「激動の一日」を締めくくったのは、千葉MF佐藤勇人の気迫のボレーだった―。
J1とJ2の合計18試合がいっせいに行われた11月20日土曜日。鹿島が神戸と0-0で引き分け、湘南を1-0で下した名古屋のJ1初優勝が決まった。
ストイコビッチ監督が就任して3季目。今季はDF闘莉王など大型補強にも成功、勝負強さを発揮し、1ステージ制になって以来初めて最終節を待たずに優勝を決めた名古屋の強さは本物だった。
だがこの日のハイライトは名古屋の優勝だけではなかった。残留と昇格をかけての争いの激しさも、火花を散らすものだったのだ。
J1とJ2の間では入れ替え戦はなく、J1の下位3チームとJ2の上位3チームが自動的に入れ替わる。そしてそのうち2チームずつはすでに決定している。京都と湘南が降格し、代わって柏と甲府が昇格する。残りはそれぞれ「1枠」だ。
鹿島4連覇の夢を砕いたのはJ1の「降格圏」16位の神戸。見事な闘志と集中力だった。優勝を争っている鹿島に臆(おく)することなく最後まで失わなかった攻撃的姿勢が、「残留圏」15位のF東京との差を勝ち点1に縮める0-0の引き分けにつながった。
F東京の相手は強豪川崎。1-1で迎えた後半39分に川崎に勝ち越し点を許すと、3バックにして前線の人数を増やし、ロスタイムのCKではGK権田まで相手ゴール前に送り込んで同点を狙った。1-2で敗れたが、魂のこもった反撃はファンの心を打った。
J2で現在3位。4季ぶりのJ1を目指す福岡は、この日午後2時半から昇格の望みを残す5位東京Vと対戦。2-0から追いつかれて2-2となったが、ロスタイム3分にFW高橋が30メートルのFKを叩き込んで劇的な勝利をつかんだ。
福岡を勝ち点5差で追う4位千葉は7時半キックオフ。相手はJ2で最下位の北九州だったが、立ち上がりに1点を先制しながらその後消極的になって押し込まれ、後半28分に同点ゴールを喫した。
その後もピンチの連続。起死回生の一撃はロスタイム3分だった。相手のクリアにMF佐藤が猛然とくらいついた。バウンドするボールを左足で力いっぱい叩くと、左ポストの内側に当たってゴールに飛び込んだのだ。
Jリーグ終盤、どのチームも命をかけたような戦いを見せている。残りは2節、計36試合。誰にも予想できないドラマが、まだまだ待っている。
(2010年11月24日)
きょうはある伝説的なGKの話をしたい。
デビューは61年前、1949年の11月中旬。すでに26歳。前月にマンチェスター・シティと契約した。
ドイツ北部のブレーメン生まれのベルンハルト・トラウトマンは1年ほど前にマンチェスター近郊の収容所から釈放されたドイツ人捕虜だった。釈放後も英国に残り、農場で働くかたわら、アマ・クラブでプレーしていてスカウトされたのだ。
ドイツ空軍のパラシュート隊員との契約にシティのファンの多くが反対し、反対デモまで起きた。英国人はまだドイツへの恨みを忘れていなかったのだ。だがプレーをひと目見ると、誰もが彼の大ファンになった。
ドイツ代表のGKだったわけではない。いくつかの競技に親しんでいたが、家計を助けるため17歳で入隊。サッカーに取り組むようになったのは収容所時代からだった。最初はDF。ある試合でけがをしてGKと交代し、以後GKになった。
長身ながら卓越した反射神経をもつトラウトマンは、即座にスターとなった。当時のGKはキャッチすると力いっぱいけり出すだけだったが、彼はロングスローで正確に攻撃につなげた。56年5月には年間最優秀選手に選出される。そしてその直後のFAカップ決勝戦で伝説が生まれる。
前年も決勝に進出したが1-3の完敗。2年連続の決勝進出でシティはバーミンガムを圧倒する動きを見せ、3-1とリードした。トラウトマンも珍しいロングキックで3点目を生み出した。だが残り15分、ゴール前にはいってきた相手FWの足元に飛び込んだトラウトマンが倒れた。
首を強打したトラウトマン。意識がもうろうとするなか気丈にプレーを続け、2回の決定的ピンチを防いでチームを優勝に導いた。
翌朝、痛みが取れないためロンドンで診察を受けた。だが診断は「すじ違い」。首の骨が折れ、危うく致命傷になるところだったのを発見されたのは、2日後、マンチェスターの病院でX線検査を受けたときだった。
引退もささやかれたが年末には復帰。そして41歳まで現役を続け、シティで500試合以上に出場した。
87歳のいま、彼はスペインで元気に暮らしている。数奇な運命で英国サッカーのスターとなったトラウトマンだったが、彼の存在がドイツに対する英国人の憎しみを和らげたのは間違いない。04年、英独親善に貢献をしたとして、英国政府は彼に勲章を贈った。
(2010年11月17日)
U-16(16歳以下)日本代表が来年のU-17ワールドカップ3大会連続出場を決めた。
出場を確定したアジアU-16選手権準々決勝のイラク戦で目を引いたのが、2得点を決めて勝利に導いたFW南野拓実の才能だった。セレッソ大阪U-18所属、まだ15歳の高校1年生。抜群のスピードと反射神経で堅固な守備を打ち破った。
そういえばことしのU-19日本代表のFWも4人のうち2人はC大阪所属だった。スピードと強さの永井龍、187センチの長身でポストプレーを得意とする杉本健勇だ。近年の日本のユース年代のエースは、柿谷曜一朗(現在J2の徳島所属)、森島康仁(同J2の大分所属)と、C大阪の選手が続いている。
ストライカーの育成は日本サッカーの最大のテーマだ。それがこれだけ1クラブに集中するのは、何か秘密があるのだろうか。
「関西の少年サッカーには型にはまらない指導をしている人が多い。それが独特のリズムをもった選手を生むのかもしれない」
C大阪アカデミーダイレクター兼U-18監督の大熊裕司さんはそう話す。中学1年でC大阪に加入するときには個性と高い技術をもっているというのだ。
南野は大阪府内のゼッセル熊取というジュニアチームで育ち、兄を追ってC大阪のU-15に加わった。すでにゴール感覚やDFをすり抜ける感覚をもっていた。それを消さず、逆に磨き上げながら、細心の注意を払い、タイミングを見てプロで活躍するために必要なメンタル、フィジカルや守備力の強化に取り組んできたという。
「ストライカーというのはもって生まれた素質や感覚の要素が大きい。『育てる』などとはおこがましい。ただ、その素材に指導者が甘えてはいけないと戒めている」
C大阪が一貫して攻撃的なサッカーを志向し、日本人ストライカーで戦おうとしてきたことも、連続して好ストライカーが輩出された要因かもしれないと大熊さんは語る。釜本邦茂を押し立ててチャンピオンになった70年代の「ヤンマー」のころからの伝統だろう。
00年からC大阪の育成部門にたずさわり、現在はスクールを担当する風巻和生さんは、「選手を育てるのは人間を育てること。ご両親、学校、担当コーチ、寮で面倒を見る人びと...。多くの大人が、目先の成果にとらわれずに関わっていくのが大事」と話す。
ストライカーはどう育つのか、C大阪の取り組みが与える示唆は小さくない。
(2010年11月10日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。