ハンス・オフト氏(64)が初めて日本のサッカーと出合ったのは、79年、31歳のときだった。オランダサッカー協会の育成コーチとして、短時間、欧州遠征にきた日本の高校選抜を指導したのだ。
日本選手の第一印象は「ナイーブ(幼稚)」。すばしっこいが、同時に現代のサッカーに必要なスピードの要素がいくつも欠けていた。その結果、試合のなかで際限なくミスを犯していた。そのイメージは82年に初めて日本のクラブチームを指導したときも、そして92年に日本代表チームの監督に就任したときも変わらなかった。
日本のプロサッカー(Jリーグ)が実質的にスタートしたのが92年。来年はそれからちょうど20年となる。その10年以上前から日本人を指導してきたオフト氏の目には、日本のサッカーの「進歩」はどう映っているのか、12月上旬、来日中だった同氏に話を聞いた。
「サッカーで必要とされるスピードには4つの要素がある」と、オフト氏は説明する。
「走る速さ」「ボール扱いの速さ」「考える速さ」そして「決断の速さ」だ。プロ化前の日本のサッカーは、強いハートと走る速さはあったが、残りの3要素が欠けていた。だから日本代表でも基礎的な練習から始めなければならなかった。
わずか3、4メートルの距離でも、相手の動きやそのスピードに合わせるには、タイミングもコースも強さも完ぺきなパスでなければならない。当時の日本人選手に欠けていた3要素が必要だった。できなかったから、反発を買いながらも反復して基礎練習を行った。
考え、決断する速さを上げるために、選手同士の「アイコンタクト」も繰り返し要求した。目と目を合わせ、言葉を使わずにコミュニケーションを取る重要な方法だ。
92年、前年とほとんど選手が変わっていないのに日本代表が急激に勝てるようになったのは、オフト氏の指導によって「総合的なスピード」という現代サッカーの重要な要素が向上した結果だった。
「その後、Jリーグに優秀な選手がきてボール扱いの速さや判断の速さを学び、日本人選手のレベルは飛躍的に上がった」とオフト氏。と同時に、「世界に追いつくには、まだすべての面で改善が必要」と力説した。
クラブワールドカップでバルセロナMFシャビのプレーを見ながら、オフト氏の言葉がよみがえった。プロ化20年を前に、さらなる努力を強くうながされた思いがした。
(2011年12月28日)
「バルセロナは宇宙人だと思いますか」
18日に行われたFIFAクラブワールドカップ(FCWC)決勝戦。試合後の記者会見で、ある仲間の記者は完敗を喫したサントスの監督にこう質問しようと思ったという。
それほどまでにバルセロナは別格、異次元の存在だった。シャビ、イニエスタ、メッシといった選手たちがテンポよく短いパスを回す様子は、サッカーの概念さえ変えかねないものだった。
サッカーは「ミスのゲーム」である。
どんな選手でもミスをするからプレスをかける意味がある。ところがバルセロナはそのミスが出る確率が非常に低い。サッカーではなくハンドボールを見ているようだった。
「宇宙人と思うか」と聞こうとした友人の気持ちはよくわかる。40年ほど前、テレビで初めてブラジルのサッカーを見た私たち日本人のショックもまったく同じだったからだ。
「これが同じ人間のすることか」―。
70年ワールドカップで全勝優勝を飾ったブラジルは、ペレ、トスタン、リベリーノ、ジェルソン、ジャイルジーニョと、この国のサッカー史のなかでも最高の名手を並べていた。そして彼らが「ジョゴ・ボニート(美しいゲーム)」と呼んだサッカーが生まれた。
東京オリンピックを契機にサッカーという競技がようやく知られ始めたころ、一部の地域を除き、日本のサッカーはやみくもに前にけって走るという時代だった。「ドリブル」とは小さくけりながら前に進むこと。フェイントも何もなかった。
だがそんな時代に、「日本の子どもたちにも、ペレのような技術をつけさせたい」と指導を始めた人が全国各地にいた。世界のサッカーの情報においては「鎖国」時代と大差がなかったころ。彼らは創意工夫して練習方法を考え、子どもたちを導いた。当時からすれば「宇宙人」のようだったブラジルをまじめに目指した指導者たちの情熱こそ、間違いなく、現在の日本サッカーの礎だった。
そしていま、新たな目標はバルセロナだ。シャビ、イニエスタであり、メッシだ。
絶対に不可能ではない。40年も必要としない。70年代はじめ、日本にはサッカーボールが1万個程度しかなかっただろう。いまは数百万個ある。施設も、何よりサッカーに情熱を傾ける子どもたちの数も激増した。必要なのは指導者自身の夢と情熱、そして氾濫する情報に惑わされない創意工夫に違いない。
(2011年12月21日)
日本で開催されているFIFAクラブワールドカップ(FCWC)、今夜の準決勝で柏レイソルが強豪サントス(ブラジル)に挑戦する。1回戦はオークランド(ニュージーランド)に2-0で快勝、準々決勝ではモンテレイ(メキシコ)に1-1からPK戦4-3で競り勝った。
この1年間の柏の躍進には目を見張るばかりだ。J1昇格1年目ながら開幕から首位を快走。3回首位から落ちたが3回取り戻し、10月から守り通した。
34戦して23勝3分け8敗。注目すべきは、負けや引き分けの直後の試合をすべて勝ったことだ。連続して勝ち点を落としたことが、シーズンを通じていちどもなかった。
「論理的な結果」と、ネルシーニョ監督(61)なら言うだろう。「勝てるチーム」こそ、彼が目指したものだったからだ。
近年、日本では「良いサッカー」が多くの指導者のテーマになっている。「人とボールが動くサッカー」と表現されることも多い。選手同士が連係して動き、どんどんパスが回って攻撃を展開するサッカー。そうしたプレーが日本人に適しており、勝利への道と信じられているからだ。
「負けたが、うちのほうが良いサッカーをしていた」。試合後そう語る監督までいる。
だがブラジル人のネルシーニョにはそんな目標はない。彼は「勝つ」ことを唯一のテーマとする。そしてポジショニング、運動量、パスの精度など、勝つための「スタンダード(標準)」を具体的に示し、それを実現することを要求する。
試合では、しっかりと守備をすること、すなわち相手に得点を与えないことからスタートする。プレーがあらゆる面で「スタンダード」に達したら、思い切って攻勢に転じる。
結果として、ことしの柏は「良い」どころか、すばらしいサッカーを見せて優勝した。故障しにくいコンディションをつくったメディカル面の充実、チーム内競争の激化など、勝因はいくつもある。だが根本的には、「勝つ」ためのチームづくり、選手づくりに徹したことではないか。
そして海外の強豪を相手にしたFCWCでこそ、柏の本当の強さが表れた。準々決勝ではキックオフから30分間は劣勢に立たされたが全員で必死に守り、そこから反撃に転じて先制点を挙げた。
「勝利」という唯一の目的の下に結束し、選手個々の良さを有機的に結び付け、効果的に使いきる柏に、考えさせられる点は多い。
(2011年12月14日)
先週水曜日に国立競技場で行われた女子のクラブ国際試合、INAC神戸対アーセナル(イングランド)は立派なゲームだった。
ともに攻撃的なプレーでスタンドを沸かせ続け、女子のサッカーが「見るスポーツ」として十分成り立つことを証明した。観客1万1005人。収入は東日本大震災の復興支援に回されるという。
アーセナル・レディースは1987年創立。イングランドの女子サッカーをリードする存在だが、この国の女子が欧州の強豪となったのはここ10年間ほどのこと。発展が遅れたのは「暗黒の半世紀」とでも呼ぶべき時代があったせいだ。
いまから91年前、1920年の12月26日、リバプールで行われた女子サッカーの試合に5万3000人もの観客が集まった。試合の目的は終わったばかりの第一次世界大戦の犠牲者への支援金集め。今日の金額にして実に5000万円を寄付することができた。
1914年に大戦が勃発。戦場に出た男性に代わって女性が工場労働を担うようになった。昼休みの楽しみとしてサッカーが始まり、やがて各地にチームができて活発な交流試合が行われるようになるとたちまち人気が出て、スターも生まれた。当然アマチュアで、試合はチャリティーのために行われた。
一部の人びとにとっての「問題」は、戦争が終わって男たちのプロサッカーが再開しても、女子サッカーの人気がいっこうに衰えないことだった。男子プロクラブを運営する役員たちは危機感を募らせ、卑劣で陰湿ないやがらせを始める。
寄付に回す金額が不明朗といううわさを流す。医師を雇って「女子サッカー選手は子どもを産めない」などという根拠のないレポートを発表させる...。
そして21年12月、イングランドサッカー協会は女子チームにグラウンドを使わせてはならないという通達を出す。この禁止令が解除されたのが70年。まさに「暗黒の半世紀」だったのだ。
2008年、イングランド協会は禁止令に関する公式の謝罪を発表、発令前のトップスターだったリリー・パーを女子選手として初めてこの国の「サッカーの殿堂」に加えた。禁止令は「サッカーの母国」の大きな汚点に違いないが、ファンも「歴史は清算された」と感じたという。
先週、国立競技場で見せたアーセナルの躍動、とくに若い選手たちの活躍は、負の歴史を超え、未来への希望を強く感じさせるものだった。
(2011年12月7日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。