なでしこジャパン(日本女子代表)の大橋浩司監督が退任した。北京オリンピック出場を前に、契約満了を機に自ら退くことを決めたという。
「3年前に就任したときから、オリンピック出場とワールドカップ出場を大きな目標としてきた。自分の責任は果たせたと思う」
11月26日に行われた退任の記者会見で、大橋さんは晴れ晴れとした表情だった。
1959年生まれの48歳。日本サッカーリーグなどトップクラスでの選手経験があるわけではない。三重県出身の大橋さんは、大阪体育大学で選手生活を送った後、故郷に帰って中学教師となり、82年から19年間にわたってサッカー部の指導に当たってきた。
その間の92年に日本サッカー協会の公認B級(現在のA級)コーチとなり、三重県や東海地域の優秀選手の指導に当たるうちに抜群の指導力を認められ、99年には現役の中学教師として初めて公認S級コーチに合格、2001年には請われて日本サッカー協会の専属指導者となった。2004年に一時アルビレックス新潟がシンガポールリーグに送り込んでいるチームの監督を務めたが、11月になでしこジャパンの監督に就任した。
小柄で、いつもにこにこして人当たりもやわらか。しかし内側には猛烈な闘志と意志の強さを秘めている。
なでしこの監督に就任した直後、単身アメリカに渡り、アテネオリンピックで金メダルを取ったばかりのアメリカ代表を見た。そして世界のトップクラスと日本のギャップを測り、どう埋めるかを考え続けてきた。代表チームの練習は、本来ならコンビネーションなどが中心になるが、大橋さんはヘディング、スライディングなどの基礎的な技術の練習も取り入れた。すべては「世界」とのギャップを埋めるためだった。
やると決めたことは何があってもやり抜く。強いリーダーシップと、それに同居する選手たちに対する細やかでやさしい心づかいは、中学生の指導のなかで磨かれたものなのだろうか。アテネオリンピック後に出産したMF宮本ともみ選手を復帰させると決めたとき、初めての「ベビーシッター」の導入を提案したのは大橋さんだった。
そうした大橋さんだったから、選手たちも苦しい練習に前向きに取り組み、この3年間で長足の進歩を成し遂げることができたのだろう。
アテネ当時には、世界のトップクラスとの対戦ではひたすらがんばるしかなかった。しかしことし9月のワールドカップでは、優勝したドイツに対してさえ、しっかりとパスをつないでチャンスをつくるサッカーができた。
なでしこジャパンのヒノキ舞台であるオリンピックを前に大橋さんを失うのは非常に痛い。しかしここで立ち止まることは許されない。
「方向性は間違っていない」。大橋さんの言葉を信じて、なでしこジャパンはさらに進化しなければならない。
(2007年11月28日)
自分が何をしていても、気になるのはオシム監督の容態だ。無事回復し、あの笑顔を見せてほしいと思う。
「プレーヤーズファースト(選手第一)」という言葉がある。私がオシム監督を敬愛するのは、彼の言葉や行動の背景に、若いサッカー選手たち(彼から見ればサッカー選手はみんな若い)に対する深い愛情があるのを感じるからだ。「日本のサッカーを日本化させる」という日本代表監督就任時の言葉には、「(フィジカルが弱いと言われる)日本人でも十分に世界に対抗できるんだよ」という思いやりあふれるメッセージがある。
さて、ことしの日本のサッカーで「プレーヤーズファースト」の精神に最も反しているのは我那覇和樹選手(川崎フロンターレ)をめぐる事件ではないだろうか。4月、我那覇選手は風邪で38・5度もの熱があり食事もできない状態ながら、激しいレギュラー争いのために練習に参加し、練習後、チームドクターから点滴治療を受けてようやく帰宅した。それが「ドーピング規定違反」とされ、6試合もの出場停止処分を受けた。
当初は「にんにく注射」などと報道されたが、明白な誤報だった。後藤秀隆医師が施したのは、プロサッカー選手の健康を預かるチームドクターとしての純然とした、そして当然の医療行為だった。それが不条理な裁定につながったのは、世界アンチドーピング機構(WADA)規定の運用間違いが裁いた側にあったことが原因だった。
Jリーグから罰金1000万円の制裁を受けた川崎は、我那覇選手ともどもこの問題を「終わったこと」と表明していた。しかし今月になって後藤医師が日本スポーツ仲裁機構に仲裁の申し立てをしたことでまた事態が動き出した。何より重要なのは、我那覇選手自身がクラブに「仲裁申し立てに加わってほしい」という意思を示したことだ。
「家族にもサポーターにも胸を張って生きていけるように」と、我那覇選手はその意図を語る。しかし川崎はあらためて「Jリーグの処分に従う」という方針を示した。
川崎は今季のJリーグで最も「成長した」クラブだと私は思っている。ホームタウンの人びとの心のなかにしっかりと根をおろし、ホームタウンの不可欠なメンバーと認知されたように感じられたからだ。それはサポーターの増加、そしてスタジアムの雰囲気の変化となって表れている。しかしここで後藤医師を見捨て、我那覇選手の気持ちをふみにじるならサポーターはどう思うだろうか。
Jリーグの制裁決定後も後藤医師にチームを任せ、今回も「(もし仲裁でも違反と判定されたら)我那覇選手に追加処分が下される」恐れから仲裁申し立てに加わらないと表明していることから、川崎がJリーグの処分を完全に納得しているわけでないことは読んで取れる。であれば川崎は行動を起こすべきだ。それが本当の「プレーヤーズファースト」の考え方ではないか。
我那覇選手と後藤医師だけの問題ではない。これは、川崎フロンターレというクラブの正念場に違いない。
(2007年11月21日)
イタリアでまたサポーターをめぐる事件が起きている。
高速道路のサービスエリアで、それぞれ別の試合に向かうクラブのサポーター同士が衝突した。介入した警官の威嚇発砲がひとりのサポーターを直撃し、彼は死亡した。このニュースを聞いた他クラブのサポーターが、それこそイタリア全土のスタジアムで警備の警官たちを「人殺し」とののしり、場所によっては暴動に発展したという。
イタリアでは、ことし2月に南部のカターニャでサポーター同士の暴動に巻き込まれた警官が死亡し、大きな事件になった。それ以来政府はスタジアムでの警備をより厳重にしたため、サポーターとの軋轢が高まっていた。そうした背景があるだけに、問題は単純ではない。
さて日本では、ひとつのクラブのサポーターがあらためてクローズアップされている。今夜「アジアチャンピオン」の座をかけてイランのセパハンと対戦する浦和レッズのサポーターだ。Jリーグが始まったころは「万年最下位」で後にはJ2降格も経験した浦和が、リーグを制覇し、アジアのチャンピオンの座に近づいた。その要因のひとつとして、熱烈なサポーターの存在が挙げられているのだ。
ホームスタジアムを真っ赤に染め、相手チームにプレッシャーをかけるだけではない。アウェーでも、それが韓国やイランの地方都市であろうと、多数の浦和サポーターがかけつけ、声を限りに声援を送った。その声がどれだけチームを勇気づけただろうか。いまメディアが浦和のサポーターにスポットを当てているのはまことに当を得ている。
今季のJリーグを見渡すと、「浦和を追え」とばかりにサポーターに元気が出てきたクラブが目立つ。相変わらずスタジアムを満員にしている新潟だけでなく、川崎、柏、甲府、千葉などでサポーターのパワーが高まってきている。しかし浦和はやはり別格だ。
1993年にJリーグがスタートしたころには、どのクラブも同じように熱いサポーターをもっていた。しかし数年のうちに浦和だけが突出してしまった。なぜだろうか。
浦和は、クラブのプロ化前から「サポーターをサポートする」という考え方を貫いてきた。サポーターを重要な仲間ととらえ、意見を聞き、とことん話し合って、どうしたらスタジアムを「より良い空間」にできるか、ともに考えた。プロのサッカークラブの最優先の重要な仕事は強いチームをつくることだが、浦和の場合、チームと同じように「強いサポーター」をつくる努力を続けてきたのだ。
浦和の選手層の厚さはよく知られているが、観戦に向かう車中を見渡すだけでサポーターも層が厚いのがわかる。まさに老若男女、性別や年齢、職業を問わず、誰もが「私がレッズを勝たせる」の意気に燃えた表情をしている。
先に日本一になったサポーターを追うように、チームもJリーグを制覇した。そして今夜、浦和とそのサポーターは、ともに「アジア一」の称号をつかもうとしている。
(2007年11月14日)
今夜、浦和レッズはイランでAFCチャンピオンズリーグの決勝、セパハンとの第1戦を戦う。日本の千葉県内では、きのうからきょうにかけてU−22日本代表の合宿が行われた。勝つ以外にないオリンピック予選の最後の2試合(17日=対ベトナム=ハノイ、21日=対サウジアラビア=東京)に備えたトレーニングだ。
サッカー選手として一生に何回もあるとは思えないビッグマッチ。浦和にもU−22にも、常ならぬ緊張感の高まりがあるに違いない。
大事な試合を前に緊張するのは悪いことではないと、私は思っている。選手たちは努めてリラックスしているところを見せようとするが、本当にリラックスしきってしまったら高い集中力を発揮することなどできないからだ。
ずいぶん昔、テレビで外国のある音楽祭を見たときのことを思い出す。最優秀賞を取ったイタリア人男性歌手の歌は、歌詞の意味などまったくわからない私にも、その情感やみずみずしいイメージが心にしみこんできて、とても感動的だった。
数カ月後、その歌手が来日し、日本の舞台で歌うことになった。そのときもテレビで見た。そして驚いた。楽しみにしていたのに、同じ歌手、同じ曲とは思えないほど、訴えかけるものがなかったからだ。なぜだろうか。
音楽祭では、緊張の極にあったのだろう、舞台に登場し、前奏が鳴り始めると、彼の表情は青ざめているようにさえ見えた。しかし最初の1小節を過ぎると彼は歌に没入した。彼が歌っているというより、歌そのものが彼を媒介して聴衆に訴えかけているようにさえ思えるほどだった。
ところが日本の舞台では、彼は余裕たっぷりだった。聴衆を見渡し、自らの技巧に酔ったような歌いぶりだったのだ。これでは情感など伝わってくるはずがない。
2つの舞台から私が得た教訓は、「高いパフォーマンスを発揮するには緊張も必要」ということだった。その緊張に負けて自らのコントロールを失ってしまったら失敗する。しかし極度の緊張まで自分を追い込まなければ、高い集中力は生まれない。最高のパフォーマンスとは、その緊張を解き放つことなのだ。
最近は「プレッシャー」という言葉を使う。そこにはプレーヤーの心を縛る「悪玉」のイメージがある。プレッシャーとは、はねのけるものであり、それを感じない者こそが強いように思われている。
しかし世界最高の名プレーヤーたち、ロナウジーニョやカカに、「試合前に緊張感などないのでしょう?」と聞いてみたらいい。彼らは言下に否定するに違いない。そして「どんな試合の前にも、失敗するのではないかと怖い」と本音をもらすだろう。
勝敗は神様が決めることだ。プレーヤーにできるのは、緊張感や恐れから逃げず、真摯に試合に臨むことだけだ。その力は、浦和やU−22日本代表にも必ずある。
(2007年11月7日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。