真冬のような寒さが続いた3月。寒気が去ると、一足飛びに春になった。日本の3月は「別れ」の季節でもある。
クラブチームにはないが、学校のチームにはあるもの。それが「卒業」だ。学校のチーム自体は何十年でも続いていくが、卒業する生徒はチームから離れざるをえない。
何年間かいっしょにボールをけり、喜びや苦しさを分け合った仲間も、卒業とともにそれぞれの道へと分かれていく。サッカーを続けようと決心したら、自分にとって新しいチームにはいらなければならないことになる。
人間というのは、心のどこかで、自分が属する集団や仲間の存在に依存しているものだ。サッカーのようなチーム競技では、その度合いはより強くなる。
サッカーはひとりではできない。仲間と役割を分担し、力を合わせなければ試合にならない。当然責任も生じるが、孤独な戦いではない。励まし合い、助け合うことができる。そこから離れなければならなくなったとき、そうした集団の一員であることの心地良さに初めて気づく。
しかし卒業すれば、もう同じ集団の一員であることはできない。緊張感のなかで、新しいチームに飛び込んでいくしかない。
練習を重ねて築いてきたコンビネーションも、仲間や指導者から得た信頼も、すべてゼロに戻る。まず自分自身の名前を覚えてもらい、自分という人間を理解してもらうところからスタートしなければならない。この時期、進学とともに新しいチームにはいることで気が重いプレーヤーも多いのではないだろうか。
だが怖気づく必要などない。視点を変えれば、新しいチームにはいることは大きなチャンスでもあるからだ。
新しいチームには新しい指導者がいる。新しい仲間もできる。新しい環境のなかで、新しい自分を発見することができるかもしれない。中学のときには自分自身が生まれついてのDFだと思っていたプレーヤーが、高校のコーチによってFWとしての隠れた才能を見出され、飛躍のきっかけをつかむかもしれない。
慣れ親しんだ集団から切り離され、いったんひとりになって再スタートしなければならないことで、自分自身の内面にも変化が生まれるかもしれない。サッカーのプレーヤーというのは「チーム」という集団の中でしか存在しないが、プレーヤーとしての強さを決めるのはチームの強さではなく、独立した個人の強さにほかならない。新しいチームに飛び込むことは、その強さを身につける大きなチャンスでもある。
「卒業」とともに新しいチームに移る選手が日本中に何人いるかわからない。しかし恐れず、前向きに、明るく、そして勇気をもって取り組んでほしいと思う。
日本の4月は、希望に満ちた「新しいスタート」の季節でもある。
(2007年3月28日)
問題は「高さ」。身長の問題ではない。「標高」である。
ことし9月に中国で開催される女子ワールドカップ予選のプレーオフ第1戦を見事な戦いで勝ち取った女子日本代表「なでしこジャパン」。メキシコとのアウェー第2戦は3月17日にメキシコのトルーカで開催される。初戦の結果2−0というアドバンテージをもつとはいえ、簡単な戦いではない。トルーカは標高2680メートルという高地だからだ。
「高さよりも暑さが気になる」と、出発を前に、なでしこジャパンの大橋浩司監督は語った。少し前に視察に行ったときには気温が30度もあったという。トルーカはメキシコのなかでも「常春」の町として知られるところ。観光案内書には、真夏でも30度を超すことはめったにないと書いてある。もっとも近年の地球温暖化で「常識」も通じなくなっているのかもしれない。
しかし2680メートルというのは、おそらく近年の日本サッカーが経験する最も標高の高い場所での試合となる。昨年9月に日本代表が標高2300メートルのサヌア(イエメン)で試合をしたが、そのときにはそれほど大きな影響は出なかった。なでしこジャパンも、ちょうど4年前にサヌアとほぼ同じ高さのメキシコシティで試合をし、2−2で引き分けている。だが今回はさらに400メートル近く高くなる。その影響がどの程度になるか、予想は難しい。
この高さになると、気圧が平地の7割程度になり、体に取り込める酸素の割合はさらに少なくなる。低地から行っていきなり激しい運動をすると、動悸、息切れ、頭痛、めまいなどの症状を起こす。いわゆる高山病だ。
エクアドルやボリビアがワールドカップ南米予選を3000メートル級の高地でホームゲームを開催し、好成績を残したことから、「高さ」を利用しようというサッカーチームが増えている。最近では、標高4000メートルにあるポトシをホームとするボリビアのクラブが南米のクラブカップに出場し、対戦チームが「スポーツ医学的に無理」と反発するなど問題化した。
やっかいなのは、高度の影響には個人差があり、誰がどんな影響を受けるか予想がつきにくいことだという。じっくりと時間をかけて高度順化のトレーニングが行えればいいが、プロのカップ戦や、今回のなでしこジャパンのように順化期間が限られた状況ではどうしようもない。
「日本と同じように、メキシコにもホームの利点を生かす権利がある」と、第1戦後、メキシコのクエジャール監督は語った。それも一理ある。しかしことさらに「高度の利」を生かそうという最近の風潮は行きすぎのように思う。
だが変えられないものは受け入れ、その影響が出ないよう最大限の努力をするしかない。15時間もの時差、大橋監督が警戒する暑さ、そして高さ。メキシコとの対戦の前に、なでしこジャパンは、そのすべてに打ち勝たなければならない。
(2007年3月14日)
1984年12月16日、シンガポールの国立競技場。アジアカップ決勝戦の主審を終えたばかり、当時37歳の高田静夫さんは、心地よい虚脱感のなかにいた。
先輩の勧めで審判員になって12年。とんとん拍子に1級まで進み、この年からは国際審判員に名を連ねていた。しかしこのころまで、高田さんはサッカーの審判という仕事を心から楽しいと思ったことはなかった。選手や監督たちから文句の言われどおしだったからだ。
当時は国際審判員も2年目にならないと「FIFA」の名前のついたワッペンを交付されなかった。1年目はいわば仮採用期間。高田さんは日本国内のワッペンのまま、500円の笛をもってシンガポールのグラウンドを走った。
この大会では、審判員は試合当日の朝に4人の名前が発表され、競技場でそれぞれの役割が知らされた。決勝戦の朝、高田さんは4人のなかに自分の名前があるのを知った。
しかし他の3人のなかにはスペインのA・ラモカスティーリョさんとイングランドのG・コートニーさんという2人のゲストレフェリーがいた。ともに世界でもトップクラスにはいる名主審だ。高田さんは何も期待はしなかった。
キックオフの30分前、「タカダ、きみが主審だ」と告げられた。頭のなかが真っ白になった。2人のヨーロッパ人は線審(現在の副審)を務めることになった。
すぐにキックオフの時刻がきた。無我夢中で走った。そのなかで、両線審が絶妙のタイミングで高田さんにサインを送ってくれた。それに助けられながら、90分間はあっという間に過ぎた。試合はサウジアラビアが2−0で中国に勝ち、初優勝を飾った。
表彰式が始まろうとしていた。高田さんは2人の線審とともにスタンド下のロッカールームに向かおうとした。しかしそのとき、副審のひとり、コートニーさんが高田さんの肩をつかんでこう言った。
「タカダ、われわれは決勝戦でいいレフェリーができた。しばらくとどまって、この場を楽しもうじゃないか」
大きな2人の線審にはさまれるように小さな高田さんが立ち、数分間、表彰式の模様を見守った。
「なんて幸せなんだろう」
高田さんはそう思った。「これまでやってきてよかったな」。心からそう思えた。
その後、高田さんは86年と90年の2回のワールドカップで審判を務め、94年に現役を引退、以後、後進の育成に力を注ぎながら、Jリーグと日本協会の審判委員長を歴任、2006年に退任した。
ことし2月24日、東京都と関東のサッカー審判協会が高田さんの退任記念特別講演会を開催し、100人を超す審判員や関係者が集まった。このアジアカップ決勝戦でのエピソードは、そのときに語られたものだ。
つらいことが多く、報われることの少ない審判員たち。しかし彼ら抜きにサッカーは成り立たない。もっと審判をサポートし、勇気づけることが必要だと、高田さんの話を聞きながら思った。その責任は、審判養成の関係者たちだけでなく、サッカーにかかわるすべての人、サッカーを楽しむすべての人にある。
(2007年3月7日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。