サッカーの話をしよう

No.909 「伝説」に近づいたクローゼ

 06年ワールドカップ得点王のドイツ代表FWミロスラフ・クローゼ(34)は「伝説」になりつつある。
 彼は現在もドイツ代表のエースであり、通算126試合目(歴代2位)となった10月のスウェーデン戦でも2得点を記録、通算67得点として「不滅」と言われたG・ミュラーの68得点に肉迫した。
 ワールドカップでも3大会、19試合に出場して通算14得点。ロナウド(ブラジル)の最多得点記録に1点差。ドイツ代表に彼を脅かすFWがいないいま、14年ブラジル大会での新記録樹立は十分可能と見られている。
 だが彼の「伝説」は記録だけではない。ことし9月26日、イタリア・セリエAで見せた彼の行為こそ、その表現に値する。
 彼が所属するラツィオがナポリに乗り込んだ試合。前半4分の右CK、クローゼが走り込む。次の瞬間、ボールはゴール内に転がり込んだ。得点を宣言するバンティ主審。だがナポリの選手たちが猛烈に抗議する。
 実は、ボールは相手と競りながら不用意に挙げたクローゼの右手に当たってゴールにはいっていた。しかし主審もゴールのすぐ横にいた「追加副審」も、それを見ることができなかったのだ。
 仲間の歓喜の輪からクローゼが抜け出したのはそのときだった。固い表情でバンティ主審に歩み寄ると、彼は「僕の手に当たってはいった」と話した。
 試合は再開されていなかったから、バンティ主審は判定を変更することができた。ルールどおりなら、手を使って得点したクローゼにイエローカードが出されてもおかしくなかったが、38歳の国際主審はそんな野暮ではなかった。クローゼに差し出したのは、自分の右手だった。
 主審と握手した後、クローゼはナポリの選手たちに囲まれて称賛を浴びた。試合はナポリが3-0で圧勝したが、話題はクローゼの行為に独占された。
 クローゼはブレーメンに所属していた05年にも同じようなことをしている。相手GKが彼に反則をしたとしてPKが宣告されたとき、クローゼは「相手GKが先にボールに触れていた」と主審に告げ、PKの判定とGKへのイエローカードを取り消させたのだ。
 「テレビの前で多くの少年少女が見ている。僕たちは彼らに手本を示す責任がある」
 「当然のことをしただけ」とクローゼ。14年、ブラジルで彼が新記録をつくり、誰もが認める「伝説」となることを期待したい。
 
(2012年11月28日)

No.908 一発勝負の魅力(カレー)

 18日に行われた「J1昇格プレーオフ」準決勝2試合の結果には驚いた。J2で6位だった大分が3位の京都に、そして5位の千葉が4位の横浜FCに、ともに4-0というスコアで勝って23日の決勝戦に進んだのだ。
 「一発勝負」面白さは、当事者にとっては怖さでもある。実力以外の要素、勢いや運といったもので、結果が大きく変わってしまうからだ。
 サッカーという競技は番狂わせが起きやすいと言われるが、99~00シーズンのフランスカップほど番狂わせが連続した大会はないだろう。主役はカレーRUFC。現在は活動を休止しているが、当時はアマチュアの1部、トップリーグから数えると「4部」(日本なら地域リーグ)に当たるリーグ所属だった。
 教師や港湾労働者などで構成されるカレーの名が話題に上るようになったのはフランスカップの10回戦でプロ2部のリールをPK戦で下してから。さらにプロ2部のカンヌもPKで下すと、準々決勝では1部ストラスブールに2-1の勝利。準決勝では前年のリーグチャンピオンであるボルドーから延長戦で3点を奪って3-1で勝ってしまったのだ。
 00年5月7日、決勝戦の舞台はパリのフランス競技場。相手はプロ1部の強豪ナント。だが7万8586人の大観衆にもカレーの選手たちはひるまなかった。前半34分、左CKから執拗(しつよう)に攻め、FWデュティトルが決めて先制する。
 後半、反撃に出るナント。速攻からたちまち同点とする。だがカレーはくじけない。再び勇気をふるって攻勢に出ると、互角以上の展開に持ち込む。そして残り時間が2分を切っても、決勝点を狙って人数をかけてナント陣に攻め込んでいた。
 ボールを奪ったナントがカウンターをかける。カレーの守備陣はよく対応したが、ペナルティーエリア内でナントのFWカベリアが倒れ込んだ。
 明らかなシミュレーション。アマチュアを相手に、プロが恥ずべき行為に走ったのだ。しかしコロンボ主審はPKを宣言。FWシベルスキがゴール中央に決めたとき、時計は89分57秒を示していた。フランス・サッカー史に刻まれるカレーの快進撃は終わった。
 J1昇格プレーオフの決勝戦だけではない。年末から年始にかけて、クラブワールドカップや天皇杯など「一発勝負」の大会が次々と開催される。サッカーが持つもうひとつの魅力を、予断をもたずに楽しみたい。
 
(2012年11月21日)

No.907 J2を活性化する昇格プレーオフ

 11月11日のJ2(Jリーグ2部)最終節はまさに激動の一日。この日の試合結果により、なんと2位から6位の5チームもの順位が入れ替わるという激しさだったのだ。
 町田ゼルビアに3-0で勝った湘南ベルマーレが、アビスパ福岡と0-0で引き分けた京都サンガを抜いて2位に上がり、J1への昇格が決まった。3位となった京都は「J1昇格プレーオフ」に出場することになった。
 J1からの降格は3チーム。昨年まではJ2の3位までが自動的に昇格していたが、ことしから自動昇格は上位2チームだけ。残るひとつの座は3~6位の4チームによる勝ち抜き方式の「昇格プレーオフ」で争われる。
 その「準決勝」は18日、3位京都対6位大分トリニータと4位横浜FC対5位ジェフ千葉。上位チームのホームで行われる1戦制だ。そして「決勝」は23日、舞台は東京の国立競技場。準決勝、決勝とも同点の場合には延長戦はなく、上位チームの勝ちとなる。
 こうした3~6位の昇格プレーオフは89年にイングランドで始められ、05年からイタリアが追随するなど、欧州で徐々に広がり始めている。Jリーグもそれにならった形だ。
 3月から11月まで42試合も戦って最終的に得た「3位」という成績が即昇格には結びつかなかった京都は、無念に違いない。しかし私は、このプレーオフにはそれほど不公平さを感じない。
 2位の座をめぐって、そして6位までにはいることを目指して争われたJ2の今季終盤の熱気は、3位チームの嘆きを補って余りあるものだった。これまであまり注目されず、ともすれば女子のなでしこリーグよりメディアの扱いが小さかったJ2というプロリーグに、新しい生命力を与えたようにさえ感じるのだ。
 プレミアリーグ昇格の最後の1枠を争ったことしのイングランドのプレーオフは、ウェストハム対ブラックプール。ウェストハムは2位と勝ち点差わずか2で、4位には10勝ち点差と大きく水を空けていたが、ルールを受け入れてプレーオフに出場、決勝では後半42分に勝ち越し点を挙げて昇格を勝ち取った。
 このプレーオフ決勝はロンドンのウェンブリースタジアムで開催され、毎年約8万人の観客を集めるという。シーズンの終わりを飾るFAカップ決勝と並ぶ5月のビッグゲームとなっているのだ。
 日本のプレーオフもそんな試合に成長できるだろうか。
 
(2012年11月14日)

No.906  女子サッカー発展を支えた千野圭一さん

 1982年から98年まで「週刊サッカーマガジン」(ベースボールマガジン社)の編集長を務めた千野圭一さんが、10月31日深夜に亡くなられた。
 1954年生まれ。58年間の生涯は短すぎる。だが日本のサッカーに多くのタネをまき、その成長を確認できた16年間の編集長生活は、本当に充実したものだっただろう。なかでも女子サッカーの発展は、彼の報道の立場からの支援を抜きに考えることはできない。
 彼の前任者は、まだよちよち歩きの女子サッカーを専門誌に取り上げる必要性を認めなかった。しかし千野さんはひとり「女子サッカーのページ」をつくることを主張して譲らなかった。
 興味本位ではない。サッカーに対する女子選手たちの真摯(しんし)な姿勢に打たれ、心から応援しようと思ったのだ。「女子」としてではなく、「サッカー選手」、「サッカーチーム」として扱った。
 81年、女子日本代表が誕生した年に東京で行われたイタリア戦に出場した大原智子さんは、試合直後に千野さんからこう言われた。
 「大原さん、これはサッカーじゃなかったね。相手のケツばかり追い掛けているようじゃだめだよ」
 0-9で大敗し、号泣している選手に、追い打ちをかけるような言葉。「正直、きつかった」と大原さん。
 しかしなぜか冷静になれた。そのとおりだと思った。
 かなり後になって、千野さんの言葉が、フェアに、そして偏見なく、ただのサッカーとして自分たちの試合を見て評価してくれた、本物の愛情であったことが理解できたという。女子サッカーに対する千野さんのスタンスは、その後もまったく変わらなかった。
 長い間、女子サッカーは報道の対象にすらならなかった。しかし千野さんは女子の動向を伝え、指導者や選手たちを支援し続けた。
 菅平高原で「サッカーマガジン杯」の大会が始まったときにも、強引に女子部門を入れた。ことし第25回を迎え、いまや80を超すチームが参加するこの大会が女子サッカーの普及と発展に果たした役割は小さくない。
 その千野さんを心から喜ばせたのは、昨夏の女子ワールドカップ優勝だった。04年以来相次ぐ大病に襲われ、自宅療養を余儀なくされていた千野さんだったが、深夜の中継を熱心に見ていたという。
 日本の女子サッカーが今日の姿を迎えた陰に、千野さんの大きなサポートがあったことを感謝して、追悼の言葉としたい。
 
(2012年11月7日) 

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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