カタールで開催されているアジアカップで生まれて初めての経験をした。アラビアの女性と話をしたのだ。
93年のワールドカップ予選以来、毎年のようにアラビア半島の国にきているが、外国人労働者を除く現地の女性と話した経験はまったくなかった。
アラビアの女性は外出時には「アバヤ」と呼ばれる黒い長衣に身を包んでいる。ベールをかぶり、人によっては顔の大半を隠し、目だけ出している。けっしてひとりでは出歩かず、外国人男性と話すことなどない。
だが今回のアジアカップでは、メディアセンターでアバヤ姿のたくさんのアラビア女性がボランティアとして活動しており、いろいろ助けてもらうなかで自然に話ができた。
サルマさんはサウジアラビアからドーハの大学に留学している法学部の学生。
「いまも年寄りたちは、女性は外に出てはいけない、いろいろなことに意見を言ってはいけないと言います。でも女性でも男性と同じように仕事ができるし、社会に出ていくことができるようになってきました。私は、こうして世界のあちこちからきたメディアの人びとと話すことで、いろいろなことを学んでいます」と話す。
「男性社会」に女性が進出する姿は、ファンの間にも見ることができる。かつてはサッカースタジアムでアバヤ姿の女性など見ることなどなかった。しかし今大会、とくに地元カタールの試合では、アバヤ姿の女性観客をたくさん見かけた。
「以前も女性はきていましたが、一般席からは隔離された『家族席』での観戦に限られていました。しかし今大会は、女性のグループで観戦にきている人が一般席にもたくさんいますね。もちろんひとりできている人はいないと思いますが」
そう語るのは、地元組織委員会のイッサ・モハメドさん。
「アジアカップやワールドカップを成功させるには、女性の力が欠かすことのできない要素です。ボランティアの人びとだけでなく、新聞社のカメラマンとしてアバヤ姿のままピッチで写真を撮っている人もいますよ」
イスラムの戒律の厳格さは国によってずいぶん違うが、女性の社会進出がアラビア社会の静かな潮流となっているのは間違いない。そしてそうした流れを加速させている要因の一翼を、06年のアジア大会、今回のアジアカップ、そして22年ワールドカップといったスポーツの国際大会が担っているのも確かだ。
(2011年1月26日)
「申し訳ないが、あのときの判断についてはまだ話せない。でもぼくはルールに則って判断したつもりだ」
アジアカップ開催中のカタールで久しぶりに彼と話した。スブヒディン・モハド・サレー(44)。マレーシア人のレフェリーである。
04年アジアカップ(中国)準々決勝ヨルダン戦、日本の宮本主将の懇願を受けてPK戦の途中で使用ゴールを変えた。そのときのことは強烈な印象として残っているという。
最初に会ったのは04年アジアカップ開幕戦の翌日だった。小柄ながら非常に快活で、人を引きつける魅力をもった人だと感じた。
1966年11月17日生まれのスブヒディンはこのとき37歳。アジアカップ開幕戦の主審を任され、的確な判定で高い評価を得た。直後のアテネ五輪の主審にも任命されていた。AFC期待の若手レフェリーだったのだ。
その後、彼は国際審判員として順調とはいえなかった。05年のU-20ワールドカップではチームを組む副審のひとりが大会直前の体力テストに落ちて帰国を余儀なくされた。06年ワールドカップでは最終選考でもれた。
だが昨年、ついに彼は「ワールドカップ主審」の栄誉を手に入れた。全世界で30人という狭き門。アジアの主審はわずか4人だった。マレーシアからは過去に2人の副審がワールドカップに出場したことはあったが、主審は初めてだった。
しかし南アフリカで待ち受けていたのは、考えようでは落選より過酷で残酷な状況だった。アジアの他の3人が活躍するなか、彼は1試合も笛を吹く機会を与えられず、1次リーグの8試合で「第4審判」の役割を与えられただけだったのだ。
1次リーグの後半、なかなか指名がこないなか、彼とチームを組む中国人とシンガポール人の副審が不安と不満の表情を見せた。
「心配するな。明日(指名が)くるかもしれない。われわれレフェリーは、いつでも出られるように万全の準備をするだけだ」
彼はこう2人を諭したという。わずか3人でも、審判員も「チーム」である以上、主審はそのリーダーでなければならない。世界のトップにはなれなかったが、彼が主審として長期間にわたって高い評価を受けた背景に、優れたリーダーとしての資質があった。
ことしで国際審判員の定年。今回が最後の国際大会となる。その大会でも、彼は先頭に立ってトレーニングで周囲の若手を引っぱり、成熟した判定で試合を導いている。
(2011年1月19日)
カタールでアジアカップが開幕した。
アラビア半島の東岸、ペルシャ湾に突き出た人口約141万の小さな国。国土の面積が秋田県とほぼ同じであることは、昨年12月、2022年のワールドカップ開催国に決まってからよく知られるようになった。
そう、カタールは、サッカーの世界でいま最も注目されている国である。まだ11年も先のことなのに、欧州メディアは「予行演習」と気が早い。
18年大会開催国がロシアとなったこと以上に、22年大会のカタール開催決定は驚きをもって迎えられた。
32チームの大会を開催するには少なくとも10程度の会場都市が必要。ところがこの国には、都市と呼べるものはドーハとその周辺の首都圏しかない。
さらに6月から7月にかけて、カタールは日中の気温が40度という猛暑に見舞われる。「スタジアム全体の冷房」という大胆な提案も、ワールドカップが単なるサッカーの大会でなく世界中から人が集まって1カ月間続くお祭りであることを考えれば、十分とは言えないだろう。
ところが国際サッカー連盟の理事会はアメリカ、韓国、日本、オーストラリアの提案を退け、カタール開催を決めてしまったのだ。「理事たちがオイルダラーで買収された」という反応も多い。
もし私が理事だったら、もちろん別の国に一票を投じただろう。だがそれは「これまでの常識」に基づく判断に過ぎない。日韓共同開催も、南アフリカ大会も、当初私は大反対だった。だが終わってみれば、両大会とも世界中のファンを心から楽しませた。
「カタール開催」をポジティブに考えれば、小国でも開催が可能であること(といっても財力は必要)、大会時期を考え直す好機であること、何より、イスラム圏での初めてのワールドカップであることなど、今後の世界にプラスになりそうな点はいくつもある。
過去19回のワールドカップ。日韓大会以外はすべてキリスト教国での開催だった。都市大改造が急速に進みつつあるドーハには、22年までに近代的なビルが林立するだろうが、イスラム社会であることは変わらない。世界の人びとがワールドカップを通じてイスラム文化を知り、尊重し、そしてともにサッカーを楽しむことは、21世紀の人類にとって小さからぬ意味をもつのではないか―。
1月の穏やかな気候のドーハでアジアカップを楽しみながら、そんなことを考えた。
ハリファスタジアム(カタール)
(2011年1月12日)
キャプテンの小笠原満男が、この試合で引退する大岩剛に天皇杯を手渡す。大げさな身ぶりから大岩がカップを掲げると、サポーターだけでなく、ピッチ上で手をつないだオズワルド・オリヴェイラ監督をはじめとするスタッフたちもいっしょになって万歳をした。その姿には、苦しみの末につかんだ本物の喜びがあふれていた。
11年元日、鹿島アントラーズは10年シーズンの最後を天皇杯優勝という最高のタイトルで締めくくった。
07年から続いてきたJリーグ3連覇の偉業は昨年ピリオドを打たれた。だがそれでも鹿島は「勝つ」ことをあきらめなかった。その姿勢が、天皇杯制覇へとつながった。
圧倒的に強かったわけではない。それは3連覇が始まった07年から同じだった。
1試合だけなら鹿島は王者にふさわしい。だがひとつのシーズンを戦い抜くには11人では足りない。疲労、負傷、出場停止、そして過密日程...。チャンピオンになるには選手層の厚さが必要不可欠な要素なのだ。にもかかわらず、鹿島の選手層はけっして厚いとは言えなかった。
07年のJリーグ優勝は奇跡的な追い上げによるものだった。だがこの選手層では2シーズンはもたないだろうと思った。予想どおり翌シーズンの半ばにはノックダウン寸前となった。だが大崩れはせず、最後には優勝を手中にした。そうしたシーズンが2年続いた。
今季は守備の要だった韓国代表の李正秀(イ・ジョンス)と日本代表の内田篤人がシーズン半ばに海外に移籍、「台所事情」はさらに苦しくなった。
「相手のほうが戦力が整い、何人かの優れた選手がいることを認めたうえで、それを抑える作業をまずみんなでやろうと話した」
清水エスパルスを2-1で下した天皇杯決勝戦後、オリヴェイラ監督はそう語った。
「戦力はたしかに限られている。だが選手たちの規律、チームで決めたことをやり抜こうという気持ちは、どこよりも強い」
「そしてクラブが、私たちが集中して仕事に取り組める環境をつくってくれた」
ピッチの中の戦いだけでなく、ピッチ外を含めたクラブの総合力で勝ったというのだ。
あるJリーグ・クラブの監督は、「継続性こそ、鹿島の力だ」と話した。クラブのスタート時の92年にジーコが礎を築き、その路線をかたくななまでに守ってきた。以来19年、それは見事に「伝統」となり、敬服すべき勝負強さとなった。
(2011年1月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。