「ナビスコ杯を23歳以下の大会にしたらどうか―」。日本サッカー協会の犬飼基昭会長の発言がJリーグを困惑させている。
「ナビスコ杯」は正確には「Jリーグヤマザキナビスコカップ」。Jリーグが通年のリーグ戦と並行して開催している「リーグカップ戦」で、Jリーグの「第2の大会」と位置づけられている。
92年、正式にJリーグがスタートを切る前年に第1回大会が行われ、この年のナビスコ杯の盛り上がりが翌年のJリーグ人気に火をつけた。Jリーグにとって、その歴史のなかで大きな位置を占める重要な大会である。
ただここ数年は日本代表選手を欠く日程での開催も多く、問題点も指摘されている。リーグでの残留争いのため、ナビスコ杯で主力を温存する例も多く、難しい状況にある。
犬飼会長は協会のトップに就任する前にはJリーグ専務理事の職にあった。当然、Jリーグの事情や実情は熟知している。
発言の真意は、問題点を踏まえ、若手の強化育成に目的を特化したらどうかということだったに違いない。しかしJリーグは協会の傘下にはあっても独自の予算で事業を行う独立の組織である。そこが難しい。
実は、もう何年も前からJリーグは「23歳以下の大会」を検討してきた。高校時代には年間50試合もこなしてきた選手たちが、Jリーグにはいるとごく一部の例外を除いて10試合足らずになってしまう。最も伸びる時期にこの状況は大問題だ。
そこで、「サテライトリーグ」を23歳以下の大会にしようという案が出た。現状ではけがから回復した選手の「リハビリ」などに使われている「サテライトリーグ」。そこに年齢制限を設けることで強化育成の場にしようという案だった。
だが実現は見送られた。「趣旨には賛成だが、参加するにはそのための選手を新たに雇用しなけばならない」という事情が一部のクラブにあったためだ。
99年に横浜フリューゲルスが消滅した後、クラブ財政の健全化はJリーグの最優先課題だった。努力が実ってここ数年、クラブ運営は安定してきた。だが「23歳以下」を強行すれば再びクラブ財政を圧迫する恐れがある。
「23歳以下」の方向性そのものが間違っているわけではない。だがその実現にはクリアしなければならない課題がいくつもある。丹念にひとつずつ問題を解決し、辛抱強く改革に取り組むことが何より大切だ。
(2008年11月26日)
ペルシャ湾に突き出した半島の国、カタールの首都ドーハに来ている。もちろん、今夜(日本時間午前1時半キックオフ)のカタールとのワールドカップ予選取材のためだ。
「ドーハ」というと日本のサッカーファンなら「悲劇」という言葉が浮かんでしまうだろう。93年10月にここで開催された94年ワールドカップ・アメリカ大会のアジア最終予選で、日本はワールドカップ初出場まであと数十秒のところまで迫りながら、ロスタイムにイラクに同点ゴールを許して掌中の「夢」をつかみそこねた。
それから15年。日本は98年にワールドカップ初出場を果たし、以後自国開催を含めて3大会連続出場してきている。それだけではない。女子を含むあらゆる年代、そしてクラブサッカーで、日本はアジアの「巨人」となり、敬意を払われる存在となった。「悲劇」をバネに、この15年間に日本サッカーが成し遂げた進歩と、その背景にある努力は、誇るに足るものだ。
だがアジア自体も15年前とは大きく様変わりしていることを忘れてはならない。15年ぶりに訪れたドーハも、建設ラッシュで街全体が活気にあふれ、前回とはまったく印象が違う。
カタールという国自体、あの「ドーハの悲劇」の時代とは政権が違う。95年に無血クーデターが起こり、当時のハリーファ首長(国王)を追い落としてハマド皇太子が元首となったのだ。石油や天然ガスに頼るばかりだった前首長に比べ、現首長は将来を見据えて観光産業に力を入れている。それがドーハの活気につながっている。
国が変わり、都市の雰囲気が変わるなかで、サッカーも変ぼうを遂げようとしている。現在のカタール代表チームの主力の半数は南米やアフリカ出身で、ここ数年の間にカタール国籍を獲得した選手たちだ。15年前には想像のつかなかった状況が生まれているのだ。
オセアニアサッカー連盟に属していたオーストラリアが06年にアジアの一員となり、日本、韓国、サウジアラビア、イランといった「アジアサッカーの巨人たち」の一角を脅かし始めている。カタールだけでなく、バーレーン、UAEといったアラビア半島勢も急速に力をつけている。
「盛者必衰」は平家物語だけの理(ことわり)ではない。心して「おごり」を廃し、高い志を持ち続けていくことの大切さを、15年ぶりのドーハで強く思った。
ドーハ展望
(2008年11月19日)
完敗だった。
11月8日にダンマン(サウジアラビア)で行われたU-19アジア選手権の準々決勝で、日本は韓国に0-3で敗れた。その結果、来年エジプトで開催されるU-20ワールドカップへの出場権を逃した。2年ごとに開催されるこの世界大会、日本が出場できないのは16年ぶりのことだ。
90年代前半までは、どの年代も世界大会の予選をクリアできなかった。最初に「アジアの壁」を突破したのは94年のU-19だった。
それは日本サッカーの「飛躍の時代」へのファンファーレだった。96年には28年ぶりのオリンピック出場を果たし、98年にはワールドカップ初出場。以後、日本は20歳以上のすべての世界大会にチームを送り出してきた。
ここ数年は、高校受験で強化が難しかったU-17も、そして女子の全カテゴリー、フットサルやビーチサッカーでも、アジア予選突破が続いている。
だが実際には、「アジア予選」は、これまでもけっして簡単なものではなかった。そのときどきの選手たちの「世界に出たい」という燃えるような情熱だけを頼りに突破口を開いたときもあった。
今回のU-19は力がなかったわけではない。1次リーグでイラン、サウジアラビアと同じ「死の組」にはいりながら無敗で首位突破。しかし準々決勝では韓国の出来がすばらしく、後半なかばまでハーフラインさえ越えられない状況。3点で止まったことさえ幸運な試合だった。
この日の日本は積極性に欠け、ミスも多かった。主力の選手2人を日本代表やJリーグとの関係で欠いていたことも気の毒だった。敗因はいくらも分析できる。しかし一発勝負では、こうした結果はいつでも起こり得た。
U-20ワールドカップに出場できないこと自体は大きな問題ではない。選手たちがこの苦渋を忘れずにこれからがんばればいい。
大事なのは、この敗戦から日本のサッカー界が何を学ぶかだ。何よりも、どんな試合でも相手をリスペクトし、自分自身の力を最大限に発揮することの大切さを、少年時代から伝えていかなければならない。
「アジア予選」は、けっして「勝って当たり前」ではない。死力を尽くして向かってくる相手に、日本が同じような気持ちで立ち向かえなければ、どんな結果でも起こり得る。
来週カタールとワールドカップ予選を戦う日本代表。U-19の敗戦を「他山の石」としなければならない。
(2008年11月12日)
東京ヴェルディの緑とサンフレッチェ広島の紫で埋まったスタンドからは、最後までパワフルな応援歌が絶えることはなかった。11月2日、天皇杯4回戦が行われた西が丘サッカー場は、Jリーグ勢同士の対決に沸いた。
西が丘サッカー場は東京・北区の住宅地の真っただ中にある。現在は国立スポーツ科学センターとナショナルトレーニングセンターの巨大なビルが隣接しているが、かつて、この収容1万人の小さなスタジアムは、同敷地内にサブグラウンドと体育館をもつ、質素なスポーツ施設だった。
1972年、東京とメキシコの両五輪に続くサッカーブームが去ったころに完成、以後日本サッカーリーグの主要スタジアムのひとつとしてたくさんの試合を見守ってきた。日本代表のワールドカップ予選が、この質素なスタジアムで行われたことさえある。
質素だが、サッカーを「見る」人びとにとってこれほどすばらしいスタジアムはない。観客スタンドが、ゴールライン、タッチラインと平行に四方に設置され、なによりピッチと観客席が近いのだ。一方のゴール裏のスタンドなど、ゴールの上に覆い被さっているのではないかと感じられるほどだ。指示をかけ合う声だけでなく、選手たちの荒い息づかいさえ聞こえるのだ。
サッカースタジアムの「原形」は、ピッチの周囲を高さ1メートルほどの「柵」で囲ったものだろう。観客はその柵にもたれるように立って観戦し、声援を送り、また野次を飛ばす。イングランドでは、近代的な巨大スタジアムでもこうした一体感が濃厚に残っている。
ただの柵から階段式のスタンドになり、そこに椅子が置かれ、さらに屋根がつけられたのが「スタジアム」というものなのだ。
だが現代のスタジアムの多くは、ピッチとスタンドの一体感は二の次になっている。観客同士のトラブル、観客のピッチへの侵入や危険物の投げ入れを防止するために、高い壁や広い「濠(ほり)」で互いに遠ざけられてしまっているのだ。安全は何にも優先すべき要素だが、それがサッカー観戦の喜びの大きな部分を奪い去っているのは間違いない。
これからスタジアムをつくろう、あるいは改修しようというときには、いちど西が丘での観戦を体験してみたらいいと思う。ピッチとスタンドの一体感、観客として感じるものの多彩さを、近代的で安全なスタジアムのなかにもぜひ取り入れてほしいと思うのだ。
(2008年11月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。