アルゼンチン最北部のフフイ州。その州都サンサルバドールから北へ150キロも離れた標高2300メートルの山間の村の小学校で、5月17日朝、35人の全校生徒が声を上げて泣いた。先生たちは慰める言葉を知らなかった。
約40日間の「迷走」の末、日本サッカー協会は17日にコパアメリカ(南米選手権=7月、アルゼンチン)辞退を最終決定した。
南米サッカー連盟主催のコパアメリカ参加は、日本の希望で昨年始めに決定した。アジアサッカー連盟傘下の日本が他地域連盟の選手権に参加する場合、クラブには選手を出す義務はない。欧州組を呼ぶのは難しいが、Jリーグはことし7月の日程を空け、協力してくれることになった。
ところが3月11日の大震災によりJリーグは7月に試合を入れざるをえなくなった。3月下旬、日本サッカー協会は出場を断念。当然の結論だった。
だが4月上旬、日本協会の小倉純二会長が南米にあいさつに行ったときから「迷走」が始まる。
「我々はこの大会を日本の復興を支援するものと位置付けたい。ヨーロッパのクラブに所属する選手の放出は我々が責任をもつから再考してほしい」
南米側の熱心な要請に、小倉会長は一転して出場を決意する。だがどこまで腹をくくっていたのか...。
リーグ開催時期に日本代表の日程がはいること自体、Jリーグにとっては痛手だ。百歩譲って出場は受け入れても、主力を出すことはできないと、Jリーグは協会に返答した。
そして協会は本腰を入れて自ら「欧州組」を擁するクラブへのお願いに回るわけでもなく、南米側に預けてしまった(原技術委員長がようやく渡欧したのは4月末)。どんな約束があろうと、代表チームの招集を他者任せにする国が世界のどこにあるだろうか。そうして40日が経過した。
フフイはコパアメリカで日本の2試合の会場予定地だった。山間の村の子どもたちは海など見たことがない。その子どもたちが大会で日本を応援しようと日本の地理や歴史を勉強し、大地震や「ツナミ」のことも学んだ。そして日本の子どもたちの幸せを祈って懸命に折り鶴を折った。日本代表が来たら託すつもりだった。そのすべてが無になった。
出るか出ないかの問題ではない。「迷走」の40日間で周囲に大きな迷惑をかけ、山間の村の子どもたちを悲しませ、日本のサッカーへの信頼を失わせた罪は小さくない。
(2011年5月25日)
先週土曜、ドイツ・ブンデスリーガの2010/11シーズンが終わった。
優勝を飾ったドルトムントでは、ようやく故障の癒えた香川真司が試合終盤に出場して万雷の拍手を浴び、前節初得点を記録したばかりのシュツットガルトの岡崎慎司は強豪バイエルンを相手に見事な先制点を叩き込んでチームメートにもみくちゃにされた。
昨年のいまごろ、ブンデスリーガでプレーする日本人選手はヴォルフスブルクの長谷部誠ただひとりだった。ところがいま、2部を含めると8人もの選手が、世界で最も多くの観客を集めるこのリーグでプレーしている。しかもその多くがチームに不可欠な選手として信頼を受け、活躍しているのだから、うれしい限りだ。
昨年のワールドカップ時には23人の日本代表選手中わずか4人にすぎなかったヨーロッパ・クラブ在籍選手が、いまでは10数人にまで増えている。イタリアの超名門インテル・ミラノでは長友佑都が活発な動きで確固たる地位を築き、イングランドのレスターでは阿部勇樹が堅実な攻守で信頼を勝ち得た。
日本代表選手だけではない。ことし正月の高校選手権を終えた直後にヨーロッパに渡った宮市亮は、オランダの名門フェイエノールトを降格の危機から救う活躍を見せ、一躍全ヨーロッパから注目される存在となった。
かつて、ヨーロッパのクラブで主力になれるのは、日本代表でもほんの一部の特別な能力をもった選手だけだった。中田英寿、小野伸二、中村俊輔...。3人とも攻撃的MFで、高い技術を生かしてチャンスをつくった。
ところが現在ヨーロッパで活躍しているのは、GK、サイドバック、守備的MF、FWと実にさまざまなポジションの選手たちだ。特殊な能力ではなく、守備力を含め日本のサッカーの総合的な能力が世界に認められたことを意味している。
そしてそれは世界のサッカーの潮流と無関係ではない。世界のサッカーは強烈な「個」を求めながらも、集団的なプレーの密度を急速に高めつつある。そうしたなかで、日本選手の規律や集団プレーのセンスが、チームの重要な要素と評価されるようになったのだ。
今季終盤の活躍でひとつの壁を乗り越えた岡崎は、来季のブンデスリーガを沸かせるスターのひとりになるだろう。そしてドイツを筆頭としたヨーロッパの主要リーグで、さらに多くの日本人選手が活躍するに違いない。
(2011年5月18日)
先週のJリーグ、福岡を相手に前半0-2とリードされた横浜が後半に3点を取って逆転勝ちした。後半11分に投入された18歳のFW小野が終盤に2得点し、雨のなか詰め掛けた1万3520人のファンを熱狂させた。
「逆転勝利」は簡単ではない。昨年のJリーグ全306試合で逆転勝利は30試合。今季、これまでの4節でも33試合のうち逆転勝利は4試合だけだ。
ただしその大半は1点差からの逆転。2点差からとなると、昨年は2試合だけ。先週の横浜の逆転劇は、めったに見られないものだったのだ。
だが150年に近いサッカーの歴史には、なんと4点差からの逆転勝利がある。しかも残り30分、10人で...。
1957年のイングランドリーグ2部、チャールトン・アスレチック対ハダースフィールド。チャールトンは前半10分にDFアフトンが肩を脱臼して退場。交代が認められていない時代、残り80分間を10人で戦わなければならなくなった。
前半は2失点のみで抑えた。だが後半立ち上がりにFWサマーズが1点を返すと、逆に相手の攻撃の猛火に油を注ぐ結果となった。後半17分までに連続3失点、1-5と大差をつけられたのだ。
当時のチャールトンのホームは7万人収容。だがこの日、観客はわずか1万2500人だった。その一部は前半だけでスタジアムを後にし、失点を重ねるうちにさらに多くの人が席を立った。しかし来なかったファンや早々と帰路についたサポーターは大いに悔やむことになる。
4点差でハダースフィールドがゆるんだ。後半18分にFWライアンが1点を返すと、その後はサマーズのひとり舞台。大きな体で相手を押しのけるようになんと4連続得点。後半36分に6-5とひっくり返した。いちどは同点になったが、チャールトンは後半44分にライアンが7点目を決め、7-6の大逆転勝利を飾ったのだ。
スタジアムに残っていた数千人のファンの興奮ぶりはどんなだっただろうか。
ひとつだけ言えることがある。その興奮、チームとの一体感は、スタジアムに行かなければ絶対に味わえないということだ。逆転勝利は10試合に1回。大逆転は何十年に1回かもしれない。だがそうした試合に出合えたらファンとして一生誇りにできる宝になる。
次の週末には、歴史に残るドラマチックな逆転劇が待っているかもしれない。さあ、スタジアムに行こう!
(2011年5月11日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。