「クラブカラーの神聖さをけがすものであり、禁止とする」
1928年8月末、イングランド・サッカー協会(FA)とイングランド・リーグ(FL)が、傘下の4クラブに通達を送った。禁止されたのは「背番号」だった。
「観客がもっと選手の区別をしやすいようにしよう」
アーセナルのチャップマン監督の呼び掛けに応え、シェフィールド・ウェンズデー対アーセナル、チェルシー対スウォンジーの2試合で、選手たちが背番号をつけてプレーした。ホームチームが1番から11番、ビジターが12番から22番だった。
サッカーのみならず今日のスポーツに不可欠な背番号。しかし最初から使われていたわけではない。サッカーで記録に残る最初の背番号使用例が、1928年8月25日にその4クラブが出場したFLの試合だった。
いちどは禁止された背番号。再び登場したのは5年後、33年のFAカップ決勝のことだった。ラジオ放送のコメンテーターを助けるためだった。やはり1から22の「通し番号」がつけられた。
ようやくFAとFLが全試合で背番号をつけることを決めたのが1939年。しかし第二次世界大戦の勃発でそれどころではなくなり、背番号つきのリーグが始まったのは戦後の46年のことだった。
このときには両チームがそれぞれ1番から11番をつけた。そしてGKが1、「フルバック」が2と3、「ハーフバック」が4から6、そして「フォワード」が7から11という今日に続く背番号のイメージができた。
ちなみに、日本に背番号の習慣が生まれたのは1930年代の初めだった。ただ、最初は左ウイングが1番、以下FWが5番までつけ、ハーフバック、フルバックと番号が増えていってGKは11番をつけていたと、故・高橋英辰さん(日本代表や日立などで監督、後に日本サッカーリーグ総務主事も務める)から聞いたことがある。
おもしろいことに、今日もサッカーのルールには背番号に関する規定はない。「つけなければならない」という決まりもない。背番号は、それぞれの大会規定によって定められているだけなのだ。
今日では、背番号はポジションではなく、選手個人を示すものとなった。そして選手のイメージと背番号は不可分なものとなった。それぞれの背番号にはそれぞれの物語がある。だが背番号そのものにも、興味深い「誕生物語」がある。
(2009年8月26日)
「まだミスしていない人がいるぞ!」
練習試合の半ば、相手チームのコーチがこんなことを叫んだ。
「安全なことばかりしていないで、もっとチャレンジしよう!」
なるほどと思った。とても大事な指摘だ。そして急に、好きな映画の1シーンが頭をよぎった。
『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』というアメリカ映画。盲目の退役軍人である主人公(アル・パチーノ)が、出会ったばかりの若い女性にタンゴを教えようと申し出るシーンである。
「間違えるのがこわい」と尻込みする女性に主人公はこう言う。
「人生と違って、タンゴでは間違えるということはない」
「もし間違って足がからまっても、踊り続ければいい」
私は、「サッカーはミスのゲーム」と思っている。「果てしなく続くミスのゲーム」と言い替えてもいい。シュートを打ってもゴールの枠をとらえられるのは3本に1本程度。ドリブル突破の試みはタックルに阻まれ、単純なつなぎのパスさえインターセプトされる。試合のなかでパスが20本以上つながることなどまずない。
日本のサッカーのレベルが低いためではない。世界のどんなレベルのサッカーを見ても、UEFAチャンピオンズリーグやワールドカップでも、選手たちは頻繁にミスを犯す。
逆に言えば、ミスがあるという前提で「プレスをかける」という積極的な守備が生まれ、試合が緊迫感をもったものになる。ただ自陣に引き下がるのではなく、果敢にボールを奪いに行こうと動く。そこで奪えなくても、次の選手がパスの出先に激しく詰め寄る。ミスの存在こそサッカーの生命力と言っていい。
ところがコーチたちは極端にミスを嫌う。もちろん集中力不足のミスは避けなければならないが、果敢にチャレンジした結果のミス(ミスと言えるかどうか)まで非難するコーチがいる。コーチのみならず、味方選手のミスに対しあまりに不寛容な選手も多い。
「失敗は悪」という文化が、私たちの社会にはある。だがそれで安全第一のプレーに走るより、ミスを恐れずに果敢にプレーするほうが確実に伸びる。そしてサッカーがより楽しくなる。
サッカーが「ミスだらけのゲーム」であるなら、逆手を取って、「ミスは存在しない」と言い換えてもいい。
「人生と違って、サッカーにミスはない。ただプレーし続ければいい」
(2009年8月12日)
南アフリカで開催されたコンフェデ杯で優勝を飾り、2年半ぶりにFIFAランキング1位の座を取り戻したブラジル。来年のワールドカップでも、6回目の優勝を期待されている。きょうは、そのブラジル代表のユニホームの話をしよう。
黄色いシャツの袖口と首回りを濃い緑でフチ取り、水色のパンツ、白いソックスというユニホームは、ブラジル代表のシンボルであり、世界で最も有名なセットに違いない。
だがブラジルは最初からこのセットを使用していたわけではない。1914年に最初の試合をしたころから35年以上も、ブラジル代表といえば白のユニホームだったのだ。
転機は地元で開催された50年ワールドカップだった。リオデジャネイロに20万人収容のマラカナン競技場が建設され、初優勝の期待が高まった。だがブラジルは最終戦でウルグアイに逆転負けを喫する。何人もがショック死したという「マラカナンの悲劇」だ。
選手たちに、監督に、そして協会にと非難が集中するなかで、全身白のユニホームまでやり玉に挙げられた。
「まったくブラジルらしさがない」
そこでリオデジャネイロの新聞社「コヘイオ・ダ・マニャナ」が53年に新ユニホームのデザイン募集をした。ブラジルの国旗で使用されている4つの色、緑、黄色、青、白をすべて使うことが条件だった。ちなみに、国旗の緑は森林資源、黄色は鉱物資源、青は夜空、白はそこに描かれた星を示している。
小学生からプロまで、膨大な数の応募作品が集まった。50年ワールドカップの公式ポスターを制作した有名デザイナーは、全身緑に近い案を出した。だが栄冠を射止めたのは、アルジル・ガルシア・シュレーという名の19歳のイラストレーターの作品だった。
54年3月14日、初めてこのユニホームを着たブラジル代表は、マラカナンでチリを1-0で下した。そして4年後には、スウェーデンで念願のワールドカップ初優勝を果たす。以後、ブラジルは「カナリア軍団」で通すことになる。
ただ、ワールドカップ優勝の瞬間を黄色いシャツで迎えるには、さらに4年後のチリ大会まで待たなければならなかった。58年大会の決勝の相手は黄色いユニホームの地元スウェーデン。困ったブラジルはストックホルム市内で青いシャツを買い求め、黄色いシャツから切り取ったエンブレムを縫い付けてこの試合に臨んだという。
(2009年8月12日)
「私が求めているのは『11番目』のフィールドプレーヤーだ」
イビチャ・オシムさんに、どんなGK(ゴールキーパー)が必要かと聞くと、こんな答えが返ってきた。
先週紹介した「国際GK会議」(6月26日、ミュンヘン)でも、GKの役割がわずか十数年間で大きく変わったことが強調された。
92年の「バックパスルール」で、GKは味方のパスに対しては手を使えなくなった。
「新ルールと、DFラインの押し上げがさらに増すなかで、GKは自分のゴールから30メートルも前までの地域をカバーしなければならなくなった」と語るのはドイツのアンドレアス・ケプケである。
かつてGKの守備範囲はゴールから16.5メートルのペナルティーエリアラインまでだった。その中なら手を使うことができるからだ。ケプケの言葉は、そこから大きく出て、「リベロ」のようにプレーしなければならないことを示している。
その結果、現代のGKはプレーの85%を足を使って行うようになったと、ヨルグ・シュティール(スイス)は説明する。そして1試合で走る距離も、7~8キロになったという。90分間で走る距離はフィールドプレーヤーで10~12キロと言われている。GKは、以前はせいぜい3~4キロだった。それが倍になったというのだ。
過去10年間、日本代表のゴールは川口能活と楢崎正剛の2人で守ってきた。ある調査によると、平均の走行距離は川口が5・4キロ、楢崎が5.2キロだという。川口は06年9月のイエメン戦(サヌア)で7.4キロも走った。圧倒的に攻め込んだ試合。川口は大きく上がったDFラインの背後を幅広くカバーしたのだ。楢崎も、ことし3月のバーレーン戦では6・3キロ走った。
現在世界で最も優れた「11人目のフィールドプレーヤーとしてのGK」は、マンチェスター・ユナイテッドで活躍するオランダ代表のエドウィン・ファンデルサールではないか。ペナルティーエリアの左で味方からバックパスを受けて大きく右に展開すると、彼はそのまま自然にゴール前を横切ってエリアの右に移動し、パスを受けた選手が困ったら再びバックパスを受けられる備えをする。
サッカーのなかで役割が最も劇的に変わりつつあるGK。そのプレーを研究し、新時代の指導方法を探ることは緊急の課題だ。「国際GK会議」は、来年7月31日にスイスのチューリヒで第3回目を開催するという。
(2009年8月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。