「力になりたい」
誰もが口をそろえてそう話した。
「被災に苦しむ人びとを元気づけたい」
「そのため」の試合が、昨夜、大阪で行われた。東北地方太平洋岸地震復興支援チャリティーマッチ。ザッケローニ監督率いる日本代表とストイコビッチ監督が指揮をとるJリーグ選抜(チームアズワン)の対戦だった。
2004年にも同様の試合があった。同年10月23日に発生した新潟県中越地震の被災者を励ますために、12月4日に新潟のビッグスワンで開催された試合だ。当時日本代表監督だったジーコが代表の功労者を中心に「ジーコ・ジャパン・ドリームチーム」を選び、地元のアルビレックス新潟と対戦した。
試合はすばらしかった。両チームとも懸命に攻守を繰り返し、得点こそ生まれなかったが、ともに果敢にシュートを放ち、GKも好セーブを連発してスタンドを沸かせた。
しかし、試合を見ながら、私は奇妙な感覚を味わっていた。
「元気」を与えられているのは、いったいどちらだろう―。
選手たちは、スタンドを埋めた「被災者」の声援に引っぱられるように好プレーを見せた。テレビのこちら側の私まで、新潟の人びとから力を与えられ、元気づけられるのを強く感じた。
今回の大震災でも、互いに助け合い、励まし合い、前向きに生きて行こうという被災地の人びとのことが毎日のように伝えられている。文字どおり命ひとつで凶暴な津波から逃れたお年寄りが、東京に住む息子一家に向かって「不便なこともあるだろうが、体に気をつけてがんばれ」と気づかう言葉も聞いた。
人間の気高さというものを、あらためて思う。もし自分自身が同じ立場になったら、あんな態度で生きられるだろうか。自分のことより他を気づかうことができるだろうか。
昨夜も、日本代表とJリーグ選抜の選手たちは魂のこもった試合を見せてくれた。それは有形無形に被災地復興の一助になるに違いない。しかし同時に、選手たちの力が被災地の人びとの勇気ある姿から与えられたものであることも、忘れてはならないと思う。
世界では、日本という国自体が破壊されたのではという懸念が広がっている。幸い、昨夜の試合は、世界の各地で生中継されたという。選手たちの真摯(しんし)な姿勢は、被災地の人びとの勇敢な生きざまを世界に伝え、逆に世界に元気を与えたに違いない。
(2011年3月30日)
マイネーム・イズ・テン・ヤーズ。
おっと、日本語でなくちゃ。
改めて自己紹介。オレの名前は9・15メートル。...。メートル法にすると何だか締まりがないね。では「10ヤード」ということとで。
こう見えてもオレは世界的な有名人。2億人のサッカー選手なら誰でも知っている。ファンを含めて10億以上の人がオレのエラさをわかっているはずだ。
そう、フリーキック(FK)のときに、相手側の選手が離れていなければならない距離が、オレってわけ。
10ヤードルールはサッカー誕生の1863年からあった。でも対象はキックオフだけ。8年後の71年にFKが生まれたけど、守備側が10ヤード離れなければならなくなったのはなんと42年後の1913年のこと。それでもオレはもう100歳近くになるってわけだ。
なのに、選手たちがオレを無視することと言ったら!
FKの笛が吹かれる。攻撃側はすぐにけろうとする。守備側(反則した側)は決まってボールの前に立つ。サッカー選手というのは守備側になったとたんにオレの存在を忘れてしまうものらしい。
黒い服(最近はカラフルだが)のおっさんが「10ヤード!」と叫ぶと離れるけど、こんどは別の選手たちが7ヤードのところに壁をつくる。オレはいつの間にこんなに背が縮んでしまったんだい?
イングランドなんかじゃ、オレを無視したらFKをもう10ヤード前進させるというルールを熱心に研究していたらしい。南米では、オレの存在を示すスプレーまで開発されたと聞く。オレが大事だということは、誰でも知ってるんだ。でもいざとなったら無視さ。
ペナルティーキック(PK)もFKの一種だから、オレが登場する。それを示すのがペナルティーエリアの外に突き出した弓形のラインだね。でもPKのときには攻守両チームがオレを無視する。
アジアカップの韓国戦で、日本の細貝選手がエリアのかなり遠くから走りだし、けられた瞬間にエリア内にはいって跳ね返りを決めたよね。オレを尊重してくれて見事な得点。思わず「ブラボー!」って叫んだよ。
日本サッカー協会は「リスペクトプログラム」なるもので審判員や相手選手に敬意を払おうと呼び掛けているけど、そこにオレの名前も入れてほしいね。選手たちがオレを本当にリスペクトしてくれたら、試合は間違いなくスピードアップして、ずっとおもしろくなるんだけどね。
(2011年3月9日)
3月の声とともに、Jリーグの新しいシーズンが始まる。
新シーズン―。新しいチーム、新しいプレーヤー、新しい仲間。Jリーグの「新しい仲間」に日本マクドナルドが加わったと聞いたとき、リーグ事務局でスタジアムとホームタウンを担当する佐藤仁司さん(53)の脳裏に、19年前、92年2月のことがよみがえった。
当時、佐藤さんは日本サッカーリーグに所属する三菱自動車のマネジャーだった。3月末の日本リーグ終了とともに、三菱自動車サッカー部はプロサッカークラブ「浦和レッズ」へと生まれ変わることになっていた。
さまざまないきさつから浦和でプロ化することは決まったが、浦和あるいは埼玉県と三菱の間に何らかのつながりがあったわけではない。部室のある東京の三田で仕事が終わると、佐藤さんは毎日のように浦和まで車を走らせ、「新しい家」の様子を頭に叩き込んだ。横浜の自宅に帰るのは、深夜になった。
その夜、佐藤さんは頭の痛い問題を抱えていた。4月4日にタイのチャンピオンクラブを迎え、浦和レッズとして浦和で最初の親善試合を行うことが決まった。しかしポスターやチラシをどこに置いてもらえるのか、途方に暮れていたのだ。
そのとき、マクドナルドの赤い看板が目にはいった。ビルの1階にある小さな店。「アルバイト募集」の横断幕の下に電話番号が書かれていた。魅入られるようにそれをメモすると、車を止め、近くの公衆電話ボックスに飛び込んだ。30分後の面会の約束が取れた。
Jリーグとは何か、浦和にそのひとつのクラブができることが何を意味するのか、自分たちの夢...。早口で、夢中に語った。そして試合のチラシを置かせてほしいと頭を下げた。
「わかりました」
佐藤さんの話が終わると、それまであきれたような表情で聞いていた若い店長が短く言った。レッズがホームタウン浦和に第一歩を記した瞬間だった。
1年半後の夏、開幕したJリーグでレッズが連戦連敗を続けていたとき、そのマクドナルド店の前を通ると、横断幕はアルバイト募集から「レッズ勝ったらコーラ10円」に変わっていた。佐藤さんは思わず下を向いた。
2004年、ようやく訪れたJリーグステージ優勝。選手を乗せたオープンバスが、黒山の人をかき分けるように市内をパレードした。そのバスがマクドナルド店の前を通ったとき、佐藤さんは、やっとあのときの恩返しができたと感じた。
(2011年3月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。