ」の言葉は、そのまま、「国を代表し、国の名誉のために戦う」という意味となる。それは、日本代表監督ジーコが代表選手たちを語るときに常に使用するフレーズと重なる。
「代表選手たちは、いろいろなものを犠牲にして国のために戦っているんだ。心から応援してほしい」
今晩のイラン戦に備えて23人の選手が招集され、うち2人が負傷で辞退したものの、21人が準備の練習をしてきた。このなかで今夜「キャップ」を増やせるのは、多くて14人にすぎない。その14人は、間違いなく全身全霊をかけたプレーを見せてくれるだろう。
今夜の試合には、もはやワールドカップ出場権はかけられていない。勝者の手に残るのは、アジア最終予選B組1位という、まったく実利のない記録だけ。文字どおり名誉をかけた試合である。
(2005年8月17日)
「駒野、今野、田中など、初選出の選手の良い面が見られ、われわれにとっては良い大会となった」
韓国で行われていた東アジア選手権の最終日に韓国を下した日本代表のジーコ監督はご機嫌だった。しかし彼が最も喜んだのは、GK土肥の活躍ではなかったか。
相手に押し込まれ、18本ものシュートを浴びせられた韓国戦、土肥はまさに完璧な守備を見せた。ゴールに飛んだ韓国のシュート6本を、ことごとく防いでしまったのだ。とくに前半35分、ロングパスからFW李東国に突破されたときの守備は圧巻だった。土肥は最初のシュートを大きくはじき返し、さらにそれを拾われて再度放たれた低いシュートにも正確に反応してストップした。土肥の神がかりの活躍がなかったら、前半のうちに日本は大きく崩れていたかもしれない。
土肥洋一(FC東京)は1973年7月25日生まれ、現在の日本代表で最年長の32歳である。熊本県の大津高校から92年に日立(現在の柏レイソル)に加入。最近安定感を増して「日本代表入りも間近」と言われるジェフ千葉のGK櫛野亮一は高校の後輩である。
柏は94年にJリーグに昇格、土肥は96年に完全レギュラーとなった。しかし98年にポジションを失い、2000年にFC東京に移籍。以後6シーズン、彼はJリーグの全試合に出場している。7月までに記録された168試合連続出場はJリーグ記録。まさに鉄人だ。
しかし土肥という選手が日本代表にはいっていることを知らないファンも多いのではないか。日本代表入りして2年以上になったが、大きな話題になることもなく、地味な存在であるのはたしかだ。「第3GK」であるからだ。
ひとつの試合にエントリーするGKは先発とサブの2人。しかしフィールドプレーヤーのように戦術的な要請で試合中にGKを交代することは、通常ない。サブGKには、先発GKに負傷や退場があったときの要員である。「第3」は、さらにその次のGKだ。
今回のような「大会」では、GKを3人連れていく。第1GKが負傷したり退場になったときにGKが2人だけだと、次の試合ではGKのサブがいなくなってしまうからだ。しかし「第3」に出番が回ってくることはほとんどない。
ジーコの「第1GK」はずっと楢崎正剛(名古屋)だったが、昨年8月のアジアカップでの活躍を期に川口能活(磐田)がポジションを奪った。代表入り以来、土肥は常に彼らの後にランクされていた。常に代表に名を連ねているが、ワールドカップ予選では試合の前日に18人の最終メンバーが決められ、そこからもれるとベンチにはいることすらできない。土肥は川口や楢崎にも負けないトレーニングをこなしながら、試合になるとスタンドで観戦しなければならなかった。
そうしたなかで、土肥がどう練習に取り組み、どんな態度を取っているか、ジーコはじっと観察していたに違いない。第3GKはチームのなかで最も出場機会から遠い存在。だからと言ってふてくされていたら、チーム全体のモラルに悪影響を与える。
昨年11月、ワールドカップ第1次予選の勝ち抜きが決まったシンガポール戦(埼玉スタジアム)で、ジーコは土肥を先発させた。2月のマレーシア戦に次ぎ、2試合目の出場だった。マレーシア戦もシンガポール戦も日本の一方的な攻勢で、土肥の活躍のチャンスはそうなかった。しかしこの韓国戦では、十二分に実力を見せることができた。
「川口、楢崎、土肥...。目をつぶって誰にユニホームを渡してもだいじょうぶ」というジーコの言葉は、けっして大げさではない。
(2005年8月10日)
韓国南部の3都市、大田、全州、大邱を舞台に、東アジア選手権が開催されている。日本は男女とも北朝鮮に0−1の負けという残念なスタートだったが、どの試合も熱気があふれていて楽しい。
この大会の画期的なところは、男女の試合が巧みに組まれていることだろう。男女とも1回総当りで、初日の7月31日には韓国×中国、北朝鮮×日本の男子2試合が行われた。そして翌日には、まったく同じ組み合わせで女子の試合が行われた。各チームの2試合目は、同じカードの男女の試合が同じ日に連続して行われる。3日には日本×中国、4日は韓国×北朝鮮。そして6日と7日は、残る中国×北朝鮮と韓国×日本で、6日に女子、7日に男子の試合が組まれている。
もちろん正式には別の大会だが、今大会は特別に「男女総合優勝」という表彰制度が設けられ、男女の勝ち点を合わせて順位を争うという試みも行われる。開幕の2週間ばかり前に発表された「思いつき企画」だが、悪くない。
この暑さのなか、短期間で3試合をこなすのは大変だ。とくに女子は6日間で3試合をこなさなければならない。しかし男子の大会と組み合わされていることで注目度が上がり、選手たちにとってはやりがいがあるに違いない。
こうした大会方式は、おそらく世界で初めてのことではないか。男女とも急速に世界のレベルに追いつきつつある(女子の中国はずっと世界のトップレベルだったが)東アジアの4カ国。試合結果だけでなく、男女の組み合わせ大会の面白さも、世界に伝えられていくだろう。
ひとつ残念なのは、大会が4カ国だけの対抗大会のような印象を与えていることだ。男子の大会は、正式には「東アジア選手権2005決勝大会」。東アジアサッカー連盟(EAFF)の選手権で、加盟9カ国のチャンピオンを決める大会である。「決勝大会」は4カ国しか出場しないが、当然、「予選」が行われている。
日本、韓国、中国の3カ国は予選なしのシード。残りの国ぐには、3月にチャイニーズ・タイペイ(台湾)に集まり、予選を開催した。マカオが棄権したが、残るチャイニーズ・タイペイ、グアム、香港、北朝鮮、モンゴルの5カ国が総当り1回戦を行い、北朝鮮が全勝で決勝大会出場を決めた。4試合で得点31、失点0という強さだった。
大会の役員には、当然、出場4カ国だけでなく、EAFF全加盟国の人びとが含まれている。しかしそうした人びとは表に出てこない。
EAFFは2002年に誕生したばかりの組織。広大な地域をカバーするアジアサッカー連盟(AFC)の下には、東南アジア、西アジア、南アジアと、地区ごとに組織がつくられていたが、唯一、東アジア地区だけ組織化が遅れていた。日本がリーダーシップをとってようやくそれが実現したのが、日本と韓国を舞台に開催された2002年ワールドカップの直前だった。東アジア選手権は2003年に日本で第1回大会が開催され、韓国が優勝している。
初代会長は日本の岡野俊一郎氏(現在は韓国の鄭夢準氏)。事務総長は日本の岡田武夫氏で、事務局は東京の日本サッカー協会のビル内に置かれている。しかしワールドカップの出場記録だけでなく、サッカーの歴史や競技人口などに大きな差があり、今回の決勝大会に出場した4カ国の力が突出する一方、他の5カ国は非常に影がうすい。
選手と手をつないで入場する「エスコートキッズ」やボールボーイを、決勝大会出場を逃した国ぐにから招待し、試合前に紹介するなどしたらどうだろう。全加盟国が参加し、それがファンにもわかるような大会運営ができたら、EAFFの存在とその意義をもっと強くアピールできるように思う。
(2005年8月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。