思いがけなく(といっても日本代表が順調に勝ち進めば当然のことだったのだが)、ベトナムの首都ハノイでの滞在が3週間近くにもなった。
最初に驚いたのは、街なかのバイクの多さだった。広い道を走る車両の9割以上は小型のバイクあるいはスクーター。2人乗りどころか、3人乗り、4人乗りも珍しくない。そのバイクが、横に何台も並び、まるでパレードのように連なって、わがもの顔に道を流れていくのは壮観だ。
だが驚いた後に困った。道路の横断だ。都心でも信号の数は非常に少ない。あっても、自動車は守ってくれるが、バイク族はお構いなし。赤信号でも平気で走ってくる。必然的に、道路の横断は、突進してくるバイクのスキを縫いながらということになる。
コツは急がないことだ。ゆったりと渡れば、バイクのライダーたちがこちらを認識し、速度を落としたり、巧みによけてくれる。現地の人を見ると、バイクの流れの間を悠然と横断していく。
タクシーに乗るとおもしろいことに気づいた。しきりにクラクションを鳴らすのだ。しかしそれは「どけ!」というような響きではない。「後ろに自動車がいるよ。気をつけて」と、注意を喚起するものだった。ハノイでは、自動車も周囲のバイクに気を配りながらの運転だった。
こうした交通を見ながら、ふと日本のサッカーの指導の重要な一面を思い出した。
日本のサッカーで若いプレーヤーたちに最も強調しなければならないのは「コミュニケーション」だ。言葉もあるが、より重要なのは相手(仲間)の目を見て意思を通わせる「アイコンタクト」だ。
目と目が合わなくてもいい。相手の体勢、周囲の状況を見て、相手が何をしようとしているのか、何ができるのかを感じ取り、それに対応した動きや準備をすることはサッカーでは非常に重要だ。しかし訓練を受けていない日本の若いプレーヤーはこれが非常に苦手なのだ。
現在の日本社会を考えれば当然だと思う。街を歩いている若者は他人のことなどまったく気にせず、自分のあるいは自分たちの世界に浸っている。前から歩いてくる人がどう動くのかなどに関心を払う者もいない。道路の横断も、信号機だけを見て、青になったら自動的に足が前に出る。
他人の目や体の動きを見て意図を推察する、面識のない相手に気を配るといったことが非常に乏しい。道路を横断するという些細なことでも、自分で見て判断し行動を決するということがほとんど行われていないのが、現在の日本の社会なのだ。
ベトナムの若いプレーヤーを指導するコーチたちは「コミュニケーション」など強調する必要がないに違いない。彼らの日常生活がコミュニケーションと自己責任による判断の積み重ねだからだ。それだけでサッカーが強くなれるというものでもないが、「コミュニケーション」から指導しなければならない日本のサッカーが大きなハンディを負っているのは確かだ。
(2007年7月25日)
「たしかに走る量は増え、走ることでチャンスをつかむ回数も多くなった。でもただ走ればいいというものではない。走らないほうが良いときなら走らない。頭を使い、考えながらやっている」
地元ベトナムとのアジアカップ1次リーグ最終戦を控え、日本代表MF遠藤保仁(G大阪)は落ち着いた口調でこのような話をした。
昨年7月にイビチャ・オシム監督が就任して以来、初めて長期間をともに過ごし、緊張を強いられる大会を経験している日本代表。そのなかで、チームがオシム監督の目指す方向にぐんぐん成長しているのがわかる。
昨年はJリーグの選手だけで7試合を戦った。ことしにはいってから「ヨーロッパ組」を招集し、そのなかでMF中村俊輔(セルティック)とFW高原直泰(フランクフルト)がこの大会の代表に選ばれた。そして3試合を通じて意思疎通がスムーズになり、全員が共通のイメージをもってプレーできるようになった。
この大会には暑さという小さからぬ要素がある。気温33度、湿度70パーセントという過酷な条件の下で90分間ハイペースのプレーを続けることなど不可能だ。しかしオシム監督は、どのようにプレーをコントロールするかなど指示はしていいない。ひたすら、「日本のサッカー」を実現することだけを求めている。そして練習や試合を見ていると、そうしたサッカーが姿を現しつつあることがわかる。
もしこの大会がもっと気候条件の良い場所や季節に行われていたら、いまの日本の攻撃を食い止められるチームはアジアにはなかっただろう。それくらい、現在の日本の攻撃には驚きがある。
アクションを起こす。それによって生まれたスペースを他の選手が使う。そうしたプレーが連続し、タイミングの良い動きとシンプルなパスの組み合わせが大きな驚きを生む。頻繁にポジションを入れ替えながら次つぎとスペースをつくり、使うサッカーは、「日本型トータルフットボール」とも言える。
他チームの監督たちは口をそろえて「日本にはいい選手がたくさんいる」と語る。しかし日本が頼るのは個人の力ではなく集団プレーであることを、日本の選手たちがいちばんよく理解している。
FW高原のシュート能力は本当にすばらしい。MF中村俊のテクニックと視野の広さは、チームの大きな力になっている。しかし彼らのそうした能力がチームにとって価値があるのは、彼らも他の選手たちとまったく変わらず「チームとして驚きをつくる」プレーに徹しているからだ。
準々決勝の相手はオーストラリア。最初はもたついたが、1次リーグ3試合で調子を上げてきた。強豪中の強豪だ。しかしどんな結果になっても、2010年ワールドカップに向けて、今大会が日本代表の重要なステップになるのは間違いない。
(2007年7月18日)
ハノイ西郊のミディン・ナショナルスタジアムは4万人の観客で埋まり、壮絶な雰囲気のなかにあった。
満員の観客は1プレーごとに反応し、一体となって歓声を上げる。両サイドに架けられた巨大な屋根にその歓声が反響し、ピッチ上で戦う赤いユニホームのベトナム代表に巨大な力を与え、その相手となった白いユニホームのUAE代表は新たないけにえとなった。アジアカップB組の初戦、最も弱いと予想されていたベトナムが、強豪UAEを2-0で下したのだ。
ベトナムは、オリンピックにもワールドカップにも出場したことがない。現在のFIFAランキングは142位。しかし20世紀の4分の1を、戦火で国土が焦土と化すなかで過ごしながら、この国の人びとのサッカーへの情熱は衰えることを知らない。
インドシナ半島で最初にサッカーが盛んになったのは、この国の南の中心地であるサイゴン(現ホーチミン)だった。19世紀半ばからベトナムを植民地としていたフランス人の手により、1923年には「コーチシナ・サッカー協会」が設立され、34年にはフランス・サッカー協会の一地域となった。
「コーチシナ協会」は48年に「ベトナム・サッカー協会」と改称され、4年後には国際サッカー連盟(FIFA)への加盟も果たす。54年にはアジア・サッカー連盟(AFC)の創設メンバーのひとつとなり、56年、60年の第1回、第2回アジアカップでは連続して4位を占めた。
ところが第2次世界大戦後に始まったフランスとの独立戦争で最終的な勝利を収めた54年、国土は南北に分断され、ベトナムは米ソ冷戦の熱い最前線となって後のベトナム戦争へと突入していく。
北ベトナムは62年に独自のサッカー協会を設立、2年後にはFIFAへの加盟を果たす。しかしAFCは南ベトナムの要請で北の協会の加盟を認めなかった。当然、国際舞台での活動は著しく制限されることになる。
75年、ようやくベトナム戦争が終結し、「南ベトナム」という国が消滅して、北ベトナムのサッカー協会がこの国を統轄するサッカー組織となる。80年には全国リーグも始まった。しかし社会主義政権の下、国の復興に時間がかかり、サッカーの強化も進まなかった。新生・ベトナムのワールドカップ・アジア予選初出場は、94年アメリカ大会のことだった。
96年、新組織のプロリーグ(Ⅴリーグ)が発足し、ベトナムのサッカーは急成長の時代を迎える。そして現在ではタイと並ぶ東南アジアの二強と言われるようになり、その力は今回のアジアカップ初戦で見事に証明された。
UAEに快勝した晩、ハノイ中心部の大通りでは、何千台ものバイクに乗った若者たちが赤地に黄色い星を描いた国旗を誇らしげに掲げて走り回っていた。その姿を見て、この国も、世界に数多(あまた)ある「サッカー狂国」のひとつであることを実感した。
(2007年7月11日)
カナダで行われている「U−20(20歳以下)ワールドカップ」。日本の初戦は、ヨーロッパ予選で2位という強豪スコットランドに対する見事な勝利だった。
大柄な相手に対し、小気味良くパスを回し、ドリブルで突破し、守備でも鋭い出足でボールを奪ってリズムをつかんだ。3−1の勝利は当然の試合内容だった。
そのなかで「おや?」と思うシーンがあった。後半30分過ぎ、MF柏木(広島)の見事なスルーパスでFW森島(C大阪)が右からフリーで抜け出したときだ。決定的なチャンスだったが、シュートは前進したGKマクニールの体に当たってはね返された。
「おや?」と思ったのは、U−20ワールドカップだけでなく8月から始まる北京オリンピックのアジア最終予選でも活躍が期待される森島のような選手でも、GKとの1対1の基本的なプレーができていなかったからだ。
DFラインを完全に置き去りにして、GKさえ破れば得点となる「1対1」は、1試合に1回あるかどうかという絶好機。これを確実に決められれば得点力はぐっと上がるし、チームも楽になる。しかし実際には、森島のケースのようにGKに防がれることが非常に多い。ドリブルの「方向」が間違っているのだ。
大半の日本のストライカーは、どんな場合でもゴールにまっすぐ向かってドリブルしていく。追走してくる相手DFにつかまる恐怖があるからだ。しかしGKから見ると、これは非常にありがたい。
GKのポジションはボールとゴールの中心を結ぶ線上が基本だ。相手がまっすぐ向かってくれば、左右にポジションを動かさずに冷静に前進のタイミングを計りさえすればよい。GKにとっては失うものなどない状況。思い切り相手の足元に飛び込むと、シュートは体のどこかに当たる。
少しでも左右どちらかのサイドからの突破だったら、ストライカーが向かうべきは「ゴール」ではなく「シュートを打つ場所」だ。シュート力にもよるが、常識的にはペナルティーエリア正面の「アーク」と呼ばれる弓形の周辺だろう。
ここに向かっていけば、最終的にゴール正面の最も得点の確率の高い場所からシュートができる。そのうえGKから見れば左右にポジションを修正しなければならず、より難しい状況になる。ストライカーは、シュートのときに驚くほど優位に立っていることがわかるはずだ。
それだけではない。逆サイドからカバーをする相手DFがきたとしても、この方向のドリブルはDFにとってはピッチを横切るような動きに感じられ、タックルのポイントがつかみにくく、非常に嫌なプレーなのだ。
GKとの1対1の状況で得点の確率を上げる秘訣は他にもいくつかある、しかしまずは「ゴールに向かう」という無意識のプレーを捨て去り、GKの立場から見て守りにくいドリブル方向を工夫する必要がある。
(2007年7月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。