「プレーヤーたちの能力に疑いはない。相互理解が深まればすべて良くなるはずだ」
日本代表監督・ジーコの言葉ではない。先週金曜日に他界した元ブラジル代表監督、テレ・サンターナ(享年74)が、就任したばかりの試合後に語った言葉だ。
1931年7月26日生まれのテレ・サンターナは、ブラジル・サッカー史のなかでも特筆される名監督だった。
1982年、86年と2回のワールドカップでブラジル代表を率い、その前後にはブラジルのいくつものクラブをチャンピオンの座に導いた。サンパウロFCを率いて南米のクラブ選手権で2回優勝、トヨタカップでも2連覇を飾っている。しかし彼の名を永遠にしたのは、なんといっても82年ワールドカップのブラジル代表だった。
この大会、ブラジルは2次リーグでイタリアに敗れ、準決勝に進出することさえできなかった。しかしジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、ファルカンを並べた「黄金の4人」の中盤を軸に見せた夢のように美しいサッカーは、世界のサッカーファンをとりこにした。いまもブラジル国民は、その後にワールドカップで優勝したどのチームよりもテレ・サンターナが率いた82年の「セレソン」を誇りにしている。
1980年のはじめ、彼は、国民の大きな期待の下にブラジル代表監督という重責を引き受けた。候補者選びが始まったころ、ブラジルのある有力紙が220人のサッカー記者にアンケートを行った。結果は驚きだった。ほぼ90パーセント、197人もの人が「テレ・サンターナ」の名前を挙げたのだ。これほどの期待を集めて監督に就任した人は、後にも先にも彼ひとりだ。
チームづくりをするにあたって彼が念頭に置いたのは、78年ワールドカップを制覇したアルゼンチン代表だった。このときのアルゼンチンは、国民が誇りにできる代表をつくろうと、既成のスターに頼らず、自国の若者の才能を伸ばして優勝を飾った。
テレ・サンターナが就任したころ、ブラジルの国民は「ブラジルのサッカーはもうだめなのではないか」と感じ始めていた。78年ワールドカップでは3位になったが、攻撃には精彩がなく、喜びが伝わってくるようなチームではなかった。79年には、南米選手権でパラグアイに敗れた。ブラジル国民は、「セレソン」に対する誇りを失いかけていた。それをもういちど取り戻させるのが自分の最大の仕事だと、テレ・サンターナは考えたのだ。
同時に、プレーの面で彼が目指したのは、74年ワールドカップのオランダ代表だった。ポジションなど消えてしまったかのような全員攻撃のサッカー。攻撃が始まると、渦を巻くように選手たちが動き、相手の守備をかき乱すサッカーこそ、彼の理想像だった。そしてワールドカップという最高の舞台で、彼はそれを見事に実現してみせた。
この記事の冒頭の彼の言葉は、就任直後、地元リオデジャネイロでソ連に1−2の敗戦を喫し、ファンの大きなブーイングを受けながら語ったものだった。
彼はブラジルの若者たちの才能を信じ、彼らが相互理解を深め、コンビネーションを磨いていくのをじっくりと待った。「黄金の4人」が花開いたのは、テレ・サンターナの信念と辛抱のおかげだった。
2002年以来、彼の「愛弟子」であるジーコは、師の手法そのままにチームづくりを続けてきた。代表選手の半数がヨーロッパにいるなど、当時のブラジルにはない状況で苦闘しながら、ジーコは、彼が育てた日本代表をワールドカップの舞台で師に見てもらいたいと考えていただろう。
その夢はかなわなかった。しかしだからこそ、ジーコは、天国の師に日本代表の好プレーを見てもらおうと、ワールドカップへの決意を新たにしたに違いない。
(2006年4月26日)
チケットの番号を頼りにたどり着いた席は、ゴール裏、イタリア人サポーターの真っただ中だった。
1974年ワールドカップ・ドイツ大会の1次リーグ第3戦、イタリア対ポーランド。私にとって生まれて初めてのワールドカップの最終日だった。2年前のオリンピックで優勝し、この大会でもアルゼンチンとハイチに連勝して高い評価を受けていたポーランド。予定にははいっていなかったが、ひと目でも見ておきたいと、苦労してチケットを入手し、シュツットガルトにやってきたのだ。
しかし陸上競技場のゴール裏スタンド、しかも前から10列目の席は、ほとんどピッチの高さで、サッカーを見るどころではなかった。チャンスになると、周囲のイタリア人はすぐに立ち上がってしまうからだ。私もいっしょに立つのだが、前に大男がいたため、あっと思った瞬間には視野からピッチが消えた。
イタリア人たちは陽気にサッカーを楽しんでいた。シュツットガルトはドイツ南部の町。まっすぐ南下し、スイスを縦断してアルプスを越えれば、そこはイタリアのロンバルジア平原だ。日曜日のこの日、バスや列車、あるいは自家用車でやってきたイタリア人で、7万人収容のスタジアムはぎっしりと埋まっていた。スタンドでは赤・白・緑のイタリア国旗が無数にはためき、1プレー1プレーに反応して大歓声が上がった。
試合は思うようには見ることはできなかったが、その雰囲気はワールドカップならではのものだった。サイドからサイドへ大きく振られるポーランドのパスに目を見張りながら、私はその雰囲気を心から楽しんだ。
前半、ポーランドの速攻に2点を許したイタリアは、温存していたエースのボニンセーニャを後半から投入した。イタリア語の場内アナウンスで彼の名が告げられる。すると、私のすぐ背後から、低くうめくような女性の声で「ボーニン、セーニャ...」というつぶやきがもれた。
サッカー場であれば、大声で歓声が飛ぶ場面のはずだった。実際、周囲からは盛大な拍手が起こっていた。しかし私の耳にはいってきたのは、不思議な響きの声だった。思わず振り返ると、深刻な表情の老婦人と目が合った。
そのつぶやきは、「祈り」といった浄化されたものではなかった。どこか土俗信仰のような、呪術的な響きがあった。
だがその思いは届かなかった。後半の追撃空しく、イタリアは1−2で敗れた。
ところが試合が終わっても誰も席を立とうとはしない。ブーイングもない。不気味な静けさのなかで、人びとはある知らせを待っていた。ミュンヘンで行われていたアルゼンチン対ハイチの試合結果だった。前の試合で、イタリアはアルゼンチンと引き分けていた。アルゼンチンがハイチに勝てば、イタリアと勝ち点3で並ぶ。問題は得失点差だった。ハイチには3−1の勝利だったイタリア。アルゼンチンは?
永遠のように思われた5分間が過ぎ、電光掲示板に数字が現れた。「アルゼンチン−ハイチ 4−1」。イタリアの「ワールドカップ74」が終わった。
暴動でも起こるのではと、私は心配になった。少なくとも、いろいろなものが飛んでくるのではないか...。
しかし何も起こらなかった。イタリア人たちはみんなうつむいていた。そして無言のまま、ぞろぞろとスタジアムを去っていった。彼らが本当にこの敗退を悲しんでいることが理解できた。
私にとって最初のワールドカップ。クライフ(オランダ)を中心に、すばらしいプレーも見た。しかし最も心に残ったのは、この日のイタリア人たちの陽気な観戦ぶりと、あの老婦人のつぶやき、そして敗退が決まった後、無言でスタジアムを後にする人びとの列だった。それは、サッカーというスポーツがいかに世界の人びとの生活に浸透しているか、強く感じさせられた体験だった。
(2006年4月19日)
イングランドの西北部にプレストンという町がある。人口約13万人。19世紀の産業革命時代に重工業の中心地のひとつだった。サッカーでは、「プレストン・ノースエンド」というクラブで知られている。
現在はプレミアリーグの下のリーグでプレーしているプレストン・ノースエンドだが、サッカー史の上では輝かしい栄光に彩られている。1880年に創設され、イングランドで最も早くプロ選手を導入して1889年には第1回のイングランド・リーグで優勝を飾っているのだ。
所在する地区の名前をとって「ディープデイル」と呼ばれるスタジアムは1878年建設。もちろん、その後何度も建て替えられ、現在では三方を近代的なスタンドで囲まれているが、128年間も同じグラウンドでプレーしているのは、世界でもここひとつだけだ。今回の話の主役は、そのスタジアムのスタンド下に設置された「ナショナル・フットボール・ミュージアム」所蔵の1個のボールだ。
40年も前にスラセンジャー社が製作したオレンジ色のボールである。24枚のパネルを縫い合わせたのは、マルコム・ウェインライトという職人だったという。
ところどころすり切れたボールは、イングランドで開催された1966年ワールドカップの決勝戦で使用されたものだ。そう、「サッカーの母国」イングランドがようやく世界チャンピオンになった日に、イングランドと西ドイツ、両チームのゴール間を忙しく動いたボールである。
当時は「マルチボール・システム」などない。この1個のボールが、イングランドのゴールに2回、そして西ドイツのゴールには4回(そのうち1回は極めて怪しいが...)転がり込んだのだ。
しかしイングランドの「国宝」と言っても過言ではないこのボールは、それから30年間も祖国を離れていた。ドイツ南部のアウグスブルク市にある豪邸の地下貯蔵庫で大事に保管されていたのだ。
ボールを保持していたのはヘルムート・ハーラー。西ドイツ代表のFWとして66年の決勝戦に出場し、先制点を決めた選手である。実はドイツには、「試合の1点目を決めた選手が使用球をもらう権利がある」という習慣があった。その習慣に従って、彼は準優勝のメダルとともに、当然のようにこのボールをもって帰国の途についたのだ。
ワールドカップ初優勝で舞い上がっていたイングランドの選手たちは、ハーラーがボールを抱えている姿を見ても誰も気にも留めなかった。ハーラーはその晩の公式晩餐会にこのボールを持ち込み、イングランドの数選手にサインさえしてもらっていたという。優勝の重要な記念品が手元にないことにイングランドの人びとが気づいて返還を求めたのは、ずいぶん後になってからのことだった。
イングランドには、「ハットトリックを達成した選手は誰にも優先して使用球をもらう権利がある」という習慣があった。この決勝戦で3ゴールを挙げたジェフ・ハーストこそ正規の所有者だとイングランドの人びとは主張した。しかしドイツにはドイツの習慣があり、ハーラーは「自分のものだ」と言い続けた。
ようやくハーラーが求めに応じたのは、1996年のことだった。イギリスの大衆紙「ミラー」が懸命に返還交渉を行い、ミラー紙が7万ポンド(約1400万円)を福祉活動に寄付するという条件でハーラーがボールの返還を承諾したのだ。
「マルチボール・システム」により、今日のワールドカップでは1試合で15個ものボールが使用される。決勝戦使用球の「重さ」は、ルール上は同じでも、心理的にはずいぶん違うのかもしれない。いずれにしろ、大事なのは、ボールそのものではなく、ボールを相手ゴールに入れる回数なのだが...。
(2006年4月12日)
ことしのワールドカップで最も残念なのは、サムエル・エトオのプレーを楽しめないことだろう。
3年連続アフリカ年間最優秀選手賞に輝くストライカー。スペイン・リーグで他を大きく引き離す22ゴールを決め、所属のFCバルセロナ独走の原動力。だが祖国カメルーン代表はアフリカ予選で敗退し、4大会連続のワールドカップ出場を逃した。
しかし2006年を迎えて彼の名が世界に打電されたのは、そのスペクタクルなゴールによってではなかった。2月25日、スペイン・リーグのサラゴサとのアウェーゲームで起きたひとつの出来事によってだった。
事件は0−0で迎えた後半31分に起こった。圧倒的な攻勢のバルセロナ。左からのクロスをサラゴサがかろうじてクリアし、右CKとなる。コーナーに走っていくエトオ。ボールを置くと、地元サポーターの口笛が激しくなる。「ウー! ウー!」という奇妙な声が混じる。
そのとき、ビクトル・エスキナス主審が不可思議な行動に出た。笛を吹きながら本部ベンチのほうに走り、役員に盛んに何かを求めているのだ。エトオを見ると、右コーナーから離れ、エスキナス主審のほうに歩いてくる。あわててエトオに走り寄り、声をかけるエスキナス主審。しかしエトオは彼を振り払う。ピッチから去ろうとしているのだ。
サラゴサ・サポーターの奇妙な声は、サルの鳴き声をまねしたもの。黒人選手であるエトオに対する、あからさまな人種差別行為だった。
試合開始当初からエトオがボールに触れるたびに聞かれていたのだが、このCKのときに特に高くなった。あまりのひどさに耐えかねたエスキナス主審は、その声を止めるよう、場内放送で呼びかけてくれと頼んでいたのだ。しかしエトオは、これ以上の侮辱には耐えられないと、ピッチを去る決意を固めたのだ。
主審を振り切って歩き出ようとするエトオを止めたのは、チームメートのロナウジーニョだった。そしてサラゴサのブラジル人DFアルバロだった。2人とも黒人選手である。
ロナウジーニョはエトオの腕をつかむとこう言った。
「冷静になれよ。でもお前がどうしても試合を続けられないというのなら、俺もいっしょに出ていくよ」
最後に、バルセロナのライカールト監督が近寄ってエトオをなだめると、エトオはようやく落ち着き、試合に戻った。「あの声に勝つには、サラゴサをやっつけなくてはならない」と、やはり黒人の血を引くライカールト監督はエトオに話したという。
5分近くの中断の後、試合は右CKから再開された。バルセロナがシュートを放つとサラゴサの選手が思わず手で止め、与えられたPKをロナウジーニョが決めた。バルセロナはさらに1点を追加し、2−0で勝った。2点目のアシストはエトオだった。
ヨーロッパのサッカーでは数年前から人種差別が大きな問題になっている。EUの拡大によりどの国も急激に国際化が進み、それが逆に偏狭なナショナリズムや人種差別につながっているのだ。問題の根源は社会にある。だがサッカーのなかにも、サポーターが何を叫んでも野放しという無責任な状態があった。
エトオの抗議行動は大きな反響を呼んだ。国際サッカー連盟(FIFA)はさっそく行動を起こし、人種差別行動の懲罰規定を大幅に改定した。従来からあった出場停止、罰金、スタジアム使用禁止を強化するとともに、勝ち点の削減や自動降格あるいは失格など、サッカー面での厳しい処分を課すことを決め、加盟各協会にも同様の懲罰規定の制定を義務づけたのだ。
基本的に人種差別は社会の問題であり、サッカーだけで解決できるものではない。しかしサッカーのなかで断固とした態度を取ることが、やがて社会を変える力になることを、私たちは信じなければならない。
(2006年4月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。