ものごとには両面がある。サッカーの試合も同じだ。
7月22日、Jリーグのアウェーゲームで首位川崎フロンターレを下した浦和レッズのプレーぶりは見事だった。キックオフから闘志あふれる戦いを展開し、前半途中で退場により1人少なくなると、さらに集中してハンディを感じさせない試合をした。
いつもは待ってディフェンスすることの多いMF三都主も、この日は果敢にインターセプトを狙い、そこから一気に攻撃に出た。ピッチの全面でこうした気迫あふれるプレーが展開された結果が、2−0の勝利だった。
しかしその一方で、非常に醜悪な行為もあった。GK山岸範宏の時間かせぎだ。
前半30分にFW田中達也の見事なシュートで先制した浦和だったが、その数分後にMF山田暢久が2枚目のイエローカードで退場になった。1点のビハインドを負ったうえに、相手が1人減ったことで、川崎は猛然と攻撃を始めた。浦和は防戦一方になった。山岸の時間かせぎが始まったのは、その後からだった。
相手のシュートがゴールを大きく外れてゴールキックになる。すると山岸はそのボールを追ってわざわざコーナー近くまで行くのだ。
Jリーグでは「マルチボールシステム」が使われている。ボールが外に出たときには近くのボールパーソンが手にした予備ボールを渡してすばやく試合を再開することになっている。当然、浦和ゴールの裏にもボールをもった少年がいて、山岸に渡そうとしていた。しかし山岸はそれに目もくれず、出たボールを追っていったのだ。意図は明らかだった。ゴールキックをけるまでにできるだけ時間を使い、相手チームの攻める時間を短縮しようというのだ。
あきれたのは、そんな行為が残りのほぼ60分間にわたって10回以上繰り返されたことだ。
前半、山田が退場になるまでは緊迫感にあふれた展開だった。しかし後半にはいると、プレーが動いている時間より停止された状態が長いのではないかと思えるほどになった。完全にリズムが崩れ、試合はぶち壊しになった。いらだった川崎の選手たちは無理なタックルを繰り返して相手にFKを与え、自らリズムを崩していった。
こんなにひどい試合になってしまった責任の一端はレフェリーにある。
柏原丈二主審は、前半から山岸の時間かせぎがあからさまだったにもかかわらず、軽い注意をいちどしただけで、警告を出さなかった。
おそらく、ゴールキックをするまでにかかった時間を1回1回見ると、警告を出すところまではいかず、ぎりぎりのところだったのだろう。だからイエローカードを出せなかった。しかし山岸は、ゴール裏のボールパーソンを無視してボールを拾いに行く行為を繰り返した。その意図が時間かせぎであることは明らかだったはずだ。
ならば、1回1回の行為は警告に当たらなくても、「繰り返しの不正」ということでイエローカードを出せたのではないか。しかも、前半のうちにそうできるだけの状況はあったはずだ。柏原主審が前半か、遅くとも後半の早い時間に山岸にイエローカードを出していれば、残りの時間はもっときちんとした試合になっただろう。しかし柏原主審が山岸にイエローカードを出したのは、後半ロスタイムになってからだった。
首位攻防の一戦。NHKのBSで全国に生中継された試合だった。それがこんな試合になってしまったのは残念でならない。Jリーグは、そして日本のサッカーは、また何百人か何千人か、あるいは何万人かの熱心なファンを失ったに違いない。その責任は、選手、チーム、レフェリーのすべてにある。
(2006年7月26日)
6月30日の深夜、デュッセルドルフの静かな住宅街の3階にある自宅の仕事場で、パソコンの画面を見ながら、庄司悟さん(54)は興奮を抑え切れず、ひとりこぶしを握った。
その日、ベルリンで行われたワールドカップの準々決勝で、地元ドイツがPK戦の末南米の強豪アルゼンチンを下し、準決勝進出を決めた。しかし彼の興奮は、31年間暮らしてきたドイツが勝ったためではなかった。
74年のワールドカップ西ドイツ大会を現地で見たことをきっかけにドイツのサッカーに興味をもち、勉強のためにドイツに渡ったのが75年。以後、ケルン体育大学を経て、在独のままさまざまなスポーツ関係の仕事をしてきた。そして数年前から、サッカーのデータ分析を専門にするようになった。
このワールドカップで、彼は詳細な試合データをもとにしたゲーム分析を行ってきた。数日前には、ドイツがアルゼンチンに勝つにはこれしかないという戦略を立てた。そしてこの日の試合が終わってから数時間をかけて準々決勝のアルゼンチンのプレーデータを分析し、ようやく結果が出たところだった。パソコンの画面は、ドイツのクリンスマン監督が、まさにその戦略どおりの戦いを実行したことを示していた。
決勝トーナメント1回戦までのアルゼンチンの戦いを分析した結果、大きな特徴があることがわかった。アルゼンチン選手のボールコンタクト位置の分布をもとにデータを処理すると、ピッチの中央、センターサークル内に1カ所だけ、非常にコンタクトの多い地域があった。
その他のチームの同じデータでは「2極」ができるのが大半だった。ブラジルなら相手陣の右と左に、ドイツなら相手陣と自陣の中央に。「1極」は非常に珍しい形だった。そしてそこにアルゼンチンのプレーの秘密があった。
FWサビオラやクレスポの突破、あるいはMFリケルメのパスワークなどに目を奪われがちだが、アルゼンチンの攻撃のベースはピッチ中央での細かなパスワークにあった。あまりにテンポよくパスが回るので、相手守備陣がじわじわと引きつけられる。その瞬間、サイドを突破するパスが出るのだ。
「このアルゼンチンを止めるには、サイドの突破を抑えるという考え方ではなく、ピッチ中央での細かなパスワークを妨害する必要がある」
庄司さんはそう考えた。ドイツはまさにそのとおりのプレーをした。準々決勝のアルゼンチンのボールコンタクト位置をグラフ化すると、ピッチの中央にそびえているはずの富士山のような「単独峰」(ボールコンタクトの多い地域)が、まるでケーキのように4つに分断されていたのだ。
楽な試合ではなかった。幸運もあった。しかしアルゼンチンに本来のプレーをさせなかったことこそ、ドイツの準決勝進出の最大の要因だった。アルゼンチンはピッチ中央でのパスワークを断ち切られ、本来のスピードを出すことができなかったのだ。
この大会で、庄司さんはいろいろな手法を考案しながら分析を進めた。ベースになったのは、5分ごとのデータ収集だ。ボールの支配率、パスの精度、パスの本数、特定の個人への依存度、1対1の勝率...。契約しているドイツのデータ専門会社がオンタイムでたれ流しにして、試合後には数行の数字しか残らないものを、5分刻みで保存し、1試合を通じての変化をグラフ化したのだ。
「監督の頭の中を読みたい」
それが庄司さんのテーマだった。どのようなゲームの進め方をするのか、状況に応じて、どんな戦術の変更を行い、どんな狙いの選手交代をするのか。膨大なデータの分析を通じ、見えてきたものがある。まだ見えないものもある。
しかしいまはメディアの材料のひとつにしかすぎない試合のデータを、想像力を働かせて分析することで、サッカーの新しい見方を日本に提示できるのではないかと、庄司さんは考える。今回のワールドカップ敗退で方向性を見失いかけている日本のサッカーに、提案できるものがきっとあると、考えている。
(2006年7月19日)
32年の時を経ても、ドイツの夏は美しかった。豊かな林に囲まれた田園も、緑にあふれた都市も、整然とした街並みも、そして社会のいろいろなシステムも、とても心地良かった。
大会前の日本代表の親善試合を含め、ワールドカップの取材で1カ月半もドイツに滞在した。最初の10日間ほどはのんびりと過ごしたが、大会が始まると、まるで矢のように毎日が過ぎ、気がつくと、決勝戦、ベルリン・オリンピックスタジアムのスタンドに立っていた。
「74年ワールドカップに向けて建設されたスタジアムが老朽化し、建て替えなければならない時期にきている。だからぜひともワールドカップをやりたいんだ」
8年ほど前、招致活動を始めたころ、その中心人物のひとりだったフランツ・ベッケンバウアーはそう説明した。国家的には、フランスに遅れて着手された高速鉄道網の整備という目的があった。しかし何より、分断されていた東西が統一されて16年、「ドイツ」という国がいかに変化したかを見てもらいたいという動機が強かったに違いない。
確かにドイツは変わった。何よりも人びとが非常にオープンになった。こちらがドイツ語はできないと知ると、どんなにたどたどしくても英語で話そうと努力する人など、32年前にはいなかった。
東西統一に続く欧州連合(EU)の本格的な統合により、ドイツは急激に国際化し、人びとは対応を迫られた。その結果、格好を気にするよりもコミュニケーションをとること自体が大事と、オープンな姿勢が生まれたのだ。
「ドイツ人は、徹底した個人主義で冷たい」
以前はこれが定説だった。しかしひと皮むいてオープンになると、根っからの親切な性格が表れた。
シュツットガルトで、仲間の記者と路面電車に乗っていた。降車駅に着いてドアを開けようとしたが開かない(ドイツでは路面電車も高速新幹線もドアは自分でスイッチを押して開ける)。すると、驚いたことに、そのとき同じ車両内にいた10人近くの人びとがいっせいに立ち上がったのだ。
「そのドアは壊れている」という人。別のドアのところに行き、それを開けてくれる人、そのドアが閉まらないよう押さえてくれる人。運転手に向かって何か叫ぶ人...。私たちは感謝の言葉をかけながらあわててそのドアから降りた。私たちが降りると、ドアが閉まり、電車が動きだした。さっき大騒ぎしてくれた人びとは、それぞれ何気ない顔で座席に座り。こちらを見ていた。私たちは深々とおじぎをした。
人びとがオープンになったことで、ワールドカップはひときわ楽しい雰囲気になった。ドイツが勝った日には各地で花火が上がり、人びとはドイツ代表のユニホームを着て深夜まで町を練り歩いた。そして以前であればドイツ人の関心など引くはずのない1次リーグのカードにも観客が押しかけ、スタジアムが満員になった。ドイツ人たちは、前評判の低いチーム、負けているチームに大きな声援を送り、試合を盛り上げた。
大会を追いながら、わずか30年あまりでのドイツ人たちの変化に驚き、2回目のワールドカップ開催とは、こういうことなのだと考えた。スタジアムやテクノロジーだけでなく、人びとがより国際的になり、「ホスト」にふさわしい態度を身につけたことを示すものなのだと...。
そしてあっという間に1カ月が過ぎ、大会が終了した。決勝戦の翌朝、ベルリンの空には、秋を思わせる雲が浮かんでいた。
まだ暑い日が続くのかもしれない。しかし私にとっての「ドイツの夏」は終わったのだと、そのとき痛切に感じた。
(2006年7月12日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。