右サイドで驚異的な粘りを見せた味方選手のおぜん立てが7割、彼自身のシュートが3割という得点だった。だがそれにしても、クロスを胸で止め、とび込んでくる相手選手を冷静にかわして左足を振り抜いたシュートは見事だった。
2月12日、オランダリーグのフェイエノールト対ヘラクレス。移籍して2試合目の宮市亮(18)が、前半18分に先制点を決めた。
愛知県岡崎市出身。中京大附属中京高校2年時の09年にU-17日本代表で活躍、100メートル10秒台のスピード突破で目を引いた。そして昨年12月14日、18歳の誕生日を迎えた日にイングランドのアーセナルとプロ契約を結んだ。
英国では欧州連合(EU)外の選手はA代表でないと就労ビザが下りない。そこでアーセナルは1月31日にフェイエノールトに期限付きで移籍させた。
もちろんプロだが、まだ高校の卒業式も済んでいない。その18歳が、リーグ下位に沈むフェイエノールトの攻撃を活気づかせた。2月6日にデビュー、高評価を受け、2試合目のヘラクレス戦で早くもゴールを決めてチームを2カ月ぶりの勝利に導いたのだ。
左ウイングでプレーする宮市。スピードあふれるドリブル突破が大きな魅力だが、ヘラクレス戦ではそれ以上の才能を見せた。「ストップ」の能力だ。
後半、右からのクロスが中央に詰めた宮市と合わず、左に流れたボールを追ったシーンがあった。左コーナー付近で追いついた宮市は、右足でボールを抱え込むようにしながらターンすると、次の瞬間には上半身をすっと立ててリラックスし、懸命に追ってきた相手に対面していた。
速い選手、スピードドリブルで突破できる選手はいくらでもいる。しかし守備側にとって何より怖いのは、トップスピードから一瞬で完全にストップできる選手だ。そのストップひとつで、守備側の状況がすべて変えられてしまうからだ。
宮市はクリスティアノ・ロナルド(ポルトガル)にあこがれているという。しかし一瞬で止まり、ターンした彼の姿に重なったのは、オランダが生んだ史上最高の選手、ヨハン・クライフだった。
クライフはフェイエノールトのライバル、アヤックスの選手として知られているが、選手生活の最後に1シーズンだけフェイエノールトでプレーした。そして10年ぶりのリーグ優勝に導いた。
残留争いで苦しむ今季のフェイエノールト。18歳の宮市にかけられた期待は大きい。
(2011年2月23日)
1月のチュニジアに続き、2月11日にはエジプトで国民の力によって独裁政権が倒された。五千年の歴史をもつピラミッドとスフィンクスの国エジプト。それはまた、アフリカ大陸で最も歴史のあるサッカー国でもある。
19世紀末にイギリスの保護国になり、サッカーが導入されたエジプト。サッカー協会誕生は日本と同じ1921年だが、2年後には早くも国際サッカー連盟(FIFA)への加盟を認められている。アジア・アフリカ地域からの初の加盟国だった。34年には第2回ワールドカップ・イタリア大会に、やはりアジア・アフリカ地域から初めて出場している。
アフリカサッカー連盟(CAF)設立をリードしたのもエジプトだった。1956年の6月にポルトガルのリスボンで行われたFIFA総会に集まったアフリカからの加盟諸国に、連盟の設立を呼びかけたのだ。といってもアフリカの「独立ラッシュ」の1960年を前にFIFA加盟国はわずか4つ。エジプトのほか、スーダン、エチオピア、そして南アフリカだけだった。
翌57年2月、CAFは第1回アフリカネーションズカップを開催する。会場はスーダンの首都ハルツーム。エジプトは、前年からイスラエル、イギリス、フランスを相手にした「スエズ戦争」の渦中にあり、自国開催は無理だったのだ。
「白人だけの代表か、そうでなければ黒人だけの代表で行く」
「人種混合の代表チームでの参加」を求めるCAFに対し、南アフリカは断固としたアパルトヘイト(人種隔離)の方針を貫き、結局参加を拒否される。その結果、出場はわずか3チームとなった。
大会はノックアウト方式。南アフリカの不参加により、エチオピアは自動的に決勝に進出することになった。
ただひとつの準決勝で、エジプトは地元スーダンに2-1でなんとか競り勝った。決勝戦は快勝だった。準決勝で決勝点を決めたエースのモハメド・アディバが次々と4得点を挙げ、エジプトは4-0で勝って「初代アフリカ・チャンピオン」となったのだ。
以後、エジプトは常にアフリカの強国として君臨し、ネーションズカップで最多7回の優勝を飾っている。その最初の優勝を決めたのが、54年前の2月16日のことだった。
民主化へ大きく踏み出し、新しい歴史を歩み始めたエジプト。そのサッカーが、これからもアフリカのリーダーであり続けることを祈りたい。
(2011年2月16日)
「チーム一丸」について考えている。
1月にカタールで行われたアジアカップでの日本の優勝は、本当に感動的だった。次々と現出する困難にチーム一丸となって立ち向かったことが、4回目の優勝につながった。
昨年のワールドカップも、やはり、ベスト16という結果よりチームがひとつになって戦う姿が感動を呼んだ。
背景には監督たちの細かな心遣いがある。ワールドカップ時の岡田武史監督は、大ベテランの川口能活を「第3GK」と位置付けて選出、彼の存在がチームを結び付ける重要なキーとなった。ザッケローニ監督は、出場していない選手とこまめに話し、励ました。
だがその一方、「チーム一丸」は「状況の産物」でもあった。
ワールドカップでは親善試合4連敗の危機感が選手間に「なりふり構わず勝ちたい」という気持ちを生んだ。アジアカップではGK川島永嗣とDF吉田麻也の退場、MF松井大輔や香川真司の負傷離脱という緊急事態が一体感の元となった。
もし状況が別だったらどうだっただろうか―。ワールドカップ前に好成績だったら、選手たちはあのようにエゴを捨てられただろうか。退場などがなかったら、アジアカップでベンチの選手たちは決勝点の瞬間にあれほど狂喜しただろうか。
「チーム一丸」が日本代表の「伝統」と言っていいほど根付いたものとなってほしい。しかし同時に、その足元にまだ脆弱(ぜいじゃく)なものがあるのを感じざるをえない。
「サッカーがチームゲームであることを、選手たちは見事に証明してくれた」
サッカーがチームゲームであることなど誰でも知っている。だが本当に理解している人は多くはない。デンマーク戦後の岡田監督の言葉は、その違いを雄弁に物語っている。
ファンの話ではない。日本サッカー協会は「世界に通じる個」を育てることを強調するあまりエリート教育に奔走し、少年少女の指導者たちまでがその影響を受けている。子どものころに本当のチームゲームの喜びを体験できなかった者が、本物のチームプレーヤーになれるだろうか。
スター主義、ヒーロー主義一色のスポーツメディアのあり方も、それを助長する。
特殊な状況下だけで出現する「チーム一丸」では困る。真の伝統に、そして真の力にするために、サッカーに取り組むすべての人が「チームゲーム」というものを一から考えてみる必要がある。
(2011年2月9日)
延長後半の劇的な決勝ゴール。1月7日から29日までカタールで開催されたアジアカップは、私たち日本人にとってエキサイティングな大会だった。
スタジアムは素晴らしく、運営もスムーズに行われているように思えた。カタールの人びとが思いがけなく日本びいきで、決勝戦では日本に圧倒的な声援が送られた。だがその背後で、正規の入場券をもったファンが何千人も決勝戦を見ることができなかった事実は、日本ではほとんど報道されていない。
キックオフの午後6時が迫り、とっぷりと日が暮れたカリファ・スタジアムの第1ゲート前はパニックに陥っていた。何日も、人によっては何カ月も前に購入した入場券をもっている人が「満員だから」と入場を拒否されていたのだ。理屈など通らない。怒りと絶望感が渦巻き、ひとつ間違えば何らかの惨事が起こっても不思議でない状況だった。
実際、スタンドは満員とは言えなかったが8割方埋まった。私は午後3時過ぎからスタンドに座っていたのだが、3時半ごろから続々と学生の団体が入場し、それぞれに決められたチームの応援を楽しみ始めた。そうした「動員」でスタンドが埋まったことで、だれかが「入場打ち切り」を指示したのだろう。
今大会の序盤は、地元カタールの試合以外は空席が目立った。アジアカップでは別に珍しくないのだが、2022年ワールドカップのカタール開催決定を受けて世界から注目されていることもあり、地元組織委員会は非常に気にした。そして準決勝で大量の動員が行われ、スタンドはにぎやかになった。
だが決勝戦でも同じようにしたことが、入場券をもった人が入場できないという異常事態を引き起こした。冷静なファンは払い戻しを要求したが、それも認められなかった。
「もっと早くくるべきだった」。現場のマネジャーは、平然とそう突き放したという。
「被害者」には日本やオーストラリアのファンも多数含まれていた。そのひとり、神奈川県在住のFさん(33)は、「オーストラリアに勝ったのを見ることができなかった。残念というより絶望的」と、憤りを抑えられない表情で話した。
「ワールドカップ開催国」のメンツを安易な方法で保とうとし、結果としてあってはならない事態を招いた地元組織委員会の罪は小さくない。大会主催者であるアジア・サッカー連盟(AFC)には、徹底的な調査を要望したい。
カリファ・スタジアム
(2011年2月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。