「クイック・リスタート」がJリーグで増えている。
3月18日、第3節の横浜FM対C大阪。時計はキックオフから1分を回ったばかりだった。横浜陣の中盤左サイドにC大阪がボールをもち込んだとき、主審の笛が鋭く鳴った。横浜DF松田の反則、フリーキック(FK)だ。
C大阪のMF下村がボールを押さえ、すっと背を伸ばすと、そのままワンステップで左前方にパスを送った。うっかりしているとFKがあったことさえ気づかないような、すばやいキックだ。
タッチライン際でパスを受けたのはMFゼカルロス。ワンストップすると、得意の左足でカーブをかけ、低く強いボールをゴール前に送った。そのボールは、ゴール前の横浜DFに向かって飛ぶように見えた。しかしその背後からC大阪の小柄な選手出てきて体を前に投げ出しながらヘディング、見事なシュートがゴール右隅に決まった。得点者はFW森島だった。
ボールがタッチラインやゴールラインを出たり、主審が笛を吹いてプレーを止めると、「アウトオブプレー」の状態になる。それを「インプレー」に戻す行為を総称して「リスタート」と呼んでいる。スローイン、コーナーキック、ゴールキック、失点後のキックオフなどが含まれるが、最もバリエーションに富んだリスタートがFKだ。
相手陣のFKで最も一般的なのが、ゴール前にボールを入れて長身の選手にヘディングでゴールを狙わせる方法だ。笛が吹かれると、正確なキックを誇るキッカー(試合前に監督から指名されている)がおもむろにボールに歩み寄り、ボールをセットし、一歩下がってキックする。
しかしこの方法から直接得点が生まれる確率は予想外に低い。日本代表のことしにはいってからの4試合のデータを見ると、総計70本のFKのうち約半数の34本が相手陣でのもので、そのうちの10本がこうしてゴール前に送られた。しかしそこから生まれた得点はゼロ。CKからの得点(20本で3ゴール)と比べると非常に効率が悪いことがわかる。
これに対し、できるだけ攻撃の流れを断ち切らず、すばやく行うFKがある。
主審の笛でプレーがストップされると、守備側はポジションやマークの確認などでどうしてもボールへの集中がおろそかになる。主審に向かって反則ではないと抗議するのに一生懸命な選手も珍しくない。味方の抗議に気を取られている選手もいる。
攻撃側の数人の選手が相手チームのこうした状態を見抜き、すばやくプレーを始めたら、大きな効果を生む。横浜FM戦のC大阪の先制点が、その好例だ。
FKは主審の笛を待つ必要はない。反則があった地点にボールを静止させさえすれば、相手が近くにいようと、すぐに始めてよい。こうした「クイック・リスタート」が頻繁に使われると、試合はスピードアップし、スリリングになる。同時に、反則した選手が主審に文句を言っている暇などなくなるから、試合はずっとクリーンな印象になる。
私の記憶によれば、日本で最初にこうしたクイック・リスタートを多用し、重要な攻撃戦術のひとつにしたのは、80年代後半の読売クラブ(現在の東京Ⅴ)だった。与那城やラモスといったブラジル出身の攻撃陣が使い、大きな効果を生んだ。
しかしJリーグ時代になると、キックに自信を持つ選手が増えたおかげか、時間をかけて行うFKが圧倒的に多くなった。FKのたびに20秒、30秒とプレーが中断していたら、試合のスピード感も大きく損なわれる。
ゴール前の長身選手に合わせるFKがあってもいい。しかし「クイック・リスタート」を増やせば、得点が増えるだけでなく、気持ちのいい試合になり、しかもリーグ全体のレベルアップにも貢献する。
(2006年3月29日)
1985年にトリノでユベントスを取材したとき、監督のジョバンニ・トラッパットーニが「ミスター」と呼ばれているのを聞いて興味をもった。練習で選手に何か注意すると、選手はきちんと立ち止まり、「はい、ミスター」と答える。その様子は、まるで先生と生徒だった。
たまたま単独でインタビューする機会があったため、思い切って聞いてみた。しかし「なぜミスターと呼ばれているのか」という質問は、私の無知さをさらけ出すのと同じだった。イタリアではサッカーの監督を「ミスター」と呼ぶ習慣があることを、私はまったく知らなかったのだ。
話は1912年、第一次世界大戦前にさかのぼる。イタリアのサッカーがまだ揺籃期と言ってよいころのことだ。
北イタリアの港湾都市ジェノバにイギリス人の手で1896年に創立された「ジェノア・クリケット・アンド・フットボール・クラブ」は、2年後の第1回のイタリア選手権で優勝、1904年までに通算6回もの優勝を飾ったが、その後はタイトルから遠ざかっていた。ジェノアが本当の黄金時代を迎えるのは、1912年、ウィリー・ガーバットというイギリス人を、この国で初めてのプロ監督として雇用した後だった。
イングランド中部、マンチェスターに近いストックポートで、1883年に大工の息子として生まれたガーバットは、レディング、アーセナル、ブラックバーンでプレーし、イングランドの1部リーグ出場が130を超すプロ選手だった。しかし1911年から翌年にかけてのシーズンでは1試合しか出場できず、現役生活を終えようと決心していた。ジェノアから監督としてきてくれとの誘いを受けたのは、そんなときだった。
まだアマチュア時代で、選手たちが気ままにプレーしていたイタリア。ガーバットがもちこんだのは、厳しい体力トレーニングと規律だった。29歳のガーバットは選手と同じように短パンとスパイク姿で練習グラウンドに立ち、チームを鍛え上げた。
厳しかっただけではなかった。彼は、選手たちを弟のように愛し、情熱を傾けて指導した。チームを強くするための環境づくりにも奔走し、チームの更衣室にイタリアでは初めての温水シャワーを設置させた。
チームを強化するために対価を払って他クラブから選手を獲得するという、今日では当たり前のことも、イタリアで初めて断行したのはガーバットだった。同じ町のアンドレア・ドリアというクラブから2人、そしてすでに強豪の地位を獲得していたACミランからはイタリア代表選手の獲得に成功した。
そしてついに1915年、実に11年ぶりにイタリア・チャンピオンの座に返り咲く。さらに第一次世界大戦後の1923年、24年には連続優勝を果たす。最初の優勝のころには、選手たちは敬意を込めて彼を「ミスター」と呼ぶようになっていたという。
イタリアと祖国イギリスが敵同士となった第二次世界大戦の最中にも彼はイタリアにとどまり、サッカーの指導を続けた。1927年から10年間ほど他のクラブの指揮をとった時期を除き、彼は都合26年間をジェノアの監督として過ごし、ようやく1948年にイングランドに戻った。
彼の指導は、イタリア・サッカーの発展期に大きな影響を与えた。1934年、38年とイタリア代表をワールドカップ連続優勝に導いたビットリオ・ポッツォ監督も、彼に心酔していたという。
祖国イングランドではその功績どころか名前さえ知る人の少ないガーバット。しかしイタリアでは、監督たちに対する「ミスター」の尊称とともに、その功績が長く語り伝えられている。
(2006年3月22日)
3月12日、千葉の「フクダ電子アリーナ」。立ち上がりからビジターのヴァンフォーレ甲府が圧倒的な攻勢を取った。ホームのジェフ千葉は前半10分が過ぎても攻撃を組み立てることさえできない。流れを変えたのは、前半12分の千葉のひとつのプレーだった。
きっかけは甲府の右CK。千葉のではない。相手チームのCK、千葉にとってはピンチの場面だ。ところが千葉はここから見事な攻撃を繰り出し、もう一歩で先制点という場面をつくったのだ。
甲府はCKを短くけり、低いクロスを入れる。これを千葉MF阿部がカット。その瞬間、ゴール前の密集からひとりの千葉選手が飛び出した。DFストヤノフだ。ハーフライン付近にはFWハースがいたが、阿部はそこへはけらず、ストヤノフにパスを出した。受けたストヤノフはドリブルのスピードを上げ、やや右サイド寄りのコースであっという間に甲府陣にはいった。
前線のハースは相手2人を引き連れて右斜め前に向かって疾走している。オフサイドポジションだが、問題はない。千葉の狙いは、ハースではなく、彼の動きによって生まれた左サイドの広大なスペースだったからだ。千葉MF羽生が猛烈な勢いで走り上がってくる。ストヤノフはタイミングを逃さず羽生の前方のスペースにボールを送った。
もし羽生がボールにきちんと触れていたら、間違いなく決定的チャンスが生まれただろう。だがわずかに合わず、コントロールしきれなかったボールは左に流れた。
しかしこのワンプレーで千葉はリズムを取り戻した。そしてJ2から昇格したばかりの甲府は、一瞬のスキをつくJ1の攻撃の威力にそれまでの勢いがそがれたようになり、以後、試合は千葉のペースとなっていく。
私には、このときの千葉のプレーが偶然のようには思えなかった。千葉は、「相手CKからの攻撃」を攻撃パターンのひとつにもっているのではないか----。よく千葉の取材をしている人に聞くと、オシム監督は「相手CKは大きなチャンス」と選手たちに話しているらしい。きっと練習したこともあるのだろう。
実は「相手CKからの攻撃」は、ヨーロッパのトップクラスのクラブでは常識になりつつある重要戦術のひとつなのだ。ドイツのバイエルン・ミュンヘンでは、この練習を繰り返し行っているという。
バイエルンのような強豪クラブは、守備を固める相手と戦うことが多い。どんなに能力の高い選手を並べても、組織された守備を崩すのは簡単ではない。そこで、大きなスペースができる「相手CK」が、攻撃の重要なテーマとして浮かび上がったのだ。
日本代表もこの形で失点したことがある。昨年の6月のブラジル戦。最初の失点は日本のCKをはね返されたところから生まれたものだった。
前半10分、それまで攻め込まれながらも懸命に防いでいた日本が右CKのチャンスをつかむ。MF小笠原がキック。しかし簡単にクリアされる。左サイドにいたブラジルMFロナウジーニョは、日本選手2人をあっさりとかわし、無人の中盤をスピードドリブルでゴールに向かう。
トップに残っていたFWロビーニョが寄ってくる。そしてロナウジーニョの背後を通って左外に抜ける。しかし中央のスペースにブラジルの選手が2人も駆け上がってきたため、マークしていた三都主は気を取られ、ロビーニョを離してしまう。ロナウジーニョはタイミングを逃さずロビーニョにパス。角度のないところからのシュートが、GK川口の足元を破った。
日進月歩の世界のサッカー。ワールドカップでは、こんな高度なチームプレーを操るチームと対戦しなければならない。一瞬も、自分たちのCKのときでさえ、気を抜くことのできない戦いなのだ。
(2006年3月15日)
先週、みぞれのドルトムントでボスニア・ヘルツェゴビナ戦を終えた日本代表選手たちは、試合の数十分後にはスタジアムを後にし、あわただしく帰国の途についた。
私はつまらないことが気になる。この日使った練習着やユニホーム類は、汗と雨で濡れたまま防水袋に詰め込まれ、20時間も放置されて、どんな惨状になるのだろう。
ウエアよりも気がかりなのはシューズだ。まさか代表選手だからといって、シューズを試合ごとに「はき捨て」にするわけではないだろう。
今日、日本代表選手はもちろん、Jリーグの大半の選手もサッカーシューズの手入れなどしない。協会やクラブが専門のスタッフを雇っているからだ。練習や試合が終わったら、所定のところに置いておけば、次の練習や試合の前には完璧に手入れされた状態で選手を待っている。
イングランドでは、長い間、シューズの手入れはプロ契約前のユース選手の役割だった。スペインのレアル・マドリードでも活躍したイングランド代表のスティーブ・マクマナマンが、ユース選手として所属していたリバプールでイングランド代表FWジョン・バーンズの「シューズ磨き係」だったことは有名な話だ。
しかし最近では、アマチュア選手でもあまりシューズの手入れをしないらしい。本人たちの名誉のためにチーム名は伏せるが、私がよく知るチームでは、試合のときに磨いたシューズをはいている選手は非常に少ない。ひどい例になると、前週の試合が雨だったのにそのままシューズバッグのなかに放置し、試合会場で取り出したらカビが生えていたという選手もいた。
「アッパー」部分が、天然皮革ではなく人工皮革のシューズが多くなったことも、手入れをしない選手が増えた原因かもしれない。人工皮革は汚れがつきにくく、試合後そのままバッグに入れるという習慣になりがちだ。
シューズの正しい手入れには、時間と手間がかかる。
まずトントンと叩いて土を落とし、ぼろきれでおおまかに汚れをぬぐい落とす。泥んこのグラウンドだったら、丸洗いが必要かもしれない。そして風通しのよい日陰に置いて乾かす。雨の試合後だったら、新聞紙を丸めて中に入れる。水分を吸わせるとともに、形を保つためだ。
雨で濡れていなくても、シューズは汗を大量に吸い込んでいるはず。「陰干し」作業は不可欠だ。ただし絶対に乾燥機を使ったり火の側に置いたりしてはならない。そんなことをしたら皮革が劣化し、はき心地が悪くなってしまう。
十分乾いたらていねいにブラッシングする。靴クリームなどを使うとさらによい。
磨いていると、シューズに対する愛情や感謝の念が湧いてくるのを感じる。そして自然に、次の試合はああしよう、こうしようと考えてしまう。それは、ピッチの中だけでなく、こんなときにもサッカーの喜びがあることを思い起こさせる、幸福な時間だ。
私が取材を始めたころは、試合後の記者会見もミックスゾーンもなく、記者たちは試合直後の更衣室にはいっていって話を聞くのが常だった。
釜本邦茂さんは、シャワーを浴びる前に、更衣室中央のベンチに座ったままで記者たちに囲まれていた。まず足首のテーピングをはがし、ベンジンで粘着剤を取り去る。そして使い古しのタオルを取り出すと、その日使ったシューズをぬぐい、スタッドを一本一本ていねいに磨いてから、大事そうにバッグに収めた。あのぎょろっとした目を上げて記者の質問に答えるときと、シューズに目を落としたときのまなざしが、ずいぶん違うように思えた。
そのとき釜本さんが何を話したかは忘れてしまった。しかし彼が愛情を込めてシューズを扱っていた姿は、いまもまぶたに焼き付いている。
(2006年3月8日)
サッカーのルール改正を審議する国際サッカー評議会(IFAB)の年次会議が、3月4日にスイスのルツェルンで開催される。ことしの注目は、遅延行為を撲滅しようという取り組みだ。
ルール第12条(ファウルと不正行為)の「警告となる反則」の「4」に挙げられている「プレーの再開を遅らせる」違反(遅延行為)について、具体例を示す「決定事項」を追加しようというのが、国際サッカー連盟(FIFA)の提案だ。
その具体例とは、フリーキック、スローイン、コーナーキックで相手チームのリスタートになったとき、意図的にボールに触れ、それによってプレーの再開を遅らせたり、相手とのいさかいの原因をつくる行為だ。これらの行為にイエローカードを出すというガイドラインは以前から出されていのだが、まったく徹底されなかった。そこで、より拘束力のある「決定事項」にし、イエローカードを出すことをレフェリーに義務付けるというのである。
昨年のワールドユース選手権(オランダ)でも、同様の基準が試験的に採用された。だがボールに少し触れただけでイエローカードが出される例もあり、あまりに四角四面な印象を受けた。今回の提案では、「それによってプレーの再開を遅らせる場合」などの条件がつき、「問答無用」ではなくなっている。
国際サッカー連盟(FIFA)はこの新決定の採用に非常に意欲的で、今回のIFABで可決される可能性は高いと見られている。新ルールの施行は7月1日だが、ワールドカップは新ルールが適用されるのが通例だ。出場国は気をつけなければならない。
ただ、日本代表にはあまり混乱はないだろう。Jリーグではすでに2003年からこうした基準のレフェリングが徹底されているからだ。
「むしろ世界がJリーグの基準に合わせてきた」と、日本サッカー協会の高田静夫審判員長は胸を張る。
しかし今回の新決定事項の提案には、日本では実施されていない要素がひとつある。得点後のボールの処理だ。
94年ワールドカップ予選イラン戦での日本のFW中山雅史を記憶しているファンも多いだろう。0−2から終盤に1点を返したとき、中山はゴール内からボールを拾い、全速でセンターサークルに戻りながら「もう1点!」とチームメートを鼓舞した。ゴール後のキックオフを急がせようと、こうした行為をするケースは多い。
その一方で、リードしているチームが得点を決めたときにも、ゴール内のボールを拾い、高々とけり上げて相手の戦意をくじこうという行為も横行している。
今回の提案には、「相手のキックオフを遅らせるために、得点した側の選手がゴール内からボールを拾う」行為もイエローカードの対象になるとある。では、中山のようにキックオフを急がせるためなら、得点した側が拾ってもいいのだろうか。
得点後のボールの処理については、時間の浪費よりも、そのボールをめぐって醜い小競り合いになることが問題だろう。そのトラブルの防止には、「相手のキックオフを遅らせるために」という文言は削除し、単純に得点したチームの選手がボールを拾う行為を禁止する形にするべきだ。レフェリングの基準はできるだけシンプルなほうがいい。
リードしているチームが失点し、なかなかボールを拾わないときには、レフェリーの出番だ。ロスタイムをしっかり取るとともに、時間の浪費が露骨なら、ボールから最も近くにいる選手(多くはGKだろう)にイエローカードを出せばよい。
いずれにしろ、この提案がIFABで可決されたら、7月1日を待たず、できるだけ早くJリーグで施行し、選手に慣れさせておく必要がある。
(2006年3月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。