ワールドカップ予選の2年間が終わった。12月9日の組分け抽選結果を経て、32の出場国はいま、来年6月9日の開幕に照準を合わせて新年を迎えようとしている。
その一方、予選に敗れた世界中の162もの国はそれぞれの思いのなかにいる。不運をのろっている国もある。手中にはいりかけた初出場を逃し、ちょうど12年前の私たちのような喪失感にとらわれている国もある。そしてまた、今回の予選で大きな飛躍を遂げ、未来への希望を胸に2006年を迎える国もある。その代表がヨーロッパ予選第3組のリヒテンシュタインだ。
スイスとオーストリアにはさまれたリヒテンシュタイン公国。瀬戸内海の小豆島とほぼ同じ158平方キロの国土に、約3万3000人のゲルマン系の国民が居住している。国語はドイツ語だ。現在の主要産業は工業だが、美しい切手を発行することで、マニアの間ではよく知られている。
1934年設立のサッカー協会に加盟しているクラブ数はわずか7。チーム数はユースや女子も含め約100で、登録選手数は1900人。イタリアやスイスでプロとしてプレーしている選手もいるが、代表選手の大半はアマチュアである。
2002年ワールドカップの予選では、重要な試合にリベロのハリー・ツェックが出場できなかった。本業のワイン作りの最盛期と重なってしまったからだ。銀行員、郵便局員、大工...。74年にFIFAに加盟したものの、こんなチームでは戦うことはできないと活動は消極的だった。
最初の国際試合は82年。初めてメジャー大会の予選に参加したのが96年のヨーロッパ選手権で、ワールドカップ予選は98年フランス大会が初出場だったが、マケドニアに1−11で敗れるなど10戦全敗、1試合平均失点は5点を超えた。2002年大会予選も8戦全敗だった。
昨年8月に始まった2006年大会の予選でも、初戦はエストニアに1−2で屈し、続いてスロバキアに0−7で大敗した。2004年10月9日、首都ファドーツのラインパルク・スタジアムに強豪ポルトガルを迎えたときにも、期待は大きくなかった。それ以前、リヒテンシュタインはポルトガルと4回対戦したことがあったが、もちろん全敗で、得点は0、総失点は28だったのだ。
前半は0−2。2点目はオウンゴールだった。ところが後半3分にMFブルグマイヤーが1点を返すと急に元気づいた。スタジアムを埋めた超満員の3548人(間違いではない)の観衆の声援に後押しされて果敢に攻め込み、後半31分にはMFベックがFKを決め、同点に追いついてしまったのだ。2−2の引き分けは、リヒテンシュタインがワールドカップ予選21試合目で初めて記録された勝ち点1だった。
その4日後にさらに驚くべきことが起こった。アウェーでルクセンブルクを4−0で破ったのだ。もちろんワールドカップ予選初勝利。それだけでなくアウェーでの初勝利であり、また4ゴールも最多記録だった。ルクセンブルクも小国だが、人口は44万、登録選手数はリヒテンシュタインの10倍もいる。
ことし8月にはスロバキアと0−0で引き分け、9月には再びルクセンブルクを3−0で下した。ヨーロッパ第3組で7チーム中6位。しかし残された2勝2分け8敗、勝ち点8という記録は、3万3000人の国民に深い満足感と大きな誇りをもたせた。
協会本部やテクニカルセンターが建設され、ユース育成に大きな力が注がれ始めている。ラインハルト・バスラー協会会長は、満足そうな笑みを浮かべてワールドカップ予選をこう振り返った。
「この2年間で、私たちはついに世界の『サッカー地図』に載ることができた」
(2005年12月28日)
勝利が決まると、シドニーFCの選手たちは、ごく自然にサポーターたちのところに向かった。チームのサポーターではない。試合の途中から日の丸を広げ、パワフルに「カズ・コール」を繰り返していたサポーターたちだ。
何人かの選手がカズをつかまえようとする。カズ(三浦知良)は「とんでもない」と逃げる。しかしその「小競り合い」が何回も繰り返されると、カズはようやく観念し、大きな選手たちに軽々とかつがれると、晴れやかな表情でサポーターに手を振った。
12月16日、FIFAクラブワールドチャンピオンシップを目指したカズの40日間の挑戦が終わった。ことし誕生したばかりのシドニーFC(オーストラリア)にとって、国立競技場で行われた5位決定戦でエジプトのアルアハリを2-1で下したことは、何よりの勲章になるだろう。そしてカズは、その勝利に欠くことのできない攻撃のリーダーだった。
1967年2月生まれ。カズのサッカー人生は、挑戦の連続だった。15歳で高校を中退してブラジルに渡り、そこでプロとして認められ、23歳で帰国すると、Jリーグ誕生前後の日本のサッカーのエースとして国民的ヒーローとなる。しかしその地位をあっさりと捨て、94年には日本人として初めてイタリアのセリエAに挑戦した。98年ワールドカップの予選突破に貢献しながら代表からもれると、翌年には自らを奮い立たせるようにクロアチアに飛び立った。
Jリーグでは、Ⅴ川崎(現在の東京Ⅴ)のほか、京都、神戸でプレー。ことし夏、監督が交代した神戸でチーム構想から外れると、J2の横浜FCに移籍して、チームだけでなくJ2そのものを活気づかせた。J1からJ2への移籍にも、カズには暗い雰囲気など皆無だった。それどころか、カズがいるだけで周囲の選手たちは輝くばかりに明るく、前向きになった。
わずか40日間、6試合ではあったものの、シドニーFCでも、カズは同じだっただろう。このチームの選手たちの多くも、カズからプロとは何かを学び、どんな強豪にも臆せず、恐れずに挑戦する姿勢を植えつけられたに違いない。試合前のウォーミングアップでチームの先頭を走り、チームメートに声をかけるカズを見て、それがよくわかった。
カズがシドニーFCで最後の試合を戦った翌日には、同じ38歳のゴン(中山雅史)が磐田と新たに1年間の契約を結んだ。山本昌邦監督の下、急速にチームの若返りを進めている磐田だが、ひたすらゴールに向かっていくゴンのプレーとプロとしての姿勢が、まだまだ必要との判断だったのだろう。
「より成長できるよう努力していく」という彼のひと言だけでも、磐田が賢明な選択をしたことがわかる。
カズとは対照的に、ゴンのプロ生活は磐田とその前身のヤマハひとすじだった。しかし彼も、間違いなく「挑戦者」だった。30代後半にして、「もっとうまくなりたい。もっとゴールを挙げられるようになりたい」と、常に成長を目指す姿勢を保ち続けることはけっして容易ではない。そしてその成長をチームに対する貢献として表現できる選手は、本当にまれだ。
2006年、ジーコ監督率いる日本代表は3回目のワールドカップに臨む。1次リーグは、オーストラリア、クロアチア、ブラジルと組んだ。簡単な戦いであるわけがない。しかし恐れる必要はない。一人ひとりの選手が一歩でも成長しようと努力を続け、相手を恐れずに試合に臨むことができれば、必ず道は開ける。
カズとゴンは、過去十数年間、そうした勇気を私たちに与え続けてきた。来年の日本代表に何よりも必要なのは、「カズ魂」であり、「ゴン・スピリット」であるに違いない。
(2005年12月21日)
サッカーがこんなに美しく、また心ときめかせるゲームであることを、久しく忘れていたような思いがした。
12月10日、柏サッカー場。J1とJ2の入れ替え戦第2戦。アウェーでの初戦を1−2で落として後がない柏レイソルが、J1昇格へ王手をかけたヴァンフォーレ甲府を迎え撃った。
入れ替え戦は通常のリーグ戦ではない。何よりも大事なのは結果だ。きれいなプレーよりも、激しい闘志と闘志のぶつかり合いになるのが当然の試合だ。しかしその予想は大きく外れた。甲府は見事なサッカーをプレーした。
6−2。ブラジル人FWのバレーがJリーグ新記録の1試合6ゴールを記録した。しかし甲府はバレーの得点力におんぶして勝ったわけではない。チームの全員が積極果敢に攻守を繰り返し、力強くサッカーをつくりあげた。その仕上げが、たまたまバレーのところに回っただけだった。
何よりも印象的だったのは、選手がことごとく生き生きとプレーしていたことだ。
味方ボールになったら果敢にスペースに走る。1人が走ると、2人、3人と連動して動く。その動きにつられるようにボールが動く。パスを受ければ、ためらうことなく次のプレーが展開される。
相手ボールになると、間髪をおかず守備にはいる。相手を追い詰め、スピードを落とさせると、味方選手が群がるように寄ってきてボールを奪ってしまう。奪うと、そこからまた攻撃が始まる。
「観客がもういちど見たいと思うようなサッカーがしたい。選手たちが『プレー』をすることが何より大事。いまは『プレー』をしているチームは少ない。演技をしている選手も多い」
大木武監督(44)の言葉を聞いただけでは、哲学的でわかりにくい。しかし甲府のゲームを見れば、その真意は誰にも理解できる。
なぜ少年たちはサッカーに熱中するのだろうか。それはサッカーが好きだからだ。それ以外に理由はない。プロのサッカーとは、その好きだという気持ちを、自発的に、そして高い技術と献身的な動きにより最大限に表現するべきものだ。それこそが「プレーする」ということだ。
ところが成功がカネを生む現代のプロサッカーでは、「いかにプレーするか」に関心を払う指導者など本当にわずかになってしまった。多くの人の関心は、「いかに勝つか」にしかない。戦術上の要求や義務に縛られ、指導者に命じられるままロボットのように動き回るサッカーに、観客がひきつけられる道理がない。
報道されているように、甲府は年間予算がJ1クラブの平均の5分の1程度にすぎず、有名選手がいるわけでもない。しかし大木監督は選手たちを信じ、彼らが少年時代からもっていたサッカーへの愛情を力いっぱい表現できるよう導いてきた。そして選手が自分たちの力を心底から信じられるようになったとき、あの柏戦のような喜びにあふれた試合が生まれたのだろう。
甲府のサッカーは来年のJ1で旋風を巻き起こすだろう。地元のサポーターだけでなく、本当にサッカーを愛し、現代のプロサッカーに違和感をもち始めている人びとが「甲府を見よう」とスタジアムに押しかけるだろう。
選ばれた特別な選手たちだからできるのではない。サッカーに取り組む自分自身の心の奥底を見つめ、それに素直になって誠心誠意努力すれば、誰でも、甲府のように「プレーする」ことができるのだ。
柏と対戦した甲府のサッカーは、私がことし1年間で見た数多くの試合のなかで最も心を動かされるものだった。大木監督と甲府の選手たちは、サッカーというゲームをもういちど信じる力を、私に与えてくれた。
(2005年12月14日)
「どんな試合だって、0−0から始まるんだ!」
試合前の更衣室で、オランダ・サッカー史上最高のプレーヤー、ヨハン・クライフは突然大声を上げた。
1971年5月、クライフを中心とするアヤックスは欧州チャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)の決勝戦に臨んだ。決勝進出は2年ぶり2回目。前回は経験豊富なACミラン(イタリア)にしてやられたが、この日の相手はギリシャのパナシナイコス。まったくの「無印チーム」だった。
「今回は楽勝」というムードが漂うチームメートたちに、クライフは強く警告した。それが冒頭の言葉だった。
メディアは「勝って当然」と書きたててきたかもしれない。相手は無名選手の集団で、クラブとしてもこのような舞台に立った経験はない。しかし試合が始まる前から勝った気持ちになるのは間違っている。どんなことだって起こりうるのがサッカーというゲームだ。勝つためには、もてる限りの力を出し尽くさなければならない。
クライフの言葉にわれに返った選手たちは、慎重に、そして情け容赦なくこの試合を戦い、2−0で勝って初めて欧州王者の座についた。
「私はすべての相手をリスペクトしている」
こちらはジーコ日本代表監督の言葉だ。2002年に就任してその10月にジャマイカと対戦して以来、日本代表はジーコ監督の下で60試合を戦ってきた。その間、試合に臨むジーコの態度は終始一貫してきた。
「相手を恐れず、侮らず、勝つために全力を尽くす」
現代の世界のナショナル・チームの大半には、決定的な力の差があるわけではない。戦い方やほんの小さな運不運で、結果はどちらにも転ぶ。だからFIFAランキングでどんなに下の相手でも甘く見てはいけない。逆に相手がランキング・トップのブラジルでも、恐れる必要などない。
ことし6月、ドイツでのFIFAコンフェデレーションズカップB組の最終日、準決勝をかけたブラジルとの対戦を前に、誰よりも闘志をみなぎらせていたのがジーコだった。たしかにスターぞろいで強いチームには違いない。しかし日本が負けると決めつけるのは間違っている----。その言葉に触発された日本代表は見事な戦いを見せ、失点するたびに取り返して2−2の引き分けに持ち込んだ。
ワールドカップ2006ドイツ大会の組分け抽選会が目前に迫ってきた。12月9日(日本時間10日早朝)、日本が1次リーグで対戦する3チームが決まる。
ワールドカップに出場するすべてのチームの当面の目標は、4チームが総当たりする1次リーグを突破し、ベスト16による決勝トーナメントに進出することにある。
前大会では、ディフェンディング・チャンピオンのフランスと、有力な優勝候補だったアルゼンチンがこの「第1ハードル」を突破できずに涙をのんだ。最後には圧倒的な強さを見せたブラジルでさえ、1次リーグの時点ではチームがまとまっておらず、危うくトルコに足をすくわれるところだった。いまや、ワールドカップではどんなチームにとっても「絶対」はない。
それは、どんなビッグネームと対戦することになっても日本にも十分チャンスがあるということであり、逆に、初出場でFIFAランキングがどれだけ低いチームでも、日本が力を出し切らない限り勝利を手にすることはできないことを意味している。
抽選結果が出たら、冷静にライバルたちの戦力を分析し、あとはジーコと日本代表チームを信じて力いっぱい声援を送りたいと思う。
恐れることも侮ることも不要だ。すべての試合は0−0から始まるのだから...。
(2005年12月7日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。