「そう、このスタジアムは、新しい南アフリカの象徴として、人びとの大きな誇りになるだろう」
完成を目前に最後の仕上げにはいっているスタジアムを見上げながらそう語ると、会場総責任者のソンゲゾ・ナヨさんは少しはにかんだ表情を浮かべた。
先々週に続き、また南アフリカにきている。大会の3会場などの取材のためだ。その初日に、ワールドカップ2010年南アフリカ大会で開幕戦と決勝戦を含む8試合の舞台となるヨハネスブルクの「サッカーシティ」スタジアムを訪ねた。
ヨハネスブルクの南の郊外、金鉱を掘るときに出た土でできた巨大なテーブル形の丘のふもとに、アフリカの伝統的な壺を模した奇抜なデザインのスタジアムが建っていた。
1987年に建設された「FNBスタジアム」をほとんど壊し、同じ場所に建てなおした。8万立方メートルのコンクリートと1万7000トンもの鉄鋼を使い、4年の歳月をかけた大工事だった。
わずか20年たらずの「生命」だったが、7万人収容のFNBスタジアムは南アフリカの人びとにとって忘れられない場所だ。90年、アパルトヘイト(人種隔離)の撤廃で釈放されたネルソン・マンデラが大衆の熱狂的な歓迎を受けたのが、まさにここだった。そして96年にはアフリカ・ネーションズカップ決勝の舞台となり、国際社会に復帰して間もない南アフリカ代表が優勝を飾って大きな喜びをもたらした。
その「歴史遺産」とも呼ぶべきスタジアムをほとんど新築と言っていいほど建て直すに当たって、所有するヨハネスブルク市は「南アフリカの伝統と未来を象徴するデザインにしよう」と計画した。
大半がオレンジ色の椅子で覆われた観客席に、10本の黒いラインが描かれている。1本はドイツのベルリンを意味し、このワールドカップがどこからやってきたかを示す。9本は、南アフリカの残り9会場だ。ワールドカップが6月11日にこのサッカーシティで始まって9会場に出ていき、7月11日の決勝戦に再び戻ってくることを意味しているという。
「大きいだけではない。このスタジアムには、通信手段など世界で最新鋭のテクノロジーが詰まっている」とナヨさん。「屋根など一部の建築資材はドイツやイタリアから輸入したが、建設はすべて南アフリカの手でやったんだ」
その自信と誇りが、新しい南アフリカをつくる原動力になる。
(2009年11月25日)
「あらゆる意味でシミュレーション(模擬実験)と言える」
14日の南アフリカ戦を前に、日本代表の岡田監督はそう語った。
南アフリカの芝で、想像を絶する騒音に囲まれてプレーする。ピッチ内だけでなく空港到着からこの国を離れるまでのすべてが、来年に向けて日本代表の大きな財産になったはずだ。審判をあざむこうとする「シミュレーション」はサッカーの敵だが、こんな「模擬実験」は大歓迎だ。
チームに限ったことではない。来年、日本代表の応援に駆けつけようと考えているファンや取材を計画している報道関係者にとっても、今回の試合は絶好のシミュレーションになったに違いない。
今回、テレビ関係を除いて日本から75人もの記者・カメラマンがポートエリザベスで行われた試合を取材した。「一歩戸外に出たら命が危ない」とまで思われている南アフリカで、果敢に黒人居住地に足を踏み入れた記者も少なくない。その体験をどんな記事にするのだろうか。
「ひとから聞いたことではなく、あなた方がその目で見たものを書いてほしい」
試合前に記者会見をしたワールドカップ組織委員会のジョーダン会長は、日本を訪れた際「安全か」という質問ばかり受けたことに触れ、こう要望した。
ことし6月に南アフリカで行われたコンフェデレーションズカップを取材した後、「2010年ワールドカップは歴史に残る楽しい大会になるのではないか」と書いた。人種を問わず南アフリカの人びとの親切さや礼儀正しさなど、現代の日本では失われかけている人間性に強い感銘を受けたからだ。
「何かあったら責任を取れるのか」、「1週間ぐらいの滞在で何がわかるのか」と、それを読んだ仲間から疑念をはさまれた。
今回は日本代表を中心とするサッカー協会関係者、報道関係、ファンなど、たくさんの人びとが南アフリカを訪れ、それぞれ数日間の滞在を経験した。
試合が行われたポートエリザベスはこの国で最も安全な都市のひとつと言われている。その数日間ですべてを推し量ることは危険かもしれない。だが少なくとも百数十人が、初めての南アフリカを自分自身で体験したはずだ。その「総和」は、けっして小さくない。
ワールドカップを現地で見たい、日本代表を応援したいと考えている人は少なくない。今回の経験を、自分で見たもの、感じたことを、こうした人びとに伝えてほしいと思う。
(2009年11月18日)
「驚くべきもの」を発見したのは、07年11月14日の深夜だった。
その日、AFCチャンピオンズリーグ決勝第2戦で浦和が2-0の勝利を収め、日本のクラブとして初めて優勝を飾った。表彰式のとき、埼玉スタジアムのバックスタンドには人文字で巨大な星印が浮かび上がった。カップが渡されて歓喜が爆発する瞬間を狙って、私は小さなデジカメのシャッターを押した。
「驚くべきもの」はその1枚にあった。星印ばかりに気持ちが走り、現場ではまったく気づかなかったものがそこに映っていた。
カップを中心に歓喜のさなかにある浦和の選手から少し離れたところで、敗れたセパハン(イラン)の選手たちが横一列に並び、拍手を送っていたのだ。
奮闘及ばず準優勝に終わったが、自分たちも全力を尽くした。誰にも恥じるところはない―。「ペルシャの勇者たち」の矜持(きょうじ)が、ひしひしと伝わる光景だった。
11月3日のナビスコ杯決勝戦表彰式、初タイトルを逃した川崎の選手たちの行為が批判され、大きな問題となった。首にかけられた準優勝メダルをすぐに外すなど、目に余る行為があった。
今回の出来事は、起こるべくして起こったと、私は思っている。
記憶によれば最初に決勝戦で首にかけられた準優勝メダルを外したのは、70年代はじめのヤンマーだった。天皇杯の決勝で敗れ、よほど悔しかったのだろう、釜本邦茂主将は、メダルを外すと当時のサッカーパンツについていた尻のポケットに無造作に突っ込んだ。
決勝戦表彰式だけの話ではない。Jリーグでは、負けたチームの選手たちがなぜあんなにがっくりと肩を落とし、頭を下げているのかといつも思う。その「形」は、少年サッカーにまで共通する。
要するに「堂々とした態度で敗戦を受け入れる」という文化が、現在の日本のサッカーには欠落しているのだ。川崎の選手たちの行為もすべてはそこから発している。そしてこの現象は、裏を返せば「勝った後に慎みを忘れない」という文化の欠落も意味する。
川崎の選手たちは気の毒なほどに反省している。しかし今回の出来事で最も大事なのは川崎の非を問うことではないはずだ。試合が終わった後のあらゆる人の態度を考え直すことが必要だ。セパハンのような態度を、ごく自然に取れるようにしなければならない。
それは私たちみんなに突きつけられた課題に違いない。
(2009年11月11日)
11月14日(土)に予定されている日本代表と南アフリカ代表の親善試合会場は、二転三転の末、ヨハネスブルグ南郊の「ランドスタジアム」(3万人収容)で開催されることになったようだ。
当初はダーバンで対戦する予定だった。来年のワールドカップに向け建設した7万人のスタジアムの「こけら落とし」という晴れやかな位置づけだった。だが工事が間に合わず会場が変更された。
会場だけではない。南アフリカ代表も10月にサンタナ監督を解任し、昨年途中まで指揮をとっていた同じブラジル人のパレイラ監督が復帰したばかり。6月以来11戦して2勝1分け8敗という不振が解任の原因だった。
だがこうしたことで「来年のワールドカップは大丈夫か」と不安視するのは早計だ。南アフリカの人びとは立派な大会にしようと心待ちにし、「バファナ・バファナ(少年たち)」と呼ぶ代表チームにも大きな信頼を寄せているからだ。
南アフリカのサッカーの始まりは1860年代。ケープタウンの英国人たちがプレーしたのがアフリカ大陸最初のサッカーの試合と言われる。1892年には早くも協会(FASA)が設立された。
だがそれは白人だけの組織。厳しい人種差別の時代、非白人はスタジアムにはいることさえ許されなかった。1958年、協会は国際サッカー連盟への加盟を認められたがアフリカ諸国からの高まる反人種差別運動に押され、61年には資格停止、そして76年には正式に除名となる。
アパルトヘイト(人種隔離)が終結した91年、新たな協会(SAFA)が設立され、人種にかかわらずサッカーを楽しめるようになった。南アフリカ代表は96年に地元で開催されたアフリカ選手権で優勝を飾り、国民を歓喜の渦に巻き込んだ。
サッカーのほかラグビーやクリケットの人気が高い南アフリカだが、国民の7割を占める黒人が主にプレーするのはサッカー。それだけにワールドカップは人種間の壁を壊す役割を期待されている。
「地球上の人びとを結びつけるものがひとつだけあるとしたら、それはサッカーだ」
04年に10年ワールドカップの南アフリカ開催が決まったとき、招致委員会のジョーダン会長はこう語った。
派手に飾りつけたヘルメット姿のサポーター。耳を覆いたくなる「ブブゼラ(応援ホーン)」。カラフルで騒がしい南アフリカのサッカーが、日本代表を待っている。
(2009年11月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。