先週土曜日の平塚競技場。競り合いの後ピッチに倒れたままの湘南DF山口貴弘。西村雄一主審が走り寄っていく。だが湘南のドクターは西村主審の合図を待たずにピッチに走り込んだ。山口選手の様子を見た相手チーム新潟のDF内田潤が、「早くきて!」と合図をしたからだ。
「対戦相手も同じサッカーをする仲間」。迷うことなくドクターを呼んだ内田選手の態度は、見ていて気持ちの良いものだった。
開幕1カ月、Jリーグは4節まで進んだ。スペインからMF中村俊輔が復帰した横浜FMが人気を呼んでいるが、全般的には観客数は昨年とほぼ同じ。どのクラブも観戦環境の改善に努めているもののファン増加には結び付いていない現状だ。
Jリーグがスタートして17年。競技レベルは飛躍的に上がっている。しかしスタート当初と比較すると、最近の試合には「伝わってくるもの」が少ないように感じる。あの当時はどの試合にも異常なまでの熱気があった。スタジアムに人を吸い寄せたのは、間違いなくその熱気だった。
「熱気」は、選手たちの「心意気」と言い替えてもいい。毎試合毎試合、選手たちは人生をかけたようなプレーを見せていた。ひたすら相手ゴールを目指し、90分間にすべてを注ぎ込んだ。あのころファン層が一挙に広がったのは、選手たちの心意気を多くの人が感じ取ったからだった。
試合運営の努力だけでは限界がある。観客を増やすには、肝心の試合自体で、ファンの心をわしづかみにしなければならない。
何よりも、現在のJリーグにまん延している怠慢な習慣を一掃する必要がある。
CKやFKになったら、守備側も攻撃側も走ってポジションにつき、時間をかけずにリスタートする。守備もすみやかに規定の距離(9・15メートル)離れる。交代時には点差に関係なくきびきびと走って退出する。ファウルを受けてもケガをしたのでなく痛いだけならすぐに立ち上がる...。
技術も才能も必要はない。誰にもできる簡単なことだ。必要なのは、クラブやJリーグの存亡が自分自身の行動にかかっているという自覚を、選手自身がもつことだけだ。
先週土曜の湘南×新潟は、冒頭で紹介した内田選手のような成熟した人間的な判断に基づく行為とともに、相変わらずの怠慢が交錯した。ここから怠慢な習慣を差し引いたら、17年前をはるかに凌駕する、心躍る試合になるはずなのに...。
(2010年3月31日)
現代のヨーロッパ・サッカーを、アフリカ人選手抜きに語ることはできない。ポジションを問わず、アフリカ出身選手が各国のビッグクラブで不可欠な存在として活躍中だ。
最初に世界的な名声を受けたアフリカ人選手は、ポルトガルのベンフィカで活躍したモザンビーク出身のエウゼビオだった。1961年にデビュー、猛烈な得点力を見せた。
しかしエウゼビオが登場する6年も前に、アフリカからやってきてヨーロッパのサッカー界を驚かせたひとりの選手がいた。スティーブ・モコネ。「黒い流れ星」と呼ばれた南アフリカ出身のストライカーだ。だが数奇なキャリアを送った彼は、いま、サッカー史のなかで忘れられた存在になっている。
1932年ヨハネスブルク生まれ。物心つくころにはサッカーで飛び抜けた才能を示していた。弁護士にしようと考えていた父親は彼を遠くダーバンの中学に送りサッカーを忘れさせようとしたが成功せず、彼は16歳で南アフリカ代表に選ばれるまでになった。
その才能に目をつけたのがイングランドのコベントリー。父親の反対を押し切って18歳でプロ契約。彼はヨーロッパのプロでプレーする最初のアフリカ出身黒人選手となった。
天賦の才は明白だった。だがロングボール主体のイングランドでは天才を生かすことはできなかった。3年後、彼はオランダのヘラクレスに移籍する。
デビュー戦で2得点を決め、彼はオランダ西部のアルメロという小さな町のヘラクレスをオランダ・チャンピオンに導く。それからは、毎年のようにクラブを移った。フランスのマルセイユ、イタリアのトリノなど行く先ざきで彼はマジックのようなプレーを見せ、得点を重ねて「最高級のスポーツカー」と称賛された。イタリアのある専門家は「ペレに匹敵する天才だった」とまで評している。
1964年、アメリカでプレーした後に引退。大学に通い、心理学の博士号を取得、大学教授の職についたが、妻への暴行容疑で有罪判決を受け、9年間の服役を余儀なくされた時期もあった。
1955年から40年間も祖国を離れ、忘れられた存在だったモコネの功績が認められたのは1996年。彼は南アフリカのスポーツ選手を援助する財団を設立、2003年には南アフリカ政府から勲章も受けた。3月23日、モコネは「第二の故郷」となったニューヨークで、78回目の誕生日を静かに迎えた。
(2010年3月24日)
いまからちょうど60年前、1950年3月の土曜日の午後、チャールズ・リープ(48)は突然あることを思いつき、ひざを叩いた。
この日、彼はイングランド・リーグ3部のスウィンドン対ブリストルの試合を観戦していた。ひらめきが訪れたのは、ハーフタイムのことだった。さっそく彼は上着のポケットからノートと鉛筆を取り出すと、後半の開始を待った。そして熱心な調査が始まった。
リープは20年ほど務めた空軍から退役し、会計士として働いていた。生活には困らないものの平穏無事な会計士の仕事のなかで、彼は何か情熱を傾けられるものを求めていた。それがこの日、天啓のように訪れたのだ。
得点につながったパスの数を数える―。単純なことだが、思いついた者はいなかった。やがて彼は予想外の結果を得て驚く。そして論文を「試合分析」という雑誌に投稿する。
「得点が生まれたケースの85%において、パスの数は3本以内であった」
このデータに基づいて、彼は「ボールを奪ったらできるだけはやく相手ゴール前に放り込むべき」という戦術を主張したのである。
彼の主張に興味をもった者は多くはなかった。しかし数少ない例外だったウォルバーハンプトンのスタン・カリス監督はリープ発案のロングボール戦術を徹底した。そして54年に1部リーグ初優勝、58、59年には連覇を飾り、クラブに黄金時代をもたらした。
この成功はイングランド全体に影響を及ぼした。イングランド協会の技術部長であったチャールズ・ヒューズはリープの主張を発展させ、相手のペナルティーエリアに送り込むパスの数で勝負が決まると強調した。
リープのデータほどではないが、得点が生まれる状況というのは今日でも大きな違いはない。06年ワールドカップ後の日本サッカー協会の技術報告によれば、得点に至るパスが3本以内だった割合は98年が51%、02年が61%、そして06年が47%と相変わらず高い。
だがとにかく相手ゴール前にボールを放り込めというロングボール戦術など今日では過去の遺物だ。正確なパスで中盤を制し、試合を支配することが、結局は「パス3本でシュート」という状況を増やし、逆に相手にはこのようなチャンスを与えにくくすることが理解されているからだ。
データは重要なことを教えてくれる。しかしサッカーに対する大局的かつ総合的な理解からそれを使いこなすことが何より大事だ。
(2010年3月17日)
「サッカーは人間がするもの。テクノロジーには頼らない」
3月6日、サッカーのルールを決める機関である国際サッカー評議会(IFAB)はゴール判定装置やビデオ判定などを今後の検討の対象から完全に除外することを決めた。
今季ヨーロッパの大会で実験が行われている両ゴール裏の「追加副審」については、5月に特別会議を開いて実験を続けるかどうかを決めるが、どのような結論になっても、ことしのワールドカップでの起用はない。
昨年に続きことしも大きなルール改正はない。ただ、同チームの選手同士が衝突して複数の選手が負傷した場合には、ピッチ内で治療できることとした。ルールの根本精神のひとつである公平の観点からの改正だ。
さて同じ日、日本ではJリーグが開幕。私は鹿島対浦和を取材したが、逆に「大きなルール改正?」と思いたくなる判定を見た。
ことし、日本サッカー協会の審判委員会は手の不正使用の撲滅を宣言した。
近年、攻守両面で手や腕を不正に使う行為が横行している。相手のユニホームをつかむ。体を入れられそうになったら腕で押しのける。抜かれそうになったら相手の腕をつかんで引っ張る...。
Jリーグだけではない。少年チームにまでこの傾向は及ぶ。反則であることはルールブックに明記されているのだが、勝つための手段として指導されたのか、推奨されたのか。少なくとも看過されてきたのは間違いない。
しかし昨年、ユース年代の国際大会で日本選手の手の不正使用が厳しく指摘された。反則を取られて大きな不利益もあった。そこで撲滅宣言が行われ、こうした行為を見逃さずに反則をとるよう、Jリーグの担当審判員に指示が出たのだ。
手の不正使用をなくすことは、サッカー発展の重要な要素だ。損得の問題ではない。手の不正使用は攻守両面で技術の向上を妨げるものだからだ。
だが、鹿島対浦和では、ただ手が相手の体にかかっているだけで反則にする場面が何回も見られた。これは行きすぎではないか。反則にするのは、相手の突破を止めたり、相手のバランスを崩すなど、それによって明らかに利益を得た場合に限るべきだと思う。
きまじめさは日本の審判員の美質であり、大きな長所だが、押されたり引っ張られたりした選手がなおもプレーを続けようとしているときに笛で止めてしまうのは、試合の魅力をそこねるものだ。
(2010年3月10日)
「岡田ジャパン」が危機的状況にある。
今夜豊田スタジアムで行われるバーレーン戦(アジアカップ予選最終戦)。ともに出場権を確保し、本来ならば「消化試合」だが、日本代表にとっては、ワールドカップへ向け、右に行くのかそれとも左か、重大な岐路になってしまった。
2月に行われた4試合で攻撃がうまくいかなかったことが理由ではない。東アジア選手権で3位に終わったことでもない。この4試合でチームに崩壊の予兆が見えたことこそ、大問題だった。
4年前の06年ワールドカップで、日本代表はファンに大きな失望を与えた。オーストラリアに逆転負けし、1分け2敗でグループリーグ敗退。だが失望の本当の原因は試合結果ではなかった。
02年から4年間指揮をとったジーコ監督のチームづくりは、選手間の相互理解を深めるとともに、どんな状況でもあきらめずに力を合わせて勝つことに集中するチームスピリットが柱だった。05年6月に予選を突破するまではそのスピリットが貫かれていた。チームは目標に向かってひとつになっていた。
しかしその後に崩壊がきた。ブラジルやドイツと引き分けたことで勘違いしたのか、選手たちは自分のことばかり考えるようになり、ワールドカップを迎えるころにはチームはばらばらになってしまったのだ。敗戦の背景に見えたチームスピリットの崩壊こそ、失望の最大の要因だった。
その過ちを繰り返してはならないと、岡田武史監督は「ベスト4宣言」を打ち出し、昨年後半、予選突破後のチームスピリットを鼓舞してきた。9月から11月にかけての7試合で示された選手たちのプレーぶりは、志の高さを感じさせた。
だが年を越したとたんに、そのスピリットに黄信号がともった。2月の東アジア選手権後にいっせいに「岡田解任論」が出たのは、ファンが崩壊の予兆を敏感に感じ取ったからにほかならない。難しい戦術論ではない。チームスピリットがあるかないかなど、誰の目にも明白だ。
その4試合を受けての今夜のバーレーン戦で問われるのは、何よりもチームスピリットに違いない。もし不幸にも再びそれが感じられない試合を見せるようなことになったら、日本サッカー協会は即座に監督交代の決断をする必要がある。
岡田監督の目指すサッカーの方向性は間違っていない。しかしチームをまとめきれないのであれば、他の道を選ぶしかない。
(2010年3月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。