サッカーの話をしよう

No.679 私たちはがんばり抜いた

 「う〜ん」
 何度うなり声を上げただろうか。ことし、私が監督をしている女子チームは大きな危機に見舞われた。大けがや病気などの理由で、何人もの選手が相次いで欠けていったからだ。とくに深刻だったのはDFラインで、昨年のレギュラーすべてが離脱し、試合ごとにメンバーをやりくりしなければならなかった。
 昨年のはじめ、関東リーグから東京リーグに降格が決まったのを機に、前年の耐えることが中心だった試合を主体的な攻撃ができるように変えようと取り組みを始めた。ようやく8月に練習の効果が出始め、以後は全勝でシーズンを終えた。ライバルと当たった開幕戦の敗戦を取り戻すことはできず、1年での関東リーグ復帰はならなかったが、私はことしのシーズンに大きな期待を抱いていた。

 しかし1月末の練習試合でDFの大黒柱とも言うべき選手がひざのじん帯を切断するという大けがを負った。そして4月以後は、試合ごとに中心選手が離脱するという事態に見舞われた。ことし、ひざのじん帯の手術を受けた選手だけで5人にもなった。甲状腺の病気、目の病気、さらには妊娠出産と、選手の離脱は止まらなかった。
 一時は、きちんとシーズンを終えることができるだろうかということさえ心配した。試合が成立する最少人数である7人をピッチに立たせることができない事態がくるのではないかと考えたのだ。
 しかしともかく11人に満たない試合もなく、私たちは1シーズンを乗り切った。目標としていた成績や結果にはほど遠かったが、ことしほど選手たちを頼もしく思ったシーズンはなかった。誰も弱音を吐かなかった。苦手なポジションにも必死に取り組んだ。そして若い選手たちがぐんぐん力をつけた。

 何よりうれしかったのは、プレーできない選手たちが休まずに練習に参加し、準備や片付けの仕事をしながら自らのリハビリメニューをこなしたことだった。いっしょにボールをけることはできなくても、彼女たちもチームの一員であることを示すと同時に、少人数で練習しなければならない選手たちに元気を与えたのだ。退院した日にまっすぐ練習場にきた選手もいた。
 チーム全員が、それぞれの立場でできる限りのことをした。試合に出ている者は最後の最後まで力を絞り尽くし、出られない者は力の限りに声援を送った。

 先週の土曜日、私たちは1年間お疲れ様のパーティーを開いた。選手の家族やOGも集まり、楽しい会となった。
 その日はたまたま、何年間も一生懸命に練習しながらポジションをつかめず、ことしめぐってきた出場の機会に驚くべきプレーを見せてチームを勝利に導いた選手の誕生日だった。笑顔いっぱいの「ハッピーバースデー」の歌声のなかで、この大変な1年を乗り切ることができたのは、チームが明るさを失わず、それぞれがサッカー選手として、そして人間として努力を続け、成長し、心を合わせてがんばり抜いた結果だと思った。
 
(2007年12月26日)

No.678 カカは新時代のスーパースター

 ACミラン(イタリア)の優勝で幕を閉じたFIFAクラブワールドカップ(FCWC)2007は、ミランのブラジル人MFカカ(25歳)の才能を世界に再認識させる大会だった。
 先にフランスフットボール誌の「バロンドール」を受賞、今週月曜日には国際サッカー連盟(FIFA)の年間最優秀選手にも選出された。ミランの中心選手として5月にUEFAチャンピオンズリーグ優勝の立て役者となり、年末のFCWCでも優勝とともにMVP。2007年はまさに「カカの年」だった。

 「カカ」という名を知ったのは2002年ワールドカップのとき。横浜で行われた決勝戦、ブラジルがドイツを2−0とリードして迎えた後半ロスタイムにブラジルは3人目の選手交代をしようとした。タッチラインに立ったのが、そのとき背番号23、カカだった。しかし実際に交代が行われる前にイタリアのコリーナ主審が試合終了の笛を吹き、彼は決勝戦のピッチに立つことはできなかった。
 1982年4月22日生まれ。20歳で最初のワールドカップに臨んだカカは、結局、1次リーグ、コスタリカ戦の後半、ブラジルが5−2とリードした後に18分間出場しただけだった。
 本名リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ。ブラジルの連邦首都ブラジリア出身。FCWCの準決勝で対戦した浦和のFWワシントンは故郷の大先輩に当たる。カカというニックネームには特別な意味はなく、弟が「リカルド」を発音できずに呼び始めたものだったという。

 FCWC決勝戦でカカを見ながら、「こんなスーパースターがかつていただろうか」と考えた。彼に先立つスーパースターといえばブラジル代表の先輩でもあるロナウジーニョ(バルセロナ所属)。ふたりを比較してみると、カカの「異才」が理解できる。
 ロナウジーニョをはじめとしたこれまでのスーパースターは、ボールを受けてからのプレーで他を圧する力を見せる選手たちだった。ひとつのボールタッチで状況を変化させ、得点を演出し、チームに勝利をもたらすのだ。
 しかしカカはボールがくる前に非常に幅広く動く。その動きで味方のためにスペースをつくり、攻撃とチーム全体を動かす。そしてこうした動きをしながら、彼は必要な場所に絶妙のタイミングで現れ、決定的な仕事をする。その瞬間に、彼の天才がある。

 FCWC決勝戦の4点目のときの動きとワンタッチでのFWインザーギへのパス、そしてわずかにゴールを外れたものの後半38分にカフーのクロスに合わせてゴール前に飛び込んだときのスピード...。偉大なチームプレーヤーでもあるカカは、「新時代のスーパースター」と言える。
 「今日のサッカーでは走れない選手は必要ない」と、イビチャ・オシムさんは口癖のように話した。カカの躍動的なプレーを見ながら、現代のサッカー選手に求められる資質をあらためて考えた。
 
(2007年12月19日)

No.677 ヘディングの強化は急務

 19世紀なかばにサッカーが誕生したときには、「ヘディング」という技術はなかった。発明したのはイングランド中部、シェフィールドクラブの選手だったという。
 ことし1年、いろいろなカテゴリーの日本代表あるいはクラブチームの国際試合を見てきた。そのすべてに共通する日本選手の弱点のひとつが、ミッドフィルダーたちのヘディング能力の低さだった。
 背の高さやジャンプ力といったフィジカルな要素の問題ではない。日本のミッドフィルダーの多くは、足では非常に巧妙にボールを扱い、自信をもったプレーを見せるのに、ボールが空中に浮くと一気に無力になってしまうのだ。

 ロングボールの競り合いに限らず、小さくボールが浮いたときも、近くに相手選手がいると日本の選手が頭で処理したボールの半数以上は、力なく相手チームの選手に渡る。足でボールを扱うときにはいくらでもパスをつなぐことができる日本選手が、ヘディングになると、とにかく前にはね返すだけで、「ボールの行方はボールに聞いてくれ」というようなプレーになってしまうのだ。
 相手チームを見ると、ヘディングも足でのプレーと同じように正確で、しかもきちんんとした判断が伴ったものであることがわかる。不十分な態勢でヘディングをしようとしている相手選手に日本選手が詰め寄っても、相手選手の頭から放たれたボールは正確に味方に渡り、そこから攻撃が続けられていく。

 オーストラリアやサウジアラビアと対戦した男子のアジアカップ、イングランド、アルゼンチン、ドイツと対戦した女子ワールドカップ、そして韓国やイランのチームと対戦した浦和のアジアチャンピオンズリーグ...。相手チームと比較した日本のミッドフィルダーたちのヘディング能力の低さは、いずれにも共通するものだった。
 ヘディングの力がクローズアップされるのは、得点に直結するゴール前の攻防だ。日本の選手たちも、そのトレーニングは十分積んでいる。クロスからのヘディングシュートやクリアだ。CKやFKの競り合いもよく訓練され、長身選手の多いチームと対戦してもなんとか対抗できるようになってきた。
 ところがミッドフィルダーたちは、そうしたボールの出し手であり、またクリアされたボールを拾う役割を負わされていることが多い。そして浮いたボールがきてもできるだけ胸などを使ってコントロールしようとする。練習でも試合でもヘディングをする機会が極端に少なく、結果としてヘディングの能力を伸ばすことができないのだ。

 国内の試合はそれでも十分間に合う。しかし国際舞台に立つと、とたんに大きな弱点であることを露呈し、本来ならしなくてもいい苦労をすることになる。
 ミッドフィルダーたちのヘディング能力を鍛えなければならない。そうでないと、せっかくの足でのプレーの優秀さが勝利につながらない。
 
(2007年12月12日)

No.676 間違いを繰り返してはならない

 「選手にはミスを犯す権利がある」
 日本代表のイビチャ・オシム監督は、私たちメディアによくこんな話をした。
 勝利をつかむために、選手はリスクを覚悟でチャレンジする。そしてときには失敗する。それは「サッカー」というゲームの一部だ。メディアが「ミスをした」と攻撃するのはフェアではない----。
 ただし、彼はこう付け加えるのも忘れなかった。
 「同じミスを繰り返したら、チームから外される」

 11月中旬に病魔に倒れ、短期間での復帰が難しいと判断されたオシム監督に代わる新監督の候補を、日本サッカー協会は岡田武史氏に一本化したという。それが明らかになった日、岡田氏の自宅に数多くのメディアがかけつけ、帰宅する岡田氏を待ち受けた。
 「またあの過ちを繰り返すのか...」。そう思わずにはいられなかった。
 94年秋、日本代表監督に就任した加茂周氏の要請で岡田氏は日本代表のコーチとなった。そして3年後の97年秋、ワールドカップ・アジア予選の最中に、日本から遠く離れたカザフスタンのアルマトイで、岡田氏は突然、監督に押し上げられた。
 苦境に陥った日本代表を立て直し、イランとのプレーオフを制して日本に初めてのワールドカップ出場をもたらし、そして翌年、フランスで開催された大会への準備を進めるなかで、岡田氏を苦しめたのは、家族にかかるプレッシャーの大きさだった。

 代表監督である自分の仕事をあれこれ言われるのは仕方がない。しかし家族まで監視され、私生活に影響が出るのに耐え難かったのだ。
 フランス大会開幕の直前、最終メンバーの22人を決めるにあたってカズ(三浦知良)を外したことで、岡田氏はヒステリックなまでのバッシングを受ける。岡田氏は、家族の安全を脅かす脅迫状まで受け取ったという。
 今回、ほぼ10年ぶりに代表監督に復帰する話が出たとき、岡田氏をためらわせるものがあったとすれば、この一点だったのではないか。案の定、協会が岡田氏の名前を出したとたん、メディアは大挙岡田氏の自宅に押しかけた。
 岡田氏の後を継いだフィリップ・トルシエ氏の時代にも、自宅前に報道陣が張り付くという騒ぎがあった。その後、ジーコ氏、そしてオシム現監督には、メディアとの間で大きなトラブルはなかった。しかしここにきてまた懸念される事態になりつつある。

 日本サッカー協会は日本代表監督の公私を明確にし、「私」の部分をしっかりと保護する態勢をつくる必要がある。メディアとの間で明確なルールを築き、岡田氏が安心して仕事に取り組める環境を用意しなければならない。
 ほんのわずかな準備期間で、日本代表の新監督はワールドカップ予選に臨まなければならない。困難な仕事に臨む人に、「後顧の憂い」があってはいけない。10年前の過ちを繰り返してはならない。
 
(2007年12月5日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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