「昨日のパフォーマンスで明日の勝ち点を得ることはできない」
9月19日、アウェーながら強豪川崎フロンターレに2-0で勝った後の記者会見を、浦和レッズのフォルカー・フィンケ監督はこんな言葉で締めくくった。そして、「それがある意味でサッカーのすばらしいところだ」と付け加えた。
大昔、1972年元日に決勝戦が行われた第51回天皇杯で、不思議な現象を見た。
決勝戦は三菱対ヤンマー。年末の準決勝では、日立に2-1の辛勝だった三菱に対し、ヤンマーは八幡に7-1で圧勝した。エースの釜本邦茂がひとりで4点を叩き出し、ネルソン吉村らが次々と守備を破って得点を重ねるヤンマーの攻撃を止めることは不可能とさえ思われた。
ところが決勝戦、三菱はヤンマーの攻撃を釜本の1点にとどめ、3-1で快勝してしまったのだ。「準決勝で大勝すると決勝は勝てない」。そんな鉄則があるのではないかと、当時、漠然と感じた。
それから何十年間もサッカーを見続け、その感覚は「確信」に近くなった。00年元日の天皇杯では、準決勝で7-2と大勝した広島が決勝戦では名古屋に0-2で完敗した。ワールドカップでも、大勝した次の試合で思わぬつまずきをするチームをよく見る。
狙いどおりのプレーで相手の守備を崩し、シュートを打てばことごとくネットに吸い込まれる―。それは選手やチームにとって夢のようなことであるに違いない。しかしそこに落とし穴がある。
次の試合で対戦するチームは当然警戒のレベルを上げる。それに対し大量点を取ったチームには、自信も生まれるが、それは「過信」と紙一重でもある。そして気のゆるみもできる。だから「大勝の後は危ない」のだ。
「大勝」を「快勝」と置き換えてもいい。川崎戦の浦和は攻守ともに今季最高と思えるプレーぶりだった。終盤には、7月から8月にかけての公式戦8連敗から脱したばかりのチームとは思えない自信がみなぎってくるのがわかった。
だからこそ、次の試合に集中しなくてはならない。新たな相手へのリスペクトを忘れず、もういちど前の試合を始める前の気持ちに戻って努力する必要がある。サッカーに限らず、スポーツには「謙虚さ」が必要なのだ。
フィンケ監督の自戒にもかかわらず、残念ながら翌週、浦和は川崎戦のパフォーマンスを再現することはできなかったが...。
(2009年9月30日)
日本代表がガーナと対戦した国際親善試合(9日、ユトレヒト)の平均視聴率は10.7%だったという。
日本協会の主催試合。相手国がつくった映像を受けてコメントをつけるという形はとれず、中継のTBSはたくさんの機材と20人を超すスタッフをオランダに送り込まなければならなかった。そのおかげで日本のファンは大逆転勝利(4-3)を見ることができた。
実は、きょう9月16日は、サッカーにとって「テレビ記念日」とも言うべき日である。1937年、72年前のきょう、イギリスのBBC放送が史上初の生中継を行ったのだ。ただし正式の試合ではなく、アーセナルのトップチーム対サブチームの練習試合だった。
3台のカメラを使用し、2台は両ゴール裏に置かれ、もう1台はスタンド上部の中央に設置された。アーセナル・スタジアムのメインスタンド上部からは北に約5キロ離れたBBCのビルまで見通すことができた。テレビ信号は無線で送られた。
BBCが世界に先駆けてテレビの本放送を開始して1年たらず、受像機の普及も進んでいなかった。当時は1日わずか1時間、午後3時から4時までの放送。もちろんモノクロだった。
この日の「アーセナル紅白戦」は言わばサッカーの生中継のテスト。1時間のうち割り当てられたのは、15分間だけだった。だが、「小さな画面でもサッカーの迫力を楽しむことができた」と、非常に好評だったという。
この成功に力を得たBBCは、翌年4月にはロンドンで行われたイングランド対スコットランドの国際親善試合、そしてFAカップ決勝(プレストン対ハダーズフィールド)をフルで生中継する。
だが当時のサッカー界、なかでもクラブは、テレビに大きな恐れを抱いていた。生中継されればわざわざスタジアムにくる人などいなくなると考えていたのだ。驚くことに、その考え方は1980年代まで根強く残っていた。地元クラブの試合の生中継が見られるようになるのは、90年代にはいってからだ。
サッカーとテレビが本格的に結び付くには最初の放送から半世紀以上の歳月を必要としたが、いまや両者は切り離せないものとなった。「10.7%」は高い率ではないが、稲本潤一が冷静かつ正確なシュートでガーナのゴールを破った瞬間を見た人が、日本中で1000万人以上いたことになる。テレビがもつ影響力の大きさ、ファンに与える喜びの大きさは計り知れない。
(2009年9月16日)
先週土曜日にオランダ代表×日本代表戦が行われたオランダ東部のエンスヘーデ。会場の「デ・グロルシュ・フェステ」は、この町の強豪クラブ、FCトウェンテのホームスタジアムである。そのクラブショップで興味深いものを見つけた。
白黒写真のポストカード。口ひげ、長髪の見知らぬ選手だった。店員に聞くと、誇らしげな表情で答えた。
「エピ・ドロスト、『ミスターFCトウェンテ』だよ」
FCトウェンテは、エンスヘーデ市の2つのクラブが合併する形で1965年に誕生した。「トウェンテ」とはエンスヘーデを含むこの地域の名称だ。
黄金時代は70年代の前半。1部リーグで優勝争いに加わり、75年にはUEFAカップで準優勝を飾った。決勝は西ドイツのボルシアMGに屈したが、準決勝ではイタリアのユベントスを下した。そのチームの主将が、エピ・ドロストだった。
「DFだったが優雅な技術と見事な攻撃参加で非常に人気があった。なかでもロングシュートは彼の代名詞だった」(地元で40年間サッカーを見ているヤン・デブルイン記者)
66年、21歳のときにFCトウェンテに移籍、以後ほぼこのクラブ一筋で通し、合計548もの試合に出場した。34歳でいちど現役を離れたが、38歳で現役復帰し、クラブの降格危機を救った。
FCトウェンテは98年に新スタジアムを建設、08年には西側と北側に2階席を付けて収容をそれまでの倍以上の2万4000人に拡大した。来年には3万4000人、再来年には4万人と拡大する計画だという。
だがドロストはこの新スタジアムを見ることはなかった。95年5月、友人たちとサッカーを楽しんでいる最中に心臓発作で倒れ、49歳で帰らぬ人となってしまったのだ。
昨年の大改修の際、サポーターが陣取る北側2階席に大きくドロストの顔が描かれた。スタジアムに冠された「グロルシュ」は地元のビール会社の名前。改装資金を負担したことで08年に命名権を獲得したのだが、以後、ファンは「エピ・ドロスト・スタジアム」と呼ぶようになった。
「トウェンテは大クラブではないが近年はオランダで最も良質のサッカーをすると定評がある」とデブルイン記者。だがファンは現在のチームへの愛だけで生きるのではない。歴史を語り継ぎ、クラブのために奮闘した名主将の名と誇りを伝え続けることがもたらすものは小さくはない。
エピ・ドロスト
(2009年9月9日)
「ワールドカップでベスト4」などと言ったら、世界中が笑うに違いない。なにしろ、ホームで開催された02年大会を別にすれば、2大会、6試合で1分け5敗という悲惨な成績の日本なのだ。
日本にも笑う人がたくさんいる。だが、日本代表監督・岡田武史は、ことし1月、意を決してそう宣言した。
「岡田監督は目標はワールドカップ・ベスト4と語っていますが、可能でしょうか」
以来、日本代表と対戦したチームの監督会見では、必ずこうした質問が出た。通訳された質問を聞いて、外国の監督たちは一様に困惑した顔をした。そして適当なコメントでお茶を濁した。
「サッカーに不可能はないよ」云々。
「ワールドカップ・ベスト4」と言っても、日本のサッカーはその距離感さえつかめない。出場4回目。02年にはベスト16に進んだが、他の2大会では勝利さえない。常識的には「1次リーグ突破」が現実的な目標だ。それさえ世界から見れば「奇跡」だろう。ベスト4になるには、そこからさらに2試合勝たなければならない。
しかし私は岡田監督を笑う気にはなれない。いや、「それしかない」とさえ思う。
日本はアジアでは確固たる地位を築き、ワールドカップ出場自体はもはや「挑戦」ではなくなった。だが上位進出が見込めるわけでもない。大きな期待を受けた06年大会も1分け2敗だった。世界のトップクラスとの力量差、競技環境の差を考えると、1000メートルもの岩壁を見上げたときのような、途方に暮れた思いを抱かざるをえない。普通に準備して大会に臨んでも、失望を繰り返すだけだ。
だから「ベスト4宣言」なのだ。
出場権を得たことで満足せず、その上に行くんだという高い「志」を抱き、生活のすべてをワールドカップで勝つことに向けた努力に費やす―。巨大な壁を乗り越えるには、尋常ではない覚悟と努力を必要とする。
「ベスト4宣言」は「生き方」の話だ。可能かどうかを検証するものではない。問うべきは、それに向かって選手たちが毎日を生きているかどうかだ。
ワールドカップ開幕まで9カ月あまり。その覚悟が問われる絶好の機会が訪れた。今週土曜、アウェーでのオランダ戦だ。「ワールドカップ・ベスト4クラス」を相手に、日本代表はどんな戦いを見せてくれるだろうか。いまは笑われてもいい。本気で挑んでいる姿勢を示してほしい。
(2009年9月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。