最近、ひとつのシーンを探して3万枚近くのJリーグの写真を見る作業をした。しかし結局見つからなかった。
探していたのは、「胸を張る敗者」だ。
誰でも勝つことを目指して練習し、試合に臨む。そして勝つために90分間走り、戦う。スタンドを埋めたサポーターはそんな彼らを信じ、献身的に声を挙げて励まし続けてくれる。しかし勝つ保証など、どこにもない。相手の力が上回るときもある。不運に見舞われることもある。引き分けでなければ、対戦した2チームのうちひとつは「敗者」とならざるをえない。
一生懸命にやってきたことが報われず、敗戦で終わったことに失意の念を抱かない者はいない。それは日本人に限らず、万国に共通することに違いない。しかしその後の「態度」には、大きな差異があるように感じる。
Jリーグの試合直後、選手たちがどんな態度をとるのか気をつけて見てみた。すると、負けたチームは、多くの選手が両手を腰に置いて下を向いていた。そしてぞろぞろと歩いてサポーターのいるスタンド前に行くと、まるで不祥事を起こした企業の幹部のように深々と頭を下げた。一方勝ったチームは、互いに抱き合い、握手し合って喜び、サポーターのところに走っていくと手を上げて歓呼に応えた。
ヨーロッパのサッカーにはこんなシーンはない。試合が終わると、ただ近くの選手と握手をかわし、集まるでもなく、スタンドに手を振りながらあっさりと引き上げてしまう。それだけを見ていると、どちらが勝ったのかさえわからないときがある。
こうした差異の背景のひとつには、「あいさつ」という文化の違いもあるだろう。「かたち」のなかに心を込める日本。そしてストレートな表現で心情を伝え合うヨーロッパ。文化なのだから、どちらがいいという話ではない。
しかしそれ以上に感じるのが、「敗戦は悪」、「恥じ入らなければならない」という日本固有の感覚だ。下を向くのは「自分は恥じ入っている」ことを示し、深々と頭を下げるのは「謝罪」を示す形式だ。
たしかに情けなくなるような敗戦もあるだろう。しかし勝負は時の運。選手にできるのは、全力を尽くすことだけだ。その結果、力が及ばなかった敗戦なら、それが意味するのは、よりいっそうの努力が必要ということだけだ。
敗戦はスポーツの結果のひとつにすぎない。けっして「悪」ではないし、「恥じ入る」必要もない。そうしたことをファンに示すのも、プロ選手たちの責任だと思う。
敗戦の悔しさを押し殺して顔を上げ、相手チームの選手たちと健闘をたたえあい、そして応援してくれたサポーターたちに感謝の拍手を送って引き上げていってほしい。下を向くのは、チームバスがファンの人波を離れてからでいい。スタジアムでは、「堂々と胸を張る敗者」であってほしいと思うのだ。
(2007年6月27日)
「Jリーグのクラブも、こんな存在にならないといけないな...」
道を歩きながら、そんな思いにとらわれた。
先週の週末は、梅雨入り後とは思えないすばらしい好天だった。とくに土曜日は、雲ひとつなく、空気も澄み、夏至間近の強烈な日差しがじりじりと照りつけた。しかしグラウンドに向かう道は、思いがけなく快適だった。桜の並木が見事な木陰をつくっていてくれたからだ。
ほんの3カ月前は枯れ枝につぼみがふくらみ始めたころだったはずだ。あっという間に開花し、満開となり、花が散ると若葉が出て、いまは青々とした葉を枝いっぱいに茂らせている。そしてその枝は、太陽からのエネルギーを少しでも多くとらえようと大きな広がりを見せている。生命の神秘を思わざるをえない。
地中に張り巡らせた根から吸い上げられた水分は、太い幹を通り、枝を伝い、何十万枚もの葉の隅々にまで送り込まれる。濃い緑の葉は、その水分と太陽のエネルギーを原料に、樹木を育てる栄養をつくり出す工場だ。
しかし樹木は、大きく枝を広げて自らを成長させているだけではない。酸素を放出し、先週末のような日差しの下では私たちに美しい木陰を提供し、そして、なぜか人間の心を落ち着かせる景観まで与えてくれるのだ。
冒頭に書いた思いにとらわれたのは、ここまで考えたときだった。
Jリーグのクラブには、根を張るべきホームタウンがある。この樹木に豊かな水分を提供しているのはホームタウンにほかならない。ホームタウンは、練習や試合の会場を提供し、その人びとは入場券を買ってスタジアムを埋め、無条件の愛情を注いで声援を送ってくれる。ホームタウンがなければ、Jリーグ・クラブという木はすぐに枯死し、倒れてしまうだろう。
では、クラブはホームタウンにどんな恩返しをしているのか----。人びとに喜びを与えているだろうか。誇りになっているだろうか。そして、強烈な日差しをさえぎり、人びとに安らぎを与える木陰を提供しているだろうか。
もしかすると、自らのための水分を確保することだけに汲々として、ホームタウンにどんな価値を還元するのかにまで思いが至らないクラブもあるのではないか。あるいはまた、自らが目立とうとするあまり、枝を広げずにひたすら上へと伸び、「ランドマーク」にはなっても、豊かな木陰を人びとに提供できないクラブもあるのではないか。
成長するために根を張り、枝を広げ、天に向かって青葉を茂らせる自らの精いっぱいの生命活動のなかで人びとに無限の恩恵を与えている樹木。そうした「生命の達人」の域になるのは大変だろうが、Jリーグのクラブがもしそれに近づけたら、「百年」どころか、「千年」のいのちも可能になる。
(2007年6月20日)
「試合は、いったい誰のものか----」。最近、Jリーグの試合を見ながら、よくこんなことを考える。「誰に所有権があるか」という話なら、間違いなくホームクラブである。私が考え込むのは、「誰のための試合か」という点だ。
プロの試合は、入場券を購入してスタンドに足を運んでくれる人がいて成立する。年間何億円というスポンサー収入やテレビ放映権収入も、根源をたどれば試合を見るために何万人かの観客が集まるという事実にぶつかる。まばらにしか観客のいない試合に、誰が広告を出すだろうか。
それなのに、Jリーグの試合では、観客を無視し、「自分たちのためだけの行為」が横行していると感じるのだ。
たとえば試合の終盤に行われる選手交代だ。
勝っているチームの選手たちは、決まって、ゆっくりと歩いて出る。10秒でも余計に時間をかけ、楽に勝とうとしているのだ。ほんの数秒前まで精力的にダッシュを繰り返していた選手が、急に力が消えてしまったかのようにだらだらと退場していく。まるで「これが最後の仕事」と考えているかのように...。
そうした姿は、観客の目にはどう映るのだろうか。私が観客なら怒る。私は、毎試合終了時間が近づくと、「ああ、もう終わってしまうのか」と悲しくなってしまうからだ。常人にはまねのできない技巧、信じがたいほどのがんばりを、もっともっと見ていたいと思うからだ。つまらない時間かせぎでその楽しみを奪われたら、怒るのは当然だ。
6月9日、千葉との試合前に横浜F・マリノスの齋藤正治新代表が記者会見を開き、「2010年までに、年間の総観客数を100万人にする」という目標を語った。年間20試合として1試合平均5万人は、現状の2倍以上の数字。気が遠くなる目標に違いない。「この目標に向かって、クラブの各機能の力を集約する」と齋藤代表は力説した。
しかしその試合、1−0のリードで迎えた終盤、横浜FMの選手たちは当然のようにゆっくりと歩いて交代した。退場でひとり少なくなっていたかもしれない。だがどんな状況でも最後まで全力でプレーすることこそ、観客に対するプロとしての最低限の責務のはずだ。私はゆっくり交代することで勝利に近づくとは思わないが、たとえそうであっても、そのために最も大事な観客を裏切っているのだ。
横浜FMだけを非難するつもりはない。現在のJリーグには、「誰のための試合か」と疑いたくなるようなシーンがあふれている。コーナーまでゆっくりと歩いていくCKキッカー、少し痛いだけで大げさにピッチに倒れ、起きようとしない選手...。
安っぽいヒロイズム、子どもっぽい甘え...。そういうものを一掃し、観客が心から満足するような試合を提供しなければ、観客は、増えるどころか、次第に離れてしまう。
「試合は誰のものか」。選手もチームも、もういちど白紙の状態で考える必要がある。
(2007年6月13日)
「中村憲剛のようなクオリティーの選手が、近くにフリーの選手がいたのに自分でシュートして外した」
6月1日に静岡で行われたキリンカップのモンテネグロ戦後の記者会見で、日本代表のイビチャ・オシム監督は「いい時間帯もあったが、個人プレーに走る選手がいるのは問題だ」と強調した。一例として出したのが、2−0で迎えた後半9分のMF中村憲のプレーだった。
相手陣深く、右サイドでパスをつないで起点をつくり、DF駒野が中央へドリブルではいって横パスを送る。それをFW高原がスルーすると、ゴール正面で中村憲がフリーとなった。あわてて寄せてくる相手DF。中村憲の左から上がってくるMF山岸は完全なフリーだ。しかし中村憲は、二歩、三歩とボールをもつと、強引にシュートを打った。相手に詰められ、余裕がなかったシュートは、右上に外れた。これを、オシム監督は「目立ちたい一心のプレー」と断じたのだ。
たしかに左の山岸に出していれば、もっとフリーでシュートが打てたかもしれない。あるいは山岸からの強く低いクロスが中央に飛び込む味方に合ったかもしれない。しかし中村憲自身は、相手DFの体勢から山岸へのパスをカットしようと狙っていると感じ、瞬時に自らのシュートを決断したのではないだろうか。
「サッカーに正解はない」とは、日本代表や横浜FMなどの監督を務めた岡田武史氏の口ぐせだ。ある瞬間に、何かの決断を下し、実行に移さなければならない。別の道を試してみることはできない。監督や選手にできるのは、経験をもとに決断を下したら、あとは自らを信じて実行することだけだ----。
試合を見ていて、明らかに「エゴ」と感じるプレーもある。チームの勝利のためのプレーではなく、自分自身の満足のためのプレーである。しかしこのときの中村憲は、明らかな「エゴ」とは感じられなかった。
「たとえば1点をリードされている状況だったら、同じプレーをしただろうか」と、オシム監督は判断の基準を示した。たしかにひとつの指針にはなる。しかし中村憲の判断が私の想像どおりだったとすると、リードされている状況だからこそ、同じプレーをしたかもしれない。
モンテネグロ戦の後半、日本のリズムが崩れたのは、チーム全体に「自分のいいところを見せよう」という雰囲気が広がり、プレーが少しずつ遅くなったためだった。オシム監督はそうした雰囲気を危惧し、チーム全体に強く警告を与えるために、彼が最も信頼する選手のひとりである中村憲のプレーをあえて挙げたのだろう。
サッカーに「正解」はない。しかし「間違った判断」はある。それがいくつも積み重なっていったら、チームは大きな打撃を受ける。オシム監督の警告をチーム全体でしっかり感じ取れたら、日本代表はひとつ前進できるはずだ。
(2007年6月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。