オーストリアとスイスを舞台に開催されているヨーロッパ選手権(EURO)も今晩から準決勝。大詰めだ。この大会でいま話題を独占しているのがヒディンク監督(オランダ)率いるロシアだ。
1次リーグの初戦ではスペインに1-4で完敗を喫したが、ギリシャに1-0、スウェーデンに2-0で連勝し、準々決勝に進んだ。相手はオランダ。それまでイタリアに3-0、フランスに4-1と、想像を絶する破壊力を見せてきた優勝候補の筆頭だった。
だがロシアはたじろがなかった。激しい動きでオランダのパスワークを遮断すると、持ち前の機動力を駆使し、延長の末3-1で快勝、ベスト4へと名乗りを挙げたのだ。
とにかくよく走る。それも全速力で、何人もの選手が連動して走る。スペースをつくりそれを生かす動きが次々とつながる。その結果、相手はどんなに守備組織を固めても対応できない。オランダ戦の勝負は、延長後半にはいってからの運動量の差でついた。
今回のEUROで目立ったのが、技術の高い選手が労を惜しまずに走ることだ。ロシア快進撃の立役者であるFWアルシャビンだけではない。PK戦で準決勝進出を阻まれたクロアチアのMFモドリッチも、チーム随一のテクニックの持ち主であると同時に屈指のハードワーカーだ。
準々決勝のトルコ戦、クロアチアに延長後半の先制点をもたらしたのは、味方に鮮やかなスルーパスを出した後、足を止めずにサポートし、ゴールライン際にこぼれたボールを猛ダッシュで拾ったモドリッチが上げた正確なクロスだった。
興味深いのは、アルシャビン172センチ、モドリッチ174センチと、ともに小柄なことだ。大柄な選手たち全盛の現代サッカーで、小柄なテクニシャンたちがスピードと機動力で勝負を決定づけている。そして彼らは、判断の速さ、チャレンジ精神、リーダーシップなどでサッカーに生命力を与えているのだ。
「日本人には日本人に適したサッカーがある。そのサッカーで世界を驚かせるのは不可能ではない」
かつてイビチャ・オシムはそう言って私たちを励ました。しかしそのためには賢くなければならず、かつ技術をもち、そして何よりもハードワーカーでなければならない。今回のEUROから、日本の選手たちは自分に欠けているものが何かを感じ取らなければならない。それはけっして「身長」ではない。
(2008年6月25日)
日本代表にワールドカップアジア3次予選突破をもたらしたのは「リスタート(反則などでプレーが止まった後の試合再開方法)」だった。
2月のタイ戦はMF遠藤の直接FK(フリーキック)で先制し、6月にはオマーン戦、タイ戦でCK(コーナーキック)から次々と得点が生まれた。オマーンとのアウェーゲームでは遠藤がPK(ペナルティーキック)で同点ゴールをもたらした。いまやリスタートは日本のお家芸だ。
いや、ひとつだけ苦手なリスタートがあった。ボールがタッチラインを割ったときに行うスローインだ。
G大阪のようにスローインを苦にしないチームがある一方で、多くのJリーグ・チームがぎこちないスローインを繰り返している。どこに投げるか迷っているシーンが多いのだ。日本代表も、ボールを受けた選手が個人テクニックで切り抜けられる試合ならいいが、大きな体の相手に厳しくマークされるととたんに苦しくなる。
1試合のスローインは、1チームあたり20~30本になる。それに対しパスの数は400~500本。スローインも一種のパスと考えれば、無視できない数であることがわかる。
うまくいかないチームに共通する特徴のひとつに、投げる選手が特定されていることがある。サイドバックやウイングバックなどサイドの後方の選手が専門的に投げるのだ。
ボールが出てから「専門家」が行くまでに時間がかかる。その間に相手はしっかりマークしてしまっているから、投げるところがなくなる。迷い、迷い、結局、最後尾のDFまで下げることになる。
うまいチームはボールが出た近くにいる選手がすぐに投げ、プレーをつなげていく。ヨーロッパのチームはほとんどこのタイプだ。
タッチラインの外にボールが出て試合が止まった状態から再開させるのだから、スローインも「リスタート」の一種と考えて間違いない。だがむしろ「すばやく投げて自然にプレーを続ける」と考えたほうがうまくいく。
スローインを投げ迷っていると「時間の浪費」でイエローカードを出される危険性がある。昔、こうした形でイエローカードを受けたのにまた迷い、あっという間に2枚目を出されて退場になってしまった選手がいた。
GKを除けばサッカーで唯一手を使うことができるスローイン。だからといって使い方を考えないと、勝利は遠のいてしまう。
(2008年6月18日)
サッカー選手とは旅をする存在―。そんな言葉が浮かんだ。
ワールドカップ予選を戦う日本代表を追ってオマーンからタイへと回ってきた。オマーンの首都マスカットからバンコクまでは日本代表と同じ、試合翌日の深夜便だった。早朝バンコク空港に到着すると、選手たちは何ごともないように自分の荷物をピックアップし、ホテルに向かうバスに乗り込んでいった。
6月にはいって2日に横浜で会心の試合を見せてオマーンを撃破し、その翌日夜には日本をたってUAE経由でオマーンにはいった。そして猛烈な暑さのなか7日に1-1で引き分けると、また翌日は深夜の移動。わずか1週間のうちにハードな試合を2つこなし、機中泊も2回という厳しい日程だ。
選手たちの日常も、所属クラブの日程に合わせて試合と移動の連続となる。
「昨年1年間、自宅より、遠征先などのホテルで眠ることのほうが多かったですね」
そんな話を、ひとりの日本代表選手から聞いたことがある。旅から旅への生活でもしっかりと自己管理できる選手でなければ、代表選手どころか、プロにもなれないのだろう。
四半世紀近く前に、アルゼンチンの名門インデペンディエンテの遠征に同行したことがある。ブエノスアイレスから北西へ約300キロのロサリオへの遠征。飛行機なら1時間だが、空港での待ち時間などを選手たちがいやがるので、バスでの遠征だという。そのバスに同乗してもいいと監督から言われたのだ。
バスの中はまるで修学旅行だった。冗談を言い合い、誰かをサカナに大笑いした。網棚に上がる選手までいたのには驚いた。まるで修学旅行だった。
しかし宿舎に着くと、その選手たちが打って変わったように静かになった。それぞれの部屋のキーを渡されると、言葉少なに自室にはいっていった。
子どものようなばか騒ぎも、ホテルに着いてからの静けさも、いずれも「旅」をできるだけストレスの少ないものとし、試合に向けて気力を充実させるための「仕掛け」だった。そういう術(すべ)を身につけけなければ、長いシーズンを乗り切ることなどできないのだ。
今日、宿舎での日本代表の生活ぶりを見ることはできない。しかし移動やホテルでの生活のなかですでに勝負が始まっていることを、選手たちはよく心得ているはずだ。
(2008年6月11日)
巨星逝く―。
6月2日、日本サッカー協会最高顧問の長沼健さんが亡くなった。享年77歳。まだまだ日本のサッカーに不可欠な存在だった。
1930年広島生まれ。中学時代に被爆したが幸運にも助かり、戦後、瓦礫(がれき)の中でサッカー部を再興した。そして旧制の全国中学大会(現在の高校選手権)で優勝、以後、関西学院大学、中央大学、古河電工と、日本サッカーのひのき舞台を歩き続けた。
戦争後現代に至るまで、日本サッカーのマイルストーンは、その大半が長沼さんによって刻まれたと言っても過言ではない。
60年、古河電工の中心選手として実業団に初の天皇杯優勝をもたらす。東京、メキシコの両五輪では代表監督を務め、メキシコで銅メダル。その間に日本サッカーリーグ創設に奔走し、70年代半ばには日本協会専務理事に就任、短期間で協会財政を立て直した。
Jリーグ誕生時に協会側の調整役となり、94年協会会長に就任。96年ワールドカップ招致成功、98年には日本代表を初めてワールドカップに送り出す。大会後は2002年ワールドカップ組織委員会副会長の仕事に専念して大会を成功に導いた。世界広しといえどもこれほど広範な活躍を見せたサッカー人は類がない。まさに日本サッカーの巨星だった。
「親分肌」の一方、誰に対しても接し方は穏やかだった。サッカー記者として何十回もインタビューに応じてもらったが、駆け出し記者時代にも、50代の記者になっても、長沼さんの話しぶりはまったく変わらなかった。その豊かで温かな人間性にこそ、リーダーとしての本質があった。
あるとき、こんな話をしてくれた。
「(60年代の)代表合宿所の昼休み、芝生に寝ころんで選手たちととりとめのない話をしていたとき、自分の人生でいまほど幸福な思いを味わえるのは後にも先にもないんじゃないかと思いましたね。サムライが集まって、ひとつの目標に向かって確実に進んでいる。そのなかのつかの間のやすらぎ...。その幸福感のお返しというのが、その後の私の仕事のバックボーンになっているんですよ」
ワールドカップの招致活動は地球を何周もする忙しさだった。協会会長時代には苦労も多かった。しかしけっして苦悩の表情は見せなかった。きっといま、長沼さんは、代表合宿所の昼休みのような満ち足りた静けさのなかにいるに違いない。
合掌。
(2008年6月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。