トリノでオリンピックが始まる。イタリアというと「南欧」のイメージがあるが、トリノは北緯45度。日本でいえば北海道の北端・稚内に近い。「冬季オリンピック」が開かれても不思議はない。
この町を初めて訪れたのは1985年秋。サッカーでトリノといえば、もちろん、セリエAきっての名門、ユベントスの取材だ。念願のヨーロッパ・チャンピオンズカップで優勝、年末のトヨタカップで初来日が決まっていた。
トリノは古代ローマの植民地として建設された町。紀元前218年、カルタゴ(現在のチュニジア)からスペインを経由し、アルプスを越えて攻め込んだハンニバルに破壊されたが、その後再建され、交通の要衝として栄えた。
中世から近世にかけてイタリアは周辺諸国に食い荒らされ、分裂状態だった。しかしこの地方で勢力をたくわえたサルデーニャ王国が中心になってようやく1861年にイタリア統一に成功。その後3年間、新生イタリア王国の首都はトリノに置かれた。
今回のオリンピックの開会式と閉会式に使用される「スタジオ・オリンピコ」は、私が取材した当時は「スタジオ・コムナーレ」と呼ばれ、ユベントスがホームスタジアムとして使用していた。1934年の第2回ワールドカップに向けて建設された古い競技場である。
34年ワールドカップはファシスト政権の宣伝のために利用された大会だった。わずか180日の工期でトリノに建設された新スタジアムには、「スタジオ・ムッソリーニ」の名が冠せられた。「コムナーレ」と呼ばれるようになったのは、第二次大戦後のことだ。
1990年ワールドカップを機に、ユベントスは北西の郊外に建設された7万人収容の新スタジアムにホームを移した。しかし私が取材した85年には「コムナーレ」で試合をし、隣接するグラウンドでトレーニングをしていた。
更衣室は、試合も練習も同じだった。スタジアム内の更衣室で練習着に着替えた後、練習場に行くためには、かなりの幅がある公道を横切る必要があった。プラティニをはじめとした世界的なスターたちは路上で勝ち構えるファンにつかまり、わずか100メートル先の練習場に行くのに10分間もかかっていた。
「ユベントスはトリノでは人気がないんだ」
500人ものファンに囲まれた練習を見ながら、声もひそめずに「スタンパ」紙のオルメッツァーノ記者が語った言葉を、最初は信じられなかった。しかしこの町で市民に人気があるのは白黒のユベントスではなく、赤いユニホームのトリノ。市民の多くが自動車会社フィアットの関連企業で働き、そのフィアットのオーナーがユベントスのオーナーでもあることから逆に反発があるのだと、彼は語った。
そのトリノは、1940年代に無敵を誇り、イタリア代表のレギュラーの大半を占めた。ところが1949年5月、遠征から戻ってきたトリノの選手たちを乗せた飛行機が市の郊外の「スペルガ」という丘に激突、18人もの選手をいちどに失った。そして、戦前から戦後にかけてセリエAで6連覇を誇った栄光は二度と戻らなかった。
1950年ワールドカップでイタリア代表が1次リーグで敗退した原因も、主力をスペルガの悲劇で失ったことにあった。選手はそろえることができた。しかし彼らは飛行機での遠征を恐れ、ブラジルまで2週間近くかかる船旅を選んだ。結局、そのために調整不足になったのだ。
現在トリノはセリエBで奮闘中だ。「スタジオ・オリンピコ」は、閉会式で使命を終えると、みたび名前を変え、トリノのホームスタジアムになる。新名称は「グランデ・トリノ(偉大なトリノ)」。1940年代の無敵のトリノにつけられたニックネームだ。
このトリノ市を主舞台に、冬季オリンピックが始まる。その間、このコラムは、2週間ばかりお休みをいただくことになる。
(2006年2月8日)
右サイドのFK。中村俊輔の左足から放たれたボールは高く舞い上がり、突然、急角度でゴール前になだれ落ちる。相手チームの選手たちは、GKも含めて魅入られたようにこのボールを見送る。
そのとき、白と緑の横じまのユニホームの選手がただひとり走り込む。彼はボールの落下地点に正確に到達し、軽くジャンプしながら頭で合わせてゴールに流し込む...。
スコットランド・プレミアリーグで首位を快走するセルティックで中村とコンビを組んでゴールを量産しているFWジョン・ハートソンは不思議なプレーヤーだ。大きな体を生かしたポストプレーを得意としているのだが、ヘディングをするときほとんどジャンプしないのだ。
185センチという背の高さは、現在のヨーロッパでは特別長身というわけではない。昨年のFIFAクラブワールドチャンピオンシップに出場したときのリバプールは、平均身長が188センチもあった。ハートソンの身体的特徴は、スキンヘッドだけでなく、まるでラグビーのFWのようながっしりとした上半身にある。この身長で、体重が公称92キロもあるのだ。
ロングパスが送られると、ハートソンはすばやくポジションを取り、ボールが落下してくるのを待つ。そしてまったくジャンプせず、ヘディングで味方に正確につなぐ。もちろん相手チームDFが背後から激しく競りかけるが、彼はそのずっしりと重い体でブロックし、微動もしない。両足をグラウンドにつけたままのヘディングだから、精度は非常に高い。
飛んでくるボールの落下地点の見極めが誰よりも早く、正確だ。それがハートソンの最大の長所だ。鈍重そうに見えるが、彼の頭蓋骨のなかには、スーパーコンピューターなみの頭脳が詰まっている。
そもそも、コンピューターが開発されたのは、大砲の弾道計算のためだったといわれる。何キロも何十キロも先の標的に向かって弾丸を発射する大砲。しかし正確に着弾させるためには、気象条件に応じて、発射のための火薬の量や発射角度を調整しなければならない。気温、湿度、風向き、風速に応じた調整の表をあらかじめつくっておかなければ、せっかくの大砲も、戦場ではまったく役に立たないものになってしまう。
その表をつくる計算は、人力では1カ月もかかるものだった。そこで、第2次世界大戦が始まったころ、アメリカの陸軍は高速計算機の開発を進めた。完成は1946年。それが、今日のコンピューターの元祖だという。
サッカーボールの弾道計算は、間違いなく、鋼鉄の筒と火薬で発射される弾丸より複雑だ。ボールをけるのは、それぞれに筋力や技術が違い、微妙なくせのある人間の足であり、あんなに大きいのにわずか400グラムしかないボールには、気まぐれな回転が与えられているからだ。
「ヘディングが強い選手」とは、背が高い選手でも、ジャンプ力がある選手でもない。もちろん、そうしたものが必要になる場合もあるが、すばやく正確な落下地点を見極めることさえできれば、背が低くても試合中の多くの状況で競り合いに勝つことができる。ヘディングをするのは首とともに全身の筋肉と頭蓋骨だが、実は、その頭蓋骨の中に詰まっているものの働きこそ、最も重要なのだ。
オーストラリア、クロアチアという長身選手ぞろいのチームとワールドカップで対戦することになった日本。高くボールが上がるたびに負けていたら、相手ペースの試合になってしまう。ジーコ監督は、とにかく競り合って、相手に自由なヘディングをさせないことが大事だと話す。
それとともに、ボールの落下地点を相手よりコンマ1秒でも早く見極める頭脳のトレーニングも有効ではないかと、私は思っている。
(2006年2月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。