サッカーの話をしよう

No.754 サッカー史上最も有名なメモ

 「これがそのときのメモです」。示されたのは、意外なほどに小さな紙きれだった。
 先月、ドイツのミュンヘンで「国際ゴールキーパーコングレス」が開催された。その冒頭、06年ワールドカップ時のドイツ代表GKレーマンが、GKコーチのケプケと「サッカー史上最も有名なメモ」を紹介した。
 06年ワールドカップ準々決勝、ドイツ対アルゼンチンは1-1のまま120分間を終えた。そしてPK戦、レーマンは2本のキックをストップし、一躍ヒーローとなった。
 紹介されたメモは、PK戦の直前にケプケからレーマンに手渡された。相手選手名とPKの傾向が簡単に記されてあった。ドイツ・チームの前夜のホテルの薄黄色のメモ用紙。ケプケが鉛筆で走り書きしたものだった。
 後攻のアルゼンチン選手が出てくると、レーマンはグローブをしたまま右足のストッキングに入れたメモを取り出し、ピッチのなかの選手たちから隠すようにすばやく見た。
 1番手のクルスは、ケプケのメモどおり、長い助走から右にけってきた。止めることはできなかったが、レーマンの右手はもう少しで届くところだった。これを見てアルゼンチンは神経質になった。
 2番手はアジャラ。メモには「待ち長く、長い助走、右」とあった。レーマンはぎりぎりまで待った。ボールは左にきたが、コースが甘く、倒れ込んで簡単に押さえた。
 3番手が決めた後、アルゼンチンの4番手はカンビアッソだった。先攻のドイツは4人すべてがキックを決めていた。レーマンはもう隠す様子も見せずにメモをゆっくり開き、確認するようにもういちど開いて見た。
 カンビアッソの左足から放たれたキックは左に飛んだ。レーマンは正確に反応し、ボールをはじき出してドイツの準決勝進出を決めた。
 試合後、このメモの存在が話題になった。だがその内容が公にされたのは、先月が初めてのことだった。
 実は、メモには8人の名しかなく、そのうち実際にけったのは3人にすぎなかった。4番手のカンビアッソの名前はなかった。
 メモの内容だけでなく、その存在そのものに大きな力があった。そしてメモの内容が明らかになったことで、レーマンは評価を再び高めたのである。
 ふたりはこのメモをオークションに出し、100万ユーロ(約1億3500万円)を、恵まれない子どもたちのための基金にそっくり寄付したという。


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史上最も有名な「メモ」


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メモを見せるケプケ・コーチ(左)とレーマン(右)
 
(2009年7月29日)

No.753 ベロンとエストゥディアンテス

 7月16日、ラプラタ市の中央にある300メートル四方の広大なモレノ広場は、実に30万もの人びとで埋め尽くされていた。アルゼンチンの首都ブエノスアイレス市の南東約60キロに位置する人口70万人のラプラタ。広場に面した市庁舎のバルコニーに大きなカップをもった選手たちが現れると、広場は猛烈な歓声に包まれた。
 大歓声のなかで、南米クラブ選手権「リベルタドーレス杯」を制覇したばかりのエストゥディアンテス主将フアン・セバスチャン・ベロンは、隣に立つ父親の肩を固く抱いた。
 ベロンは現代のアルゼンチン・サッカーを代表するスターのひとりである。エストゥディアンテスで17歳のときにデビュー、20歳でアルゼンチン代表になるとともに祖国を離れ、イタリアやイングランドのクラブで数え切れないほどのタイトルを手にしてきた。
 そして06年、31歳になったベロンは、祖国に戻る時期がきたと考えるようになる。ビッグクラブから巨額のオファーもあった。しかし彼は、近年はまったくタイトルから見放されていたエストゥディアンテスへの復帰しか考えていなかった。少年時代から熱愛するクラブだったからだ。
 彼の父、フアン・ラモンも同じクラブのスターで、「魔法使い」と呼ばれていた。1968年から70年にかけてクラブはリベルタドーレス杯で3連覇を飾った。フアン・セバスチャンが生まれた75年にはその勢いはなくなっていたが、父は依然大スターとして攻撃陣を率いていた。
 息子ベロンは、自分自身がスターになって祖国を離れても、クラブを忘れたことはなかった。クラブの財政に援助し、練習場の改装やユース世代の合宿所建設の資金を自ら進んで出していたのだ。
 06年、ベロンを得たクラブは、実に23年ぶりに国内チャンピオンとなり、ことし、ついに39年ぶりで南米チャンピオンの座に返り咲いた。ホーム戦0-0で迎えたアウェーでの決勝第2戦、ブラジルのクルゼイロに先制されて苦境に立ったエストゥディアンテスだったが、ベロンが起点になった2回の攻撃で見事逆転に成功した。
 ラプラタ市庁舎のバルコニー。30万の市民にカップを掲げる息子を見上げながら、父はこうつぶやいた。
 「欧州でいくつタイトルを取っても、この子は満足しなかった。何より欲しかったのがこのタイトルであり、この場所で故郷の人びとと喜びを分かち合うことだったんだ」
 
(2009年7月22日)

No.752 所属クラブやチームを愛する心

 スコットランドのグラスゴーを飛び立った中村俊輔が横浜に着陸できず、スペインまで戻ることになったのはとても残念だった。
 セルティックとの契約を満了し、4シーズンで3回優勝という忘れられない記録を残した中村は、プロ生活をスタートした横浜F・マリノスへの復帰を熱望していた。
 「力がピークにあるうちに戻って、恩返ししたい」
 彼にとってマリノスは、中学生時代の所属クラブであり、生涯愛する「マイクラブ」でもあるからだ。
 だが日本では中村のようなケースはまれだ。海外に出た選手が年俸が下がることもいとわず、自ら希望して元の所属クラブに戻るケースは多くはない。
 海外からの復帰だけではない。日本選手には「自分のクラブ(あるいはチーム)」という意識が非常に薄いように感じられてならないときがある。
 プロとして避けて通れない移籍もある。学校を卒業すればチームが変わるのは当然だ。それでもサッカーがチーム競技である以上、ひとつのユニホーム、チームメート、そしてその周囲にいる人びとや地域への愛情や愛着があって当然だ。それが感じられないときが驚くほど多いのだ。
 最近私は、育成年代における指導にその一因があるのではないかと思い始めている。
 現代の日本の少年たちは、より強いチームでプレーすることが成功と意識づけられている。両親からか、あるいは地域の「トレセン(日本サッカー協会が広げているタレント発掘、エリート養成のシステム)」の指導者たちからか、いずれにしろ大人たちがそう意識づけている。
 その結果、自分のチームや仲間に対する意識は薄くなる。プロになっても、チームの勝利やクラブの成功より自分自身のステップアップにばかり心を砕くことになる。そのように育った選手に、代表になってから「日の丸への責任感」を説いても手遅れだ。
 所属クラブやチームを愛する心は、サッカー選手として非常に重要な要素だ。その心がなければ、「チームゲーム」としてのサッカーへの最も基礎的な理解ができないからだ。
 中村俊輔はマリノスでもレッジーナ(イタリア)でもセルティックでもファンに愛された。それは彼が本物のサッカー選手の心をもち、所属クラブへの愛情をプレーで示し続けたからだ。新たに加入したエスパニョールでも、ファンから深く愛されるに違いない。
 
(2009年7月15日)日本のサッカー, Jリーグ

No.751 ワールドカップが近づける黒人と白人の文化

 「私はサッカーには興味はなかったの」
 そう話したのは、南アフリカ、ブルームフォンテンのゲストハウス(民宿)の女主人、ヘティさんだった。
 わずか1週間だったが、FIFAコンフェデレーションズカップの南アフリカ滞在はとても楽しかった。その楽しさの最大の要因を考えてみると、ヘティさんのゲストハウスの快適さと、彼女自身の心からのホスピタリティーだった。
 ブルームフォンテンでその夜の宿泊先が見つからず、途方に暮れていた記者仲間の原田公樹さんと私は、幸運が重なってヘティさんの家にお世話になることになった。そして結局、4日間をそこで過ごすことになる。
 2人のお子さんがずいぶん前に独立し、昨年ご主人を亡くしたヘティさんは、通いメードのカトリーナさんと2人で4つの客室をもつゲストハウスを切り盛りしている。
 手入れの行き届いた前庭、冬というのに花であふれ、3匹の犬と1羽のカモが兄弟のように戯れる裏庭。おそらくかつて子ども部屋だった客室は、家庭的な温かさにあふれていた。霜が降りるほど冷え込んだ深夜、取材から戻ると、部屋には小さな明かりがともり、暖房がはいり気持ち良く暖められてあった。
 そのヘティさんがサッカーに興味を持たなかったのは、「サッカーは黒人のスポーツ」というイメージがあったからだという。
 ヘティさんは「アフリカーナー」。オランダ系の白人である。白人の間で圧倒的な人気を誇るのはラグビーで、これまではサッカースタジアムで白人の姿を見ることさえ珍しかったという。アパルトヘイト(人種隔離)が終結して15年、差別は無くなっても、黒人と白人は居住地域が分かれているだけではなく熱狂するスポーツまで別々だったのだ。
 「それがね、この大会(コンフェデ杯)をテレビで見ていて、私もすっかりサッカーが好きになってしまったの」とヘティさん。
 アフリカで初めて開催される来年のワールドカップは、地元観客の底抜けに明るい雰囲気で、これまでになく楽しい大会を世界に提供してくれるに違いないと私は思っている。しかし同時に、南アフリカという国にとっても、白人と、圧倒的多数を占める黒人の文化的融合が進み、新しい時代に向かうきっかけになるのではないか。
 「もう決めたの。来年は必ずスタジアムに応援に行くわ!」
 こう言いながら、ヘティさんは大きな体を揺らしながら笑った。


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へティさん(左)、サッカージャーナリスト原田さん(右)
 
(2009年7月8日)

No.750 歴史に残る楽しい大会に?

 先月ワールドカップ予選の取材でメルボルンに行ったとき、2018年と22年のワールドカップ招致活動が予想外に盛り上がっているのに目を見張った。話題は「決勝戦はシドニーかメルボルンか」というところまで煮詰まっている。
 日本サッカー協会も同じ大会への立候補を発表している。しかし来年の12月には開催国が決まるというのに、まだ具体的な活動は始まっていない。
 「仮にオーストラリア開催に決まったとしても悪くないかな」と思った。人びとが親切で友好的で、滞在していて非常に気持ちが良かったからだ。共同開催による問題があった02年「日韓大会」が世界中から称賛された最大の要因は両国の人びとの笑顔と親切さだった。オーストラリアにも同じような「ホスピタリティー」がある。
 そうした論理から言えば、南アフリカもワールドカップ開催の資格が十分ある―。オーストラリア戦後に取材したFIFAコンフェデレーションズカップで南アの各地を回りながら、強く感じた。
 正直、行く前には少し恐かった。治安の悪さが喧伝されていたからだ。しかし聞くと見るのでは大違い。たしかに時間や場所によっては危険もあるに違いない。滞在中、ラグビーを見に来た英国人ファンが強盗に襲われるという事件も起きた。しかし私の周囲では、危ない思いをしたという話は皆無だった。
 何より人びとのホスピタリティーがすばらしい。「南アフリカにようこそ」という空気が、国全体に満ちあふれている。大会関係者だけではない。宿泊施設などで働く人、商店の人、町を歩く人...。多くの人が、人類最大のスポーツの祭典が自国で開催される誇りと喜びを、体いっぱいに表現していた。
 もちろん問題がないわけではない。とくに宿泊施設と国内交通手段の不足は、ことしのコンフェデ杯とは比較にならない規模になるワールドカップでは大きな混乱を引き起こす危惧(きぐ)がある。
 だがそれでも私は、今回の滞在中、「南アフリカ2010」が歴史に残る楽しい大会になるのではないかという思いを強くした。
 強盗に襲われた4人の英国人ラグビーファンは、帰国せずに観戦を続け、「その後に受けた親切があまりあるものだったから」と理由を語った。
 南アフリカの、いやもっと広くアフリカの人間味あふれる人びととの出会いは、現代の世界を変える力さえもっているように思う。
 
(2009年7月1日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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