「国際親善試合」が死にかけている。
コートジボワールとパラグアイを迎えてのキリンカップ。日本代表にとっては6月のワールドカップ予選4試合に向けてチームづくりの重要な機会だった。しかし来日2チームは、いずれも大幅に主力を欠いていた。
代表チームが出場する国際試合には「公式戦」と「親善試合」がある。ワールドカップやその予選、アジアカップやその予選などが主な公式戦。それ以外が親善試合だ。
サッカー史上最初の国際試合はスコットランド対イングランドの親善試合。1872年11月30日にグラスゴーで行われた。以来半世紀以上、国際試合の大半は親善試合だった。ワールドカップが始まるのは1930年のことだからだ。
かつては、親善試合にも大変な重みがあった。「20世紀最高の試合」とまで言われるイングランド対ハンガリー(1953年)も親善試合だった。当時の親善試合は、文字どおり国際親善の推進役を果たしていた。
だが現代、親善試合は重みどころか「やっかいもの」扱いだ。勝敗に大きな意味がない試合に、なぜ見返りもなく大事な選手を出さなければならないのかと、選手をかかえるクラブは不満を訴える。選手も、休むか、クラブの練習に出ていたほうがいいと考える。
この傾向は、近年急速に財力をつけ、同時に過密日程になったヨーロッパのクラブに強い。主力の大半がヨーロッパでプレーするコートジボワールのような国は、親善試合にベストチームを集めるのは至難の業だ。
国際サッカー連盟(FIFA)は、クラブの日程と競合せずに代表チームの試合を組めるよう、全世界に共通する「国際試合カレンダー」を定めた。ところがこのカレンダー自体に「親善試合軽視」の思想がある。
2014年まで決まっている「カレンダー」の考え方では、親善試合は前々日に集合して試合をするぐらいしか日程を取れない。このままでは、遠くない未来に親善試合ができなくなる恐れもある。
現代の親善試合は単純ではない。強化のために必要と組む場合もある。その一方で、カネ儲け目的が明白な試合(近年のブラジル代表が好例だ)もある。
協会財政を潤すためだけの試合では、クラブや選手からそっぽを向かれるのは避けられない。親善試合の要件や基準を明確にし、誰もが喜ぶ形で再構築することが、親善試合生き残りの唯一の道だ。
(2008年5月28日)
「資源のむだづかい--」。試合を見ながら、なんどもこんな言葉が頭をよぎった。
5月17日のJリーグ浦和対G大阪。ホームの浦和は渾身の攻めを見せたが、G大阪の守備は固く、崩しきれない。押し込んではいても、点がはいりそうなのはFKやCKなどのリスタートぐらい。その攻撃を見ながら浮かんできたのが冒頭の言葉だった。
味方がボールを受けに寄ってきてもなかなかパスが出ない。タイミングよくパスを受ける動きをしても、ボールをもった選手はその動きを「おとり」に使い、自分へのマークを外してドリブルで進もうとする。そうしたプレーが頻繁に出た結果、浦和の攻撃は相手の懸命な守備にとらえられてしまったのだ。
Jリーグレベルの試合になると、どちらのチームもある段階までは苦もなくパスを回しているように見える。しかし実際には、互いに一瞬でもスキがあればボールを奪回しようと狙っている。パスがつながっていくのは、ボールを保持した側がいろいろな仕掛けを講じて次々とパスの受け手をつくりだしているからなのだ。
その仕掛けの重要なひとつが、スペースをつくり、そして生かすことだ。たとえばマークを引き連れてひとりが動く。すると彼がいた場所が誰もいない状態になる。そこにすかさず別の選手が走り込んでパスを受ける。
ひとりでもスペースはできる。前に出る動きをしておいてマークを動かし、急に反転して最初に自分がいたところに戻ってパスを受けるのだ。
このように、スペースは攻撃側の重要な味方と言える。だが大きな問題がある。「ナマもの」と言っていいほどこわれやすいのだ。走り込みやパスが少し遅れると、あっという間に相手選手がはいってきて消してしまう。
それはあたかも電力資源のようなものだ。電力はどんな仕事でもしてくれるが、貯めておくことはできない。つくった瞬間に使われなければ、永遠に使うことはできない。
G大阪戦の浦和には、スペースをつくってパスを受ける動きをしてもそれを生かすパスがなかなか出なかった。一瞬パスが遅れたために、受け手が相手に厳しい当たりを受けることも多かった。
その原因は単純ではないのだろう。しかしスペースを的確に使えないチームが勝つのは難しい。資源は無限ではないのだから...。
(2008年5月21日)
5月21日のUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦はイングランド同士の対戦となった。イングランドのクラブ、そしてプレミアリーグは、いまや人気だけでなく実力でも世界を席巻する勢いにある。
プレミアリーグの最大の魅力はスピード感だ。プレーが止まる時間が短く、FKやCKが実にすばやく行われる。そしてJリーグとの大きな違いは、ファウルを受けて痛がっている選手をほとんど見かけないことだ。
Jリーグでは、得点を見ない試合はあっても痛がっている選手を見ない試合はない。反則を受けて倒れる。そこまではプレミアリーグも同じだ。しかしJリーグでは、倒れたままの選手が1試合に何人もいるのだ。
深刻な負傷なのかと思うとそうでもない。プレーが止められ、レフェリーが寄ってきて何か話すと、平気な顔をして立ち上がる。何割かは担架で運び出され、タッチラインの外に出るとすぐに立ってピッチに戻りたいとアピールする...。
サッカー選手であれば、子どものころから何万回もの接触プレーの経験がある。痛みが骨折などの大けがなのか、ただその瞬間痛いだけなのか、ほとんどの場合即座に判断できる。それなのに、プレーを続けられないけがではないとわかっていても、大げさに痛がって見せるのである。
その結果、Jリーグの試合はたびたび中断する。担架が1試合で何回もピッチにはいるのは、世界広しといえどもJリーグだけなのではないか。あまりに頻繁に使われるので、担架に広告を掲載しているクラブさえある。
「痛がり屋文化」の背景には甘えの精神がある。ママが優しい言葉をかけてくれるまで起き上がらない子どもと同じだ。プロのサッカー選手ではみっともないだけだ。
「痛がり屋」を見るたび、、私はイングランド代表FWオーウェンを思い出す。06年ワールドカップのスウェーデン戦、彼は左タッチライン近くでタックルを受けて倒れた。試合開始からわずか1分。ひどい負傷であることは明白だった。しかしその直後、彼は信じ難い行動を取った。苦痛に顔をゆがめながら、自ら這ってタッチライン外に出たのである。もちろん、試合は中断されなかった。
彼の負傷は、左ひざの前十字靱帯(じんたい)断裂。全治5カ月という重傷だった。
Jリーグの会場で、私は何回もこう叫ぶ。
「立て! 痛いだけだろう?」
(2008年5月7日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。