ワールドカップ南アフリカ大会の公式ソングが決定した。
コロンビアの人気女性歌手シャキーラと南アフリカの人気グループ「フレッシュリーグラウンド」が歌う『タイム・フォー・アフリカ』。スリナムのグループ「トラファシ」が歌った『ワカ・ワカ』をベースにした、思わず踊りだしたくなるような軽快な曲だ。公式のビデオクリップには阿部勇樹(浦和)も一瞬登場する。
開幕まで7週間余り。ワールドカップ南アフリカ大会は、たくさんの音楽に囲まれた楽しい大会になるだろう。そしてそのなかに、間違いなく最も多くの人に合唱されるひとつの曲がある。南アフリカ共和国国歌だ。
1997年に制定されたこの曲は、おそらく世界中の国歌のなかで最も風変わりなものだろう。ふたつのまったく違ったタイプの曲をつなぎ合わせただけでなく、なんと5種類もの言語の歌詞が使われているからだ...。
独立はいまからちょうど百年前の1910年。その10年ほど後につくられ、57年に正式に国歌として認められたのが『南アフリカの呼び声』と呼ばれる曲だった。英国国歌を思わせる荘厳な調子の曲だ。歌詞はアフリカーンス語。白人の多数派であるオランダ系の人びとの言葉だ。
それに対し、20世紀初頭から黒人たちの間で賛美歌として広く歌われるようになったのが『神よアフリカに祝福を』である。歌詞はこの国の黒人の主要言語のひとつであるコサ語だった。だがこの曲はやがて反アパルトヘイト(人種隔離)活動を象徴する曲として歌われるようになり、一時は禁止された。
アパルトヘイト撤廃後、ふたつの曲はともに国歌として認められて共存していた。だが97年、人種間の対立を解消しなければこの国の未来はないと考えたネルソン・マンデラ大統領は、ふたつの国歌を合体させ、5つの言語で歌わなければならないという大統領令を発布したのだ。
コサ語で歌い出された曲はやがてズールー語となり、二番はソト語で歌われる。そして曲調が一転、アフリカーンス語となり、英語でしめくくられる。
「互いに手をたずさえなさいという声が聞こえる。私たちは団結し、立ち向かう」(英語歌詞の一部)
音楽と歌にあふれた2010年ワールドカップ。大会は、6月11日、メキシコと対戦する南アフリカの、9万人の大合唱を合図にキックオフされる。
(2010年4月28日)
サッカーではごく希に説明不能なことが起こる。下あごの骨折という大けがから復帰した中村憲剛(川崎)のプレーには理屈を超えた「サッカーの神様」の存在さえ感じる...。
2月23日、AFCチャンピオンズリーグの城南(韓国)戦の前半15分に負傷。顔つきが変わるほどの重傷だったが、彼は90分間戦い抜いた。帰国後4時間にわたる手術を受け、2週間後にようやく退院。実戦復帰は4月14日、因縁の城南とのホームゲームだった。
川崎が2-0とリードして迎えた後半、城南が捨て身の攻勢に出た。その勢いを止めようと、後半21分、高畠勉監督は背番号14、中村を送り込んだ。
笑顔だった。ちょうど50日ぶりのピッチ。不安よりも喜びが大きかったに違いない。
驚くべき25分間が始まった。はいってわずか1分後にはワンタッチで鮮やかな浮き球のパスを出し、FW黒津を抜け出させて3点目につながるPKを生み出した。その後も、中村が触れるたびにボールは生命を吹き込まれたように味方に渡り、次のプレーを促した。
4月18日のJリーグ浦和戦では、0-2とリードされた後半からの出場だった。やはりこのときも出場してすぐにPKにつながる決定的なパスを出した。
中村は日本代表でも中心のひとりであり、川崎では絶大な信頼を置かれるプレーメーカーだ。けがから復帰したばかりで大活躍しても何の不思議もない。しかしそれにしても、この2試合、70分間の中村のプレーの冴えはどうだろう。不自然なものさえ感じるのは私だけだろうか。
あごを砕かれるという悪夢、全身麻酔での長時間の手術、流動食だけの生活、2週間にわたる入院生活...。その苦しみのなかで、中村は何を考えていたのだろうか。きっと、サッカーに対する恋い焦がれる思いのようなものだっただろう。
そしてピッチに解き放たれたとき、彼は不思議なほどに研ぎ澄まされた感覚を味わっていたに違いない。これまでとはコンマ何秒か早く、これまでより広く次の展開が読める。そして彼自身は、自分でも驚くほど冷静にそれを見ている―。
中村憲剛の上に、いま「サッカーの神様」が舞い降りている。
「この怪我には何か意味があったんだと思うようにしています」
手術の2日後、流動食ものどを通らない苦痛のなかで、彼は自分自身のブログにそう書いた。たしかに、苦しみを乗り越えて、中村憲剛は新しい境地に到達した。
(2010年4月21日)
「ベスト4」という言葉が、すっかり聞かれなくなった。
「ワールドカップ出場国」といっても若手主体のセルビアに0-3の完敗を喫し、日本代表に再び懸念の声が上がっている。
「だいじょうぶか」の声は、「ベスト4」の目標ではなく、4年前のように1試合も勝てずに敗退が決まることになるのではないかという心配だ。
ワールドカップ初戦のカメルーン戦までちょうど2カ月というのに、期待が高まるどころか、主力の故障や疲労蓄積などでしぼむ一方だ。ロシアのCSKAモスクワに移籍後、得点を量産している本田圭佑が唯一の希望といったところか。
98年フランス大会、地元開催の02年大会、そして06年ドイツ大会に続き、日本のワールドカップ出場は4大会目ということになる。過去3大会の通算成績は10戦して2勝2分け6敗、総得点8、総失点14。しかもこのうち2勝1分け、得点5は「ホーム」で記録したもの。アウェーでは、6戦して1分け5敗、得点3、失点11。獲得した勝ち点はわずか1というのが現実だ。だが、それ以上に注意を払わなければならないのが、「通算10試合」という数字だと思う。
過去80年間、18回のワールドカップで優勝を経験したことのある国はわずか7。第二次世界対戦前の3大会で優勝したウルグアイとイタリアを除けば、初優勝までに費やした試合数は、ドイツ(西ドイツ)が最短で12試合。続いてイングランドが20試合、ブラジルが22試合、アルゼンチンとフランスに至っては、実にワールドカップ41試合目で悲願をかなえている。
今大会の優勝候補と言われている国ぐににも、屈辱にまみれ、国民を失望させ続けた時代があったのだ。10試合程度の出場で何か大きなものを期待するのは、ごう慢というものではないか。
ただ私は、岡田監督が「ベスト4」という目標を掲げたことが間違いだったとは思わない。その「志」を吹き込んだから、昨年の後半に日本代表は大きく伸びたのだ。残念ながら、同じ意識をもって年を越した選手は多くはなかったが...。
その日本代表にとって、セルビア戦は重要な転機になるのではないか。スタジアムを久びさに満員にしたホームでの完敗。試合終了とともに起こったサポーターからの大ブーイングを、選手たちは、ワールドカップに向けて危機感を高め、再び高い意識で団結する力にしてほしいと思う。
(2010年4月14日)
FC東京と東京ヴェルディの初対戦は1970年5月?
日本サッカー史をこれまでにない角度から俯瞰できる画期的な本が完成した。『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ~ヴェルディの40年』。昨年クラブ創設40周年を迎えた東京ヴェルディの記念誌である。
ヴェルディの前身は読売サッカークラブ。企業スポーツが全盛期を迎えようとしていた1969年に、専用の施設をもった本格的なスポーツクラブとして誕生した。近い将来のプロ化を見据え、読売新聞社の正力松太郎社主の「鶴の一声」で動きだしたプロジェクトだったという。
東京社会人リーグの2部からスタートし、4年目の72年には初年度の日本サッカーリーグ2部にと、とんとん拍子で昇格。この年にブラジルから日系二世のジョージ・ヨナシロ(与那城)を加え、翌73年にはオランダ人のバルコム監督を迎えて独特なサッカーを形づくっていく。
「クラブ」の特色を最も強く示したのは選手育成だった。読売クラブはその初期から少年チームやユースチームをもち、指導に力を注いできた。やがてそのなかから戸塚哲也、都並敏史といった日本代表選手が生まれ、チームをけん引していくことになる。
選手として活躍できなくても、指導者としてこつこつと仕事をしている人もいる。メディアの世界で活躍している人もいる。昨年、日本テレビが経営から撤退。クラブを引き継いだのは、ユース出身の崔暢亮氏(現会長)を中心とするグループだった。
記念誌のページを追っていくと、「クラブ」とは「人づくり」の場であり、このクラブが実に多くの人材を育ててきたことが実感できる。その人材こそクラブの宝であり、「再生」のための最大の力に違いない。
300ページを超す本の約3分の1は、編集作業の中心となった牛木素吉郎さんによると「最も苦労した」という記録集。そのなかに、70年の東京社会人リーグ1部の第2節に「東京ガス」と対戦して3-5で敗れたという記録がある。「東京ガス」とは、もちろん現在のF東京。この試合こそ、今日の「東京ダービー」の第1戦ということになる。
当時は、まったくの「異端」だったクラブサッカー。その視点から編まれた1冊は、日本のサッカー史に新たな側面から投げかけられた光といえる。
(2010年4月7日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。