「いましかない」
04年4月、日本サッカー協会事務局の江川純子さんは、強くそう思った。
当時、代表チームに関する事務を担当する部署にいた江川さん。いろいろな文書を書くたびに「女子」とつけなければならないのを、女性として悔しく感じていた。
「日本代表」と言えば男子。女子代表は、「女子日本代表」と書かなければならない。オーストラリア協会が女子代表をごく自然に「マチルダス」と愛称で書いてくるのがうらやましかった。
そんなとき、女子日本代表が北朝鮮を破ってアテネ五輪の出場権を獲得。3万を超すファンが声援を送り、土曜日の夜に全国放送で16.3%の高視聴率を記録、大きな話題となった。「愛称をつけるならいましかない」と提案を出した。
「それはいい、ぜひやろう!」と賛同してくれたのが当時広報部長だった手島秀人さん(現理事)だった。手島さんが精力的に各方面を説得し、「公募」にこぎつけた。作業は広報部が中心になって受け持った。
その年の7月7日、七夕の日に「なでしこジャパン」の愛称を発表。1カ月後、アテネ・オリンピックの初戦で優勝候補の一角であるスウェーデン(前年の女子ワールドカップ準優勝)を1-0で下し、愛称も広く知られるようになった。
15年ほど前、会社員だった江川さんは、ある女子サッカーチームの練習を見た。社会人中心のチーム。自分のように30歳を過ぎても目を輝かせてボールを追っている姿が印象的だった。そして選手たちがとても楽しそうなので、「まぜてもらいたい」と思った。
サッカーどころか何もスポーツ経験がなかった江川さん。思い切り右足を振ったが、ボールはわずか5メートル先に落ちた。しかし2年間ほど定期的に練習に取り組むと、どうにか味方につながるようになった。その後サッカー協会に就職。週末にも仕事がはいり、残念ながらチームから離れざるをえなくなった。
「生活も子育ても大事、仕事も大事。でもできる限りいつまでもサッカーを続けていきたいというのが、女子サッカーの本当の姿」と江川さん。女子サッカーへの理解を広めたいという思いが、愛称誕生につながった。
明日から厳しい五輪予選に突入するなでしこジャパン。その戦いを、江川さんを含め、日本中の「なでしこ」たちが見守っている。
江川純子さん
(2011年8月31日)
ワールドカップ予選では、いろいろと予測不能なことが起こる。
06年ドイツ大会の予選では、北朝鮮とのアウェーゲーム中立地でのバンコクで、しかも無観客で行われた。
そしてこんどは、9月2日にスタートする14年ブラジル大会のアジア3次予選で日本と同組だったシリアが失格になり、代わってタジキスタンが出場することになった。初戦のわずか2週間前、8月19日の決定だった。
シリアはタジキスタンとの2次予選2試合にFWジョージ・ムラド(28)を起用した。ホームの第1戦(7月23日)ではフル出場して先制点の活躍。5日後の第2戦では交代出場し、相手オウンゴールを誘って勝利に貢献した。ところがこのムラド、シリア代表の出場資格を完全には満たしていなかったのだ。
キリスト教徒であるシリア人の両親の下、82年9月18日、レバノンのベイルートで生まれる。幼いころに家族でスウェーデンに移住、長じてサッカー選手となる。
189センチ、88キロの恵まれた体。ヘディングも強いが足元のテクニックも高いムラドは、早くから「イブラヒモビッチ(現ACミラン)二世」と注目され、03年にはスウェーデンのU-21代表、05年にはA代表に選出された。この年の1月22日、ロサンゼルス(アメリカ)での韓国戦でデビュー、4日後のメキシコ戦にも出場した。
だがその後スウェーデン代表に選ばれることはなかった。ことしポルトガルからイランの強豪「メス・ケルマン」に移籍金なしで移籍した彼に、シリア協会が目をつけた。
依頼を受けたスウェーデン協会は、二重国籍をもつムラドがシリア代表としてプレーすることを承認。そして6月29日、イラクとの親善試合で、彼は両親の祖国の代表としてデビューを飾った。
従来、国際サッカー連盟(FIFA)は代表選手の国籍変更を認めなかったが、近年、二重国籍保持者に限りその規制を緩め、ムラドがシリア代表になるのは不可能ではなかった。だがそれには当該協会同士の合意だけでなくFIFAへの申請と許可が必要だった。2次予選に向け時間を惜しんだシリア協会はそれを怠ったのだ。
「金曜の夜、寝ていたときにシリア協会のサリア会長から電話を受けた。(シリアが失格になったと聞いて)その晩は一睡もできなかった」とショックを隠せないムラド。
「ウズベキスタン、北朝鮮、そして何より日本との対戦が楽しみだったのに...」と、唇をかんだ。
(2011年8月24日)
先月からずっと「女子サッカーの話をしよう」状態だったが、この際、もう1テーマだけ書いておきたい。男女平等の話だ。
サッカーは、ずっと「男のスポーツ」と考えられてきた。もう27年間も女子サッカーチームの監督をしている私自身、実際に女子の試合を見るまでは女性には向かない競技と思っていたのだ。
1960年代に日本サッカー界の「長老」と呼ばれる人びとの間で「女子サッカー推奨論」が叫ばれたことがあった。だがそれは男子サッカーの普及のためだった。「女性はやがて母親になる。母親がサッカー好きなら息子もサッカーをするだろう」という論理だ。
笑ってはいけない。なでしこジャパンの快挙を見てなお、そういうことを言う人びとが絶えないのである。
サッカーに夢中になるのは、サッカーが楽しいからだ。その楽しさは、男でも女でも変わりはない。
ところが現在の日本では、サッカーが好きになった少女たちがその思いを実現できる可能性は実に小さい。小学生なら少女チームもあるし、男の子のチームにまざってプレーすることもできる。しかし「女子サッカー部」のある中学校などほとんどないからだ。
学校側からすれば、新しい運動部をつくるには顧問の先生だけでなくグラウンドも必要だ。広くない校庭を野球部とサッカー部とテニス部で使っている状況では、どう逆立ちしても女子サッカー部など無理―となる。
いまでは中体連主催の大会には女子選手も出場できることになっている。だが男女の体格差が顕著になる中学生年代でいっしょにプレーさせるのはけっして「平等」ではない。
男子サッカー部だけがあって女子サッカー部がない状態は、「サッカーを楽しむ」という点に関して男女平等が実現されていないことになる。義務教育の場である中学校で、日本国憲法第14条「法の下の平等」が守られていないのだ。
サッカーに限った話ではない。野球では、少女たちが夢をかなえるのはサッカー以上に困難なのではないか。
中学校に「女子サッカー部」や「女子野球部」をつくるのが簡単ではないのは理解できる。しかし「無理」で止めてしまうのではなく、なんとか少女たちの思いに応えようという努力や工夫を惜しまないでほしい。
サッカーでも野球でも、好きになった競技にかける夢には、男女の違いなどまったくないからだ。
(2011年8月17日)
「澤(穂希)さんのようになりたい」
日本中の「なでしこ少女」たちが夢をふくらませている。試合前に花束を贈ったのは、全員、澤のように髪を「ポニーテール」に結んだ小学生低学年の女の子たちだった。
7月17日に行われた女子ワールドカップの決勝戦、日本の先発11人で長髪だったのは、澤とDFの鮫島彩のふたりだけ。一方アメリカは、GKソロを筆頭に8人が長髪をポニーテールに結んでいた。
ポニーテールはアメリカでは「サッカー少女」の代名詞だ。女の子たちに最も人気があるサッカー。数百万人にものぼると言われるプレーヤーの多くがポニーテール姿なのだ。
日本では、小学生はともかく、中学生以上になると女子サッカー選手の圧倒的多数が短髪になる。競技イメージを上げるため「短髪よりポニーテールがいい」と意見が出たこともあったが、まったく変化はなかった。
髪の長さは個性や好みの問題であり、長くしようと短くしようとまったくの自由だ。流行もある。技術・戦術や体力が、髪の長さで変わるわけでもない。だが私には、日本の女子サッカー、いや日本の女性のスポーツ全般がかかえる問題の一端が、髪の長さに表れているのではないかと思えてならない。
選手と指導者、そして場所さえあればスポーツには十分--。それが従来の日本のスポーツ行政の考えだった。
だが女子のスポーツには清潔で安全な更衣室が必要だ。そしてただ着替えられるだけでなく、シャワーもほしい。夏期に大汗をかいたあとで髪も洗わずに電車に乗るのがいやで短髪にしている女子スポーツ選手が少なくないのではないか。
いざとなれば男子は外で着替えることもできる。髪も、中高生なら「スポーツ刈り」のように短くして、水道で洗えるだろう。しかしどちらも、女子では不可能だ。
なでしこジャパンの多くが短髪だった背景のひとつに、日本のスポーツ施設の劣悪さ、それを生んだスポーツ文化の貧困、そして女性がスポーツに取り組むことへの無神経なまでの理解のなさがあると、私は思う。
サッカー少女が何百万人いてもみんな芝生のグラウンドでプレーでき、その後にはシャワーを浴びて帰宅できるアメリカ。土のグラウンドでプレーし、トイレで着替え、シャワーも浴びずに電車に乗らなければならない日本。その違いが、「ポニーテールと短髪」に象徴されているように思えてならないのだ。
(2011年8月10日)
「なでしこフィーバー」が止まらない。
今週日曜、なでしこリーグのINAC神戸対岡山湯郷の一戦にはなんと2万1236人もの観客が集まった。
この週末に行われたJリーグ全19試合でこの数字を上回ったのはC大阪対鹿島(2万8039人)だけ。ことし女子ワールドカップの32試合に総計85万人を集めたドイツ。その女子ブンデスリーガでトップのフランクフルトでさえ、昨シーズンのホームゲーム11試合の総計で2万0951人。INAC神戸対岡山湯郷に及ばない。「2万人」がどれだけすごい数字かわかる。
ただしこの試合は入場無料。入場料収入はゼロである。有料試合にするとスタジアム使用料が急騰するため、なでしこリーグでは総試合の3分の2ほどが入場無料となっている。これでは選手たちがサッカーで生計を立てる(プロになる)ことなどできない。
もちろんプロと言っても実情はさまざま。1999年のスコットランド・リーグカップ1回戦では、入場者なんと69人という試合もあった。女子サッカーではない。ホームチームは2部ながられっきとしたプロだった。
ホームチームはクライドバンク。役員は「帆船レースのスタート日と重なったから」と弁明したが、実はサポーターの組織的ボイコットが原因だった。
数年前にオーナーがスタジアムを売却、以後隣町で試合をしていたのだが、その契約が切れ、こんどは20キロも離れたグリーノックという町のスタジアムを借りることになった。それへの反発だった。
だがプロはプロ。入場料ひとり10ポンド(当時のレートで約1900円)。69人から得られたのはわずか13万円あまりだったが、それでも貴重な収入だった。
これまでのなでしこリーグの観客数は1試合平均数で千人に満たなかったという。だからと言って入場無料ではチームもリーグも成長しない。入場料を払ってもらうことで、リーグもチームもそして選手たちも、これまで以上の責任を負うことになる。その責任感が成長の原動力となる。
そのためには競技場を所有する自治体などの課金制度の改善が不可欠だ。安心して有料試合にできる使用料にする必要がある。なでしこジャパンに関心が集まっているいまこそ、そうした働きかけの好機ではないか。
世界の例を見ても、女子サッカーが簡単にプロになれるとは思えない。だが有料にすることで得られる資金は、競技環境改善の後押しになるはずだ。
(2011年8月3日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。