90年代に日本サッカー協会専務理事、副会長、アジアサッカー連盟副会長などを歴任された村田忠男さんが、先週金曜日、肺がんのため永眠された。77歳という若さだった。
日本のサッカーファンにとって「ワールドカップの父」とも言うべき人だった。
2002大会の招致を目指して日本サッカー協会が招致活動を始めたのは1990年のことだったが、そのけん引車役が村田さんだった。だが当時の協会は「ワールドカップ開催など夢のまた夢。日本代表が出場することが先決」という空気が支配的だった。
Jリーグ誕生前、日本のサッカーはまだマイナーの地位を抜け出ていなかった。村田さんは持ち前の笑顔で周囲を説き続け、ついには政界・財界をまき込んだ「招致委員会」の設立にこぎつけた。
そして精力的な招致活動が始まる。村田さんの功績は、南米サッカー連盟の厚い信頼を得たことだった。81年に始まったトヨタカップを通じてできたつながりを生かし、南米連盟の人びとと強いきずなをつくった。
南米連盟あるいはその役員たちに「利益」をもたらしたわけではない。村田さんの飾らない人柄と、相手のことを心底から気遣う親切が、南米の人びとの心をつかんだのだ。最終的に日本単独開催はならなかったが、南米連盟の強力な支援なくしてワールドカップ日本開催はなかった。日本の人びとが地元でワールドカップを楽しむことができたのは、村田さんの豊かな人間性のおかげだった。
その2002年大会の36年も前、村田さんは日本にひと粒の小さな種をまいた。英国のBBC放送との交渉をまとめ、66年ワールドカップ・イングランド大会の決勝戦のフィルムを日本に持ち帰ったのだ。そのフィルムは、7月30日の決勝戦のわずか8日後、66年の8月7日(日)の午後4時半からTBSで放送された。日本で初めてのワールドカップ放映だったはずだ。
その後、その放送を見たという人に私は出会ったことがない。急に決まった番組で、視聴率など微々たるものだったのだろう。だが当時中学3年生だった私は、まったくの偶然で、イングランドが延長の末西ドイツを降した試合を見た。そして雷に打たれたような衝撃を受け、夏休みが終わるのを待ちかねるようにサッカー部に入部届けを出した。
ひとりの人間の努力が社会に与える影響の大きさを思わずにはいられない。合掌。
1995年6月村田忠男さん(右)と著者 (撮影今井恭司)
(2009年12月16日)
「同じ組の他の3チームは、そろって、最も弱いのは日本と考えているだろう」
来年のワールドカップ1次リーグでの日本の対戦相手が決まった。アフリカの雄カメルーン、優勝候補の一角オランダ、そしてヨーロッパ予選で最大のセンセーションとなったデンマーク。世界のメディアは、冒頭のコメントのように、日本が決勝トーナメントに進出する可能性はほとんどないと、手厳しい。
日本国内でも「難しい組にはいった」という論評が少なくない。だがそんなことは抽選の結果を待つまでもなく明らかだった。
アジアの他の国とは同じ組にならないことは最初から決まっていた。抽選の手順が決まった時点でオセアニアおよび北中米カリブ海地区のチームとも当たらないことになった。トップシードの1チーム、ヨーロッパから1チーム、そしてアフリカあるいは南米から1チームという組では、どんな抽選結果でも世界の目から見れば「最下位候補は日本」となるのは当然だ。
オランダでは、抽選の最後の段階でくじが引かれた「ヨーロッパ枠」からポルトガルがはいらなくてよかったとの声が高いらしい。しかし日本にとってはデンマークもポルトガルも大差はない。なにしろデンマークは、予選でポルトガルに1勝1分けと勝ち越しているのだ。
対戦チームについての情報収集は重要だ。しかし「勝てるかどうか」という予想など何の意味もない。動かしようのない世界の評価を覆すために、日本代表が最大限の力を発揮できるよう、最大限の支援をしていくほかはないのだ。
現在の日本代表には明確な長所がある。中盤の正確なパスワークだ。世界に知られているのは中村俊輔だけだが、遠藤保仁、長谷部誠、中村憲剛ら、彼に劣らない力の持ち主がそろっている。日本がパスを回し始めたら、どんな強豪でもボールの奪回に苦労するはずだ。しかし世界はその真の力を認識していない。それが日本の大きなアドバンテージだ。
今後積み上げなければならないこともある。だが長所を勝利に結び付けるために最も重要なのはコンディショニングだ。初戦、6月14日のカメルーン戦で、フィジカル、メンタルの両面においていかにいい状態にもっていけるか、それが重要な課題となる。
自らの位置を明確に認識し、相手を恐れずに最大の武器を生かし切る―。日本のワールドカップの戦いは、非常にシンプルだ。
(2009年12月9日)
「準備はすべて完了しました」
今週金曜日に行われるFIFAワールドカップ2010南アフリカ大会の組分け抽選会(ファイナルドロー)の総合プロデューサーを務めるジョージ・マゼラキスさんは誇らしげな笑顔を浮かべた。
ワールドカップの組分け抽選会は、かつては小さなイベントだった。巨大なショーになったのはいつからだろうか。日本が初めて出場権を獲得した98年フランス大会の抽選会はマルセイユのスタジアムで開催され、世界選抜対ヨーロッパ選抜の試合も行われて日本の中田英寿が出場した。
しかし今回の抽選会は過去の大会をはるかに超える大掛かりな規模になるようだ。これを本格的なワールドカップのスタートと位置付け、ホストシティのケープタウンと政府を挙げての事業にしたからだ。すでに国際空港の新ターミナルが稼働し、ケープタウンは「先進都市」の顔で世界からの客を迎える。
ファイナルドローは2時間ものテレビショーだ。カメラはドロー会場の「ケープタウン国際会議場」を飛び出し、完全に自動車を締め出した「ロングストリート(都心のメインストリート)」が何十万もの人で埋め尽くされ、南アフリカの人びとがどれほどワールドカップを待ち望んでいるかを見せてくれるという。
そのすべてをプロデュースしているのが、冒頭のマゼラキスさんだ。11月26日木曜日、国際会議場の広大なDホールにはすでに間口40メートル、奥行き30メートルの美しい舞台が完成し、報道陣に公開された。
ショーは全4部で構成される。第1部は出場32チームの紹介、第2部はワールドカップの歴史(若い世代に伝え継ぐため)、第3部は南アフリカの民族舞踊などのカラフルなショー、そして最後にクライマックスの「ドロー」となる。
準備に丸1年間を費やし、ショーに使う映像素材の制作だけで実に5000時間を要したという。1200人を超すスタッフ(うち380人はボランティア)が準備と運営のために働き、万全を期して警官を含む1587人が警備に当たる。
最も気になるのはドローというショーよりも抽選結果そのものだが、日本時間で5日土曜日午前2時から4時までの2時間の生放送で、来年の大会を待ち望む人びとの気持ちの一端でも感じ取りたいと思う。ちなみに、ドローの模様は世界の約200カ国に中継され、総視聴者数は3億1500万人にのぼると推計されている。
(2009年12月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。