本紙夕刊『この道』の釜本邦茂さんのシリーズも、明日で最終回になるという。
私がサッカーの取材を始めたのは73年、釜本さんが29歳のとき。ひと言で表せば「怖い人」だった。
身長179センチ。威圧感があった。質問すると、大きな目をぎょろりと見開いてこちらを見据え、短く、明快な単語を並べた。若造記者に太刀打ちできる相手ではなかった。だが釜本さんを身近に知るジャーナリストの賀川浩さんは、「豪快そうに見えるが実際には非常に繊細」と語る。
『この道』の第53、54回(7月6日、7日付け)に、現役引退のころのことが書かれている。84年元日の天皇杯決勝戦で日産に敗れて決断したようにも読めるが、もう少し前だったようだ。
釜本さんは78年に34歳でヤンマーの選手兼監督に就任、80年には4回目の日本リーグ優勝に導いた。だが82年5月に右のアキレスけんを切り、83年11月に復帰したが思うようにプレーできなかった。
年末の天皇杯でヤンマーは奮闘し、6年ぶりに決勝戦進出。釜本さんはどの試合も後半途中から出場し、日本鋼管を1-0で下した準決勝では決勝点のアシストも記録した。
元日の国立競技場を現役最後の舞台に―。釜本さんの脳裏に、73年元日に三菱に優勝をもたらして引退した杉山隆一さんの姿が浮かんだかもしれない。
しかし相手は日本代表に5人も6人も送り出す新進気鋭の日産。ヤンマーは立ち上がりから守勢一方となった。釜本さんは後半立ち上がりからピッチに立ったが、後半に2点を奪われ、4回目の優勝はならなかった。
釜本さんが引退を発表したのはそれから1カ月半もたった2月13日のことだった。
「日産を気遣ってのことだったんだ」
意外な話を聞いたのは、何年も後だった。話してくれたのは、当時日産の監督だった加茂周さん(後に日本代表監督)である。
「決勝戦後に引退を発表したら、新聞記事はそれに集中してしまい、日産の初タイトルなど吹き飛んでしまう。それを考え、彼は何も話さずに国立競技場を後にしたんだ...」
実は、加茂さんは釜本さんの引退の意思を察し、決勝戦の試合中であっても、彼が交代で退出する場合には全員で並んで見送れと、試合前に日産の選手たちに話してあった。
そんな相手監督の気持ちにさりげなく応える武士のように繊細な心遣いこそ、「釜本邦茂の真実」だった。
(2012年7月18日)
ゴール判定装置の正式認可(7月5日)はことしのサッカー界の最大のニュースに違いない。一世紀半のサッカーの歴史のなかで、一部にせよ、初めて判定が機械に委ねられることになったからだ。
一方日本国内の話題は、2週間後に開幕するロンドン五輪の男女サッカーに集まっている。だが私は、試合結果さえ報道されないひとつの大会が気になっている。「U-22アジア選手権」の予選だ。
インドネシア、スマトラ島中央部のプカンバルに6チームを集めて行われている予選E組。日本はマカオに6-0、シンガポールに3-1と連勝でスタートを切った。
生まれたばかり、今回が第1回の大会である。2年ごとに開催され、偶数年に予選、奇数年に16チームによる決勝大会が行われる。より重要なのは、偶数回の大会が五輪予選を兼ねるということだ。
ロンドンまでの4大会、五輪のアジア最終予選は3グループに分けてホームアンドアウェーで行われてきた。しかし次回、16年リオデジャネイロ大会は、15年に行われる第2回U-22アジア選手権がそれにとって代わる。
いま予選が行われている第1回大会の年齢制限は、来年22歳だから91年以降生まれの選手。しかし日本は2歳年下の93年以降生まれ、すなわち「U-19」で出場している。
主力がJリーグで試合に出場している「U-21」年代の代表結成が難しいという事情がある。そこで11月のU-19アジア選手権(兼U-20ワールドカップ予選)への準備を進めていたU-19日本代表(吉田靖監督)を送り出すことにした。
しかし93年以降生まれは、第2回大会、すなわち次回のオリンピック予選の制限年齢でもある。現在のU-19がそのまま「リオ五輪候補」ということになる。ことしの2回にわたるアジア予選、来年のU-20ワールドカップ(トルコ)とU-22アジア選手権...。豊富な国際経験が、リオ五輪、さらにその後のワールドカップで活躍する選手を育てる。
マカオ戦で3点を叩き出したFW鈴木武蔵(新潟)は、ジャマイカ人を父にもつ大型選手。その鈴木が負傷で離脱したが、FW久保裕也(京都)が追加招集され、今後の試合で攻撃を牽引する。
予選は10日の東ティモール戦に続き、12日のインドネシア戦、15日のオーストラリア戦と、強豪との対戦が残る。「ロンドン」目前、早くも「リオ」への道を歩み出した若い世代に注目したい。
(2012年7月11日)
ポーランドとウクライナで開催されていた欧州選手権がスペインの見事な連覇で終わるのを待っていたかのように、7月2日の午後、男女のロンドン・オリンピック代表メンバーが発表された。
「アテネ経由ドイツ行き」
オリンピックというと、反射的にこの言葉が思い浮かぶ。04年のアテネ大会で男子代表を率いた山本昌邦監督が、日々選手たちに掲げていたテーマだ。
オリンピックは原則として23歳以下の大会。けっして最終目標ではない。2年後のドイツ・ワールドカップで日本代表にはいって活躍するための通過点ととらえなければならない―。そんなメッセージだったのだろう。
残念ながら、「アテネ経由ドイツ行き」は「オーバーエージ」の選手を除くとDF茂庭照幸とDF駒野友一の2人だけだった。
ところが10年ワールドカップ南アフリカ大会では23人の日本代表中6人が「アテネ組」だった。4年遅れたがアテネでの苦闘(1勝2敗)はしっかりと選手たちの血となり、肉となっていたのだ。
続く08年の北京オリンピックで反町康治監督率いる日本男子は3戦全敗。世界との差をまざまざと見せつけられた。ところがこのチームから4人もの選手が2年後のワールドカップに出場し、なかでもMF本田圭佑は攻撃の中心となって2得点の大活躍を見せた。
そして大会後、日本代表にザッケローニ監督が就任すると、北京で涙を流した18人のうち13人もの選手が代表に名を連ねるようになる。オリンピック代表が6年後のワールドカップで主力になるという図式が、どうやら定着しつつあるようだ。
今回のオリンピックでも、男子は苦戦を予想されている。スペイン、ホンジュラス、モロッコとの戦いを勝ち抜いて準々決勝に進めると予想する人はけっして多くはない。
徳永悠平と吉田麻也という2人の「オーバーエージ」効果で守備強化に成功すれば、上位進出は十分可能と私は考えている。しかし若い選手たちにとってより大事なのは、オリンピックでの結果より「その後」であることに変わりはない。今回18人の枠から落とされた選手も同じだ。
このオリンピックが若い選手たちにどんな試練を与え、どう成長させ、そして2年後、6年後のワールドカップで彼らがどのように中心選手となっていくか―。それを想像しながら見るのも、楽しみ方のひとつではないだろうか。
(2012年7月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。