「敗軍の将は兵を語らず」という。だがサッカーには、毎週毎週「兵(兵法、自軍の戦いぶり)」を語る敗軍の将がいる。Jリーグの監督たちだ。
国際慣習に従い、Jリーグでは試合後に両チーム監督の記者会見を行う。例外はない。監督たちは試合に関する所感を話し、記者たちの質問に答えなければならない。
感心するのは「敗軍の将」たちが堂々としていることだ。答え方は人それぞれだが、大半の監督は話せる限り正直に話してくれる。本当なら1秒でも早くこんな場所から逃げたいだろうに...。
26日には、勝てば連覇に大きく前進する試合でF東京に敗れた鹿島のオリヴェイラ監督の話に感銘を受けた。
「両チームとも同じ数のチャンスをつくった。それを決める力で相手がまさっていた」
「中盤でボールを拾う力がいつもほどなかった。意識の問題かもしれないし、配置の問題かもしれない。いずれにしろ私の仕事だ」
「全般にプレーの内容は良かった。ただサッカーにはこんな日もあるということだ」
記者の質問に丁寧に答える。それによって自分たちの取り組みへの理解をファンに広めたい、同時に、記事を読む選手たちにメッセージを送りたい...。いろいろな考えがある。だが「敗軍の将」の感情を抑えた話がなければ、「勝てば官軍」のような記事ばかりになってしまうだろう。
大きな後悔がある。
93年に日本で開催されたU-17ワールドカップで私は日本側組織委の報道担当だった。NHKが日本の全試合を放映し、試合直後に日本代表の小嶺忠敏監督の短いインタビューを入れていた。小嶺監督は、長崎県の国見高校をなんども日本一に導いた名将である。
DF宮本恒靖、MF中田英寿らを含む日本代表は準々決勝に進んだが、そこで強豪ナイジェリアと当たり、1-2で敗れた。試合後、小嶺監督はインタビューを拒否した。
「オレは選手たちのところに行く」
硬い表情で言う小嶺監督を、私は止めることができなかった。その夜、ベッドにはいっても眠れなかった。
「負けたけど、日本は本当によく戦った。それをいま全国のファンに話せるのは、先生おひとりじゃないですか。お気持ちはわかりますがインタビューを受けてください」
あの瞬間、私はそう言えなかった。それは「敗軍の将」が「兵」を語ることの意味を、私自身が理解していなかったからだった。
(2008年10月29日)
「プレナスなでしこリーグ」の強豪チームTASAKIペルーレの休部、リーグからの退会が発表された。
なでしこリーグでは数少ない企業チーム。北京オリンピックで活躍したDF池田浩美をはじめとした選手たちは田崎真珠の社員である。業績悪化でチームの今後が心配されていたが、女子サッカーを熱心に支えてきた前経営陣から9月末に引き継いだ新経営陣は10月10日、今季限りでの休部を発表、4日後、リーグは退会を認めた。
頭をよぎったのは、ちょうど10年前のある「事件」だった。Jリーグ所属の横浜の2クラブ、マリノスとフリューゲルスの「合併」劇である。Jリーグがスタートを切ってわずか6シーズン目。それぞれのクラブの主要出資元だった日産自動車と全日空はまるで「子会社」の整理のように事務的に話を決めた。
98年10月29日、両社から届けを受けたJリーグは、臨時理事会を開いてこれを認めた。
最初に話題になったのは事実上マリノスに吸収されて「消滅」するフリューゲルスの選手たちの反応だった。生活の危機に立たされた選手たちは必死にクラブの存続を訴えた。だがJリーグも両企業も冷淡だった。
意外な展開は、フリューゲルスのサポーターが団結し、立ち上がったことだった。サポーターたちは全国から署名を集め、「フリューゲルスは全日空だけのものではない。地域の人びとのものでもある。Jリーグでなくていいから存続させてほしい」と訴えた。
その真摯(しんし)な訴えは社会的な衝撃となった。バブル経済がはじけた90年代前半以降、多くの企業がスポーツから撤退し、たくさんの強豪チームが消えていった。誰にも止められなかった。
しかし最終的にフリューゲルスのサポーターたちは自ら資金を集めて「横浜FC」をつくり、将来に夢をつなげた。サッカー界はこの出来事から多くのことを学び、以後、Jリーグでは消滅したクラブはない。サポーターたちの行動力と、何よりもクラブを「自分たちの不可分な一部」と思う愛情だった。
女子のリーグでも、企業が支援できなくなったとき、地域社会で支えて「クラブチーム」として残ったところがいくつもある。今回のTASAKIの件では、そうした教訓も前例も生かされなかったのは残念だった。企業が企業論理だけで動くとき、スポーツ側にもいくらでもできることがあるはずなのに...。
(2008年10月22日)
「撮ったら、1枚送ってくれ」
そう言われて逆に驚いた。90年ワールドカップ・イタリア大会の終盤、8年後の大会に立候補しているフランスがローマ市内で記者会見をした。その会場、フランス高速鉄道の整備計画のパネルの前でのことだった。
写真を撮らせてもらったのはジュスト・フォンテーヌ。58年大会の得点王である。この大会、フランスは彼の13得点の活躍で予想外の3位に躍進した。
帰国後プリントを送ると、ていねいな礼状がきた。後には4個組のピンバッジももらった。「13得点、世界記録」と、そこにはあった。1大会での13得点は、50年後のいまも破られない大記録である。だがそのフォンテーヌ、実は大会前にはサブだったのだ。
1933年にフランス領だったモロッコで生まれ、20歳のときに本土のクラブに移籍。その年にワールドカップ予選のルクセンブルク戦に出場し3得点したが、フランスが23歳以下の選手だけだったため、公式代表記録には入れられていない。
その後、58年ワールドカップを迎えるまでに4試合のAマッチに出場したがわずか1得点。ワールドカップ代表にはいったものの、ルネ・ビラールのサブと考えられていた。
しかし大会直前にビラールが負傷、出番が回ってきた。そして初戦のパラグアイ戦でいきなり3得点の大活躍でチームを7-3の勝利に導くと、3位決定戦まで全6試合で得点を記録した。西ドイツとの3位決定戦では4得点をマークした。
大会前、フランスに注目する人は少なかった。フランス・チーム自体、ユニホームは3試合分しか用意していなかったという。天才MFレイモン・コパの存在はあったものの、つくったチャンスをゴールに結びつける選手なくしてこの成績はありえなかった。サッカーとは、プレーの質を競う競技ではなく、つまるところ、得点の数を争う競技だからだ。
今夜、日本代表はワールドカップ予選の重要な一戦をウズベキスタンと戦う。試合内容が良くなってきた「岡田ジャパン」。しかし勝負を決めるのは得点の数だ。この試合に限らず、いきなりゴールを量産する「救世主」が出てこないかと、いつも思う。そうなれば日本のサッカーは一気に世界に飛翔する。
フォンテーヌのような天才が、日本のどこかにいないとは限らないと思うのだが...。
ジュスト・フォンテーヌ
(2008年10月15日)
Jリーグ、ジェフ千葉のアレックス・ミラー監督(58)は、もしかすると当惑しているかもしれない。
5月8日、ミラー監督が就任した時点でJリーグはすでに11試合を消化し、千葉は2分け9敗、勝ち点はわずか2だった。しかし5カ月後には28試合で9勝6分け13敗。総合では14位ながら、その間の17試合だけなら9勝4分け4敗、勝ち点31は第3位にあたる。
9月以降は5連勝。そのなかには名古屋、浦和という首位争いのチームに対する勝利もある。8月にはG大阪にも勝っている。
夏以降に獲得した深井正樹とミシェウ(ブラジル人)の両MFの活躍は大きい。深井は名古屋戦で決勝点、浦和戦では2得点を挙げた。しかしそれ以外には、基本的に今季はじめからいた(11試合でわずか勝ち点2の)選手たちである。
ミラー監督の指導で急に能力が高まったりテクニックがついたわけではない。革命的な戦術を身につけたわけでもない。
チームの戦い方は至ってシンプル。基本システムは「4-2-3-1」。相手ボールになると、ハーフライン近辺に、1トップの巻、トップ下のミシェウを除く8人で4人2列の「ブロック」をつくる。そして相手がはいってくると猛烈な勢いでプレスをかける。相手1人に、2人、3人の千葉の選手がからむこともある。そして奪ったボールからダイレクトに相手ゴールに攻め込むのだ。
このシンプルな戦術が優勝争いの強豪を倒す力につながるのは、個々の選手が自分自身の力を余すところなく発揮しているからにほかならない。
競り合いのとき、選手たちはけっしてひるまない。ただマークするだけでなく、「絶対にボールを奪う」という強い決意で向かっていく。それがピッチの全面で90分間続けられることが現在の千葉の最大の力なのだ。
ミラー監督はスコットランド人。99年からイングランドの強豪リバプールでコーチを務めてきた。イングランドでは選手が練習や試合で自分の力を出し尽くすことなど当然に違いない。その当然のことを求め、選手たちが実行したただけで、Jリーグではどんな相手にも勝てるようになる―。その事実に、ミラー監督自身が驚いているのではないか。
千葉の快進撃は、サッカーという競技の「基本」をあらためて思い起こさせる。同時に、現在のJリーグや日本サッカーへの強烈な警告でもある。
(2008年10月8日)
国際サッカー連盟(FIFA)がほっと胸をなでおろしている。エメルソンの問題だ。
そう、01年から05年にかけて浦和で大活躍したブラジル人ストライカーだ。05年7月に突然カタールのアルサードに移籍、サポーターを失望させた。
そのエメルソンがことし3月26日にドーハで行われたワールドカップ・アジア3次予選のイラク戦にカタール代表としてフル出場、2-0の勝利に貢献した。カタールがイラクを出し抜いて4次予選に進出できたのはこの勝利のおかげだった。
エメルソンは06年10月にカタール国籍を取得したが、99年にU-20ブラジル代表で南米選手権に8試合出場した記録があった。浦和在籍中にも「エメルソンを日本人に」という動きがあったが、この記録のために断念を余儀なくされていた。
しかしことし2月、3次予選の初戦でオーストラリアに0-3の完敗を喫して追い詰められたカタールは、3月4日のバーレーンとの親善試合で初めてエメルソンを起用、3次予選2戦目のイラク戦にも出場させて決定的な勝利を得たのだ。
当然、イラクは「カタールは出場資格のない選手を出場させた」とFIFAに訴えた。
しかしFIFAは、エメルソンにはカタール代表になる資格がないことを認めながら、試合結果は変わらないという決定を下した。
FIFAには「出場資格のない選手を出場させた場合、相手チームに勝ち点3を与える」というルールがある。しかし当該国はそのための抗議を試合後24時間以内に行わなければならず、同時に調査費用をFIFAに支払わなければならない。ところがイラクサッカー協会が費用を送金したのは期限の11日後だった。したがって「抗議」自体が成立せず、試合結果は変わらないとしたのである。
あきらめきれないイラクはスポーツ仲裁裁判所(CAS=本部スイス)への仲裁申し立てを行ったが、9月29日、CASはFIFAの言い分を認め、「試合はそのまま成立」という結論を出した。
すでに4次予選がスタートし、カタールが2試合も消化してしまっているいま、3月の試合結果をひっくり返すことは大きな混乱を招く。しかし出場資格がないことが明白なエメルソンを強引に代表で使ったカタール協会に何のとがめもないのは、どう考えてもフェアではない。
今後同様のことが起こるのを防止するためにも、FIFAはカタールを何らかの形で罰する必要がある。
(2008年10月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。