サッカーの話をしよう

No.886 サッカーの常識を疑え

 いつからこんな形がまかり通るようになってしまったのか―。反則があったときの守備側(反則した側)の選手の態度だ。
 ルールには、守備側は「インプレーになるまで9・15メートル(10ヤード)以上ボールから離れなければならない」(第13条)とある。誰でも知っている規則だ。
 だが実際には、守備側のひとり(多くは反則をした選手自身)がさっとボールの前に立つ。攻撃側が素早くFKを行うのを妨害し、味方が守備位置につく時間をかせぐためだ。
 主審が注意すると、右手の親指、人さし指、中指をまとめ、口の前にもっていく身ぶりをする。「主審が笛を吹くまでFKは行われないのか」という確認だ。主審が認めると、ようやく離れていく。
 ルールでは、警告となる7項目の反則(第12条)に、次の2つが明記されている。
 「プレーの再開を遅らせる」
 「コーナーキック、フリーキックまたはスローインでプレーが再開されるときに規定の距離を守らない」
 だが明白な規定にもかかわらず、ときには「笛でFKを止めてくれ」と、本末転倒のことを言わんばかりの態度まで見せても、主審は容認している。
 主審だけでなく攻撃側の選手たちまで相手の行為に寛容なのは、「お互いさま」だからに違いない。立場が逆転すれば、自分たちも同じことをする。すなわち、ルールに何と書かれていようと、これが「サッカーの常識」なのだ。
 だが忘れてはいけない。サッカーは2つのチームと審判だけのものではない。
 観客の多くは「サッカーの常識」を常識として受け入れ、何も感じていないかもしれない。しかしすばやくFKが行われてスピーディーに攻撃が展開されるのを妨害されていら立つ人もいるに違いない。そしてテレビの前では、卑劣な行為がまかり通るサッカーにうんざりしている人が無数にいるだろう。
 毅然(きぜん)とした主審の態度が不可欠だ。注意しても離れない選手、意図的にボールに近寄る選手を野放しにしてはいけない。
 だが何よりも、反則をとられたら相手の素早いFKにも対応できるよう、選手が即座に切り替え、すみやかにボールから離れる習慣をつける必要がある。そうした習慣は、選手やチームを戦術的にも進化させるはずだ。
 そんな試合が多くなれば、「サッカーの常識」と思っていたものがいかに醜いものだったかわかるはずだ。
 
(2012年5月30日)

No.885 日本サッカー史上最高の選手 釜本邦茂

 このところ夕刊がくるのが待ち遠しい。1面の『この道』の欄で釜本邦茂さんが取り上げられているからだ。
 時代が違うチームや選手を比較するのは簡単ではない。「日本の歴代ベスト11を選べ」と求められたら非常に困る。だが「日本の歴代ナンバーワン選手」と言われたら、「釜本邦茂」と即答できる。彼はそれほど卓越したストライカーだった。同時代の「世界のベスト11クラス」だった。
 1964年に19歳で日本代表にデビュー。メキシコ五輪(68年)の得点王(7得点)はよく知られているが、国際Aマッチ76試合で75得点という記録もすごい。相手がアジアだろうと欧州だろうと得点率は落ちなかった。
 私が初めて生で釜本さんのプレーを見たのは67年9月、日本リーグの東西対抗(オールスター)だった。西軍は東洋工業10人にヤンマーの釜本さんを加えた変則編成だったが、日本代表選手をずらりと並べた東軍に6-2で大勝。釜本さんは3点を叩き込んだ。
 だがこの当時、専門家の間では、釜本さんの評価は意外に低かった。大型FWだった釜本さん。プレーのスピードがなくても国内では得点を量産することができた。だがそれでは世界の舞台では通じないというのだ。
 ところが翌年、評価は一変する。西ドイツへの2カ月間の「サッカー留学」から帰国した釜本さんは、プレーが驚くほど速くなっていたのだ。ドリブル、パス、シュート...。流れるように美しかった。それこそ「ワールドクラス」への最後の脱皮だった。それが日本にメキシコ五輪の銅メダルをもたらした。
 69年、まさに絶頂期にあったこのエースを肝炎が襲わなかったら、翌年には日本のワールドカップ初出場が実現していただろう。そしてその後の日本のサッカーの歴史だけでなく釜本さんの人生も大きく違ったものになっていたに違いない。
 病気から完全にコンディションが戻るには2年間を要した。「完全復活」の証明は、やはりゴールだった。日本鋼管との試合、相手ボールを奪ってターンしながら放った左足シートは、30メートルを飛び、まさに弾丸のようにゴールに突き刺さった。
 71年4月18日、横浜の三ツ沢球技場。薄曇りの日曜日だった。大学2年だった私は、釜本さんと同時代に生きた幸運に感謝した。日本サッカーの「釜本時代」は、その後も10年間以上続く。『この道』の連載が終了したら、釜本さんについてもういちど書きたい。
 
(2012年5月23日)

No.884 史上最高の試合

 世界の注目下、UEFAチャンピオンズリーグ決勝が今週土曜日(19日)にミュンヘンで行われる。バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)対チェルシー(イングランド)。57年の大会の歴史で、決勝戦をホームスタジアムで戦う栄誉に浴したのはバイエルンでわずか4チーム目だ。
 さて過去56回の決勝戦のなかに「史上最高の試合」と呼ばれるものがある。1960年にスコットランドのグラスゴーで行われたレアル・マドリード(スペイン)対アイントラハト・フランクフルト(西ドイツ)だ。
 会場はハムデン(ハンプデン)パーク。ことしのロンドン五輪で日本男子がスペインと初戦を戦うスタジアムだ。現在は収容5万2103人だが、以前は欧州最大のスタジアムとして有名だった。60年の決勝戦には、実に12万7000人もの観客が詰め掛けた。
 全身白のレアルは、第1回大会から優勝し続け、5連覇を目前にしていた。アルゼンチンのディステファノ、ハンガリーのプスカシュ、そして地元スペインの星ヘントと、前線に世界的な名手を並べ、史上最初の「銀河軍団」だった。
 一方、赤いユニホームのアイントラハトは全員ドイツ人。西ドイツ代表が数人いるだけだった。ブンデスリーガの誕生(63年)前、選手は完全なプロでさえなかったのだ。
 アイントラハトはその名(「協調」の意)のとおり見事なチームプレーで対抗した。前半18分には35歳のクレスが先制点を決め、さらに攻め立てた。
 だがレアルは慌てなかった。27分にブラジル出身のカナリオのクロスをディステファノが決めて同点。前半終了までに3-1と逆転してしまう。
 後半にはいるとプスカシュが3連続得点。観客はレアルの見事な攻撃に酔った。だがアイントラハトは試合を投げない。そして後半27分に1点を返す。
 ここからのレアルの攻めがすごかった。キックオフから中央で短いパスを5本つなぐと、ボールを受けたディステファノが突然加速し、7点目を決めてしまったのだ。だがアイントラハトはシュタインがもう1点返し、結局7-3で終了した。
 相手を恐れず、あなどらず、互いに最後までゴールを目指して全力で攻め合った決勝戦は、本当に美しい試合だった。両チームを称える盛大な拍手はいつまでもやまなかった。
 合わせて10得点は無理でも、今週土曜日の試合も「攻め合う決勝戦」が見たいものだ。
 
(2012年5月16日)

No.883 スローインの再考を

 イングランドのプレミアリーグでストークと対戦するチームは、自陣深くで追い詰められたとき、スローインにするよりコーナーキック(CK)にすることを選ぶ。ストークのMFデラップ(35)の40メートル級の超ロングスローを恐れているのだ。
 あるシーズンには、チームが記録した全38ゴールのうち9点がデラップのロングスローから生まれたものだった。CKからの得点はわずか4点だった。
 雑なスローインをするチームが少なくない。女子のなでしこリーグ、Jリーグ2部、そしてドイツのブンデスリーガと、レベルの違う3試合を調べて驚いた。スローインからシュートチャンスができるかパスが2本以上つながってキープできれば成功という基準で見ると、成功率は3試合ともほどんど同じ50~60%だったのだ。
 どのレベルでも最も多いのは、タッチライン沿いに前、あるいは斜め前に投げ、長身選手にヘディングでそらさせて攻撃しようというものだった。成功するのは10回に1回程度なのに、選手たちは懲りずに繰り返す。
 違いは、試合のレベルではなく、個々のチームの取り組み方にあるようだ。ボール保持を重視し、パスにひいでたチームは、スローインも成功率が高い。なでしこリーグのINAC神戸は成功率100パーセントだった。
 現在の世界で「ボール保持」と言えばスペインのFCバルセロナだが、チェルシー(イングランド)とのUEFAチャンピオンズリーグの準決勝では、予想どおり、19回のスローインをすべて成功させていた(相手は14回で成功わずか4回)。
 成功率の高いチームには2つの共通点がある。第1に外に出たボールを拾った選手が時間をかけずにすぐに投げること。そして第2に、前方や斜め前ではなく、横や後方に投げることだ。受ける選手がタイミングよくフリーになることで、この2つの要素が生きる。
 ボールが出ると必ずサイドバックに渡して投げさせるようなチームは、時間がかかりすぎ、近くの味方はマークされてどこにも投げられないという状況に追い込まれる。揚げ句は「10に1つ」の長身選手の頭めがけたボールということになる。
 「ボールを味方につなげ、試合のなかで自分たちの攻撃意図を実現するための最も重要な道具」とパスを定義するなら、スローインもパスの一形態と位置付けるべきだろう。その成功不成功が半々でいいのか、冷静に考える必要がある。
 
(2012年5月9日)

No.882 東北旋風

 「東北旋風」だ。
 4月28日、Jリーグ1部(J1)で首位を独走するベガルタ仙台は新潟に遠征して1-0の勝利。8試合で7勝1分けの無敗、2位との差を勝ち点6に広げた。2日後には2部(J2)2位のモンテディオ山形が東京Vに2-0で快勝。首位湘南と勝ち点で並んだ。
 J1が18、J2が22クラブとなった今季、Jリーグは日本の全47都道府県のうち29都道府県に広がっている。そのなかで東北は「Jリーグの普及が最も遅れた地域」である。6県のうち、宮城県と山形県にそれぞれ1つずつしかクラブがないからだ。関東(8都県のすべてに計16クラブ)と比較すると、東北の「過疎度」がわかる。
 ところがその2クラブが、それぞれJ1とJ2でリーダーの役割を演じている。しかもともにスターと呼べる選手などもたず、チーム一丸のハードワークで勝利を積み重ねているのだからすごい。
 仙台を率いるのは就任5年目の手倉森誠監督(44)。山形の奥野僚右監督(43)はJ1から降格したチームを引き継いだばかり。ともに選手を徹底的に鍛え、前線からの厳しいプレスとボールを奪ってから時間を無駄にしないシンプルな攻撃で勝利を重ねている。
 先週新潟と対戦した仙台は、相手の堅固な守備に苦しんだ。だが後半44分、最後の最後にPKを得て決勝点。「辛抱強さとしたたかさで取った、大きな大きな勝ち点3」(手倉森監督)だった。
 そして30日には、東京Vの猛攻にさらされた山形が、前半40分のこの試合最初のシュートを相手GKにはじかれて得た最初のCKから先制。後半はさらに攻め込まれながらも、自陣で得たFKをGKが長くけり、あきらめずに走り込んだFWが叩き込んで勝利を決定づけた。「我慢することでひとつのチャンスをものにすることができた」と、奥野監督は選手たちの献身的な攻守をほめた。
 両チームに共通するのは「超人的」と言っても過言ではないがんばりだ。相手を追い詰める迫力、相手シュートに体を張る選手の多さ、そしてチャンスと見たときの驚異的な走り込み。ひとりのがんばりが周囲に伝わり、文字どおりチーム一丸の攻守がキックオフから終了のホイッスルまで続く(だからこの記事では意図的に選手の個人名を省いた)。
 それが「東北魂」なのか、私にはわからない。しかし昨年来の東北の人びとの生きざまが彼らに何らかの力を与えていることは、容易に想像がつく。
 
(2012年5月2日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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