レフェリーたちはそれを「儀式」と呼んでいる―。コーナーキック(CK)の前、ゴール前での、守備側と攻撃側の選手の醜い争いと、それによって必要となる主審の仕事だ。
守備側がCKをゾーンで守る場合にはこのようなことは少ないが、マンツーマンで守るチームでは毎回と言っていいほどこうしたいさかいが起こる。
少しでもいいポジションを取ろうとする攻撃側。守備側はマークを外されまいと、手で押さえ、つかみ、相手の動きを妨害する。
ここで「儀式」が始まる。主審が笛を吹いてCKがけられるのを止め、目に余る行為をしているひと組を呼んで「離れなさい」と注意するのだ。だがポジションに戻るとそのふたりは争いを再開し、他の選手たちもつかみ合いをしているうちにCKがけられる...。
シーズン開幕前、Jリーグの村井満チェアマンは「3つの約束」を口にした。そのひとつが「リスタートを早くする」だった。
サッカーの試合時間は90分間ということになっているが、実際にはその3分の1以上、プレーが止まっている状態(ボールが外に出たり笛で止められてからFKなどが行われる間など)がある。実際にプレーが動いている時間を「アクチュアルタイム」と呼び、Jリーグはそれをなんとか60分にしたいと言う。
各チームの努力もあり、J1では第8節までの72試合中25試合で60分間を超えた。第1節のG大阪×浦和は66分18秒もあった。1試合平均57分24秒。昨年1シーズンの平均を1分41秒上回っている。だがその一方で、46分21秒(第6節のFC東京×鳥栖)という試合もあった。
CKについては、ボールが出てからけられるまでの平均時間は第8節までのJ1で31.4秒だった。私がかつて調べたワールドカップの試合では平均20秒を切っていた。まだまだ努力が必要だ。
どのチームもCKのキッカーはあらかじめ決められている。CKになったらすぐに走っていってほしい(ほとんどの選手は歩いていく)。そして何よりもゴール前の見苦しい争いをなくし、「儀式」を不要にしてほしい。
Jリーグでは1試合平均約10本のCKがある。これを20秒平均でければ、1分半以上もアクチュアルタイムが伸びることになる。
CKのたびに繰り返される「儀式」を見ると、つかみ合いなどがあった場合にはそのふたりをCKが終わるまで外に出すなどの罰則も必要ではないかとさえ思えてしまうのだ。
(2014年4月30日)
ワールドカップ・ブラジル大会の日本代表発表(5月12日)まで3週間。ザッケローニ監督は精力的に欧州を回り、Jリーグでは候補選手たちの奮闘が続いている。誰が23人にはいるのか、最後まで予断は許さない。
だがワールドカップ代表メンバーは「人気投票」ではないし、実力順に選ばれるわけでもない。決勝まで進めば合宿入りから50日間以上をともに過ごすことになるチーム。あらゆることを想定に入れてこの長期間を戦い抜くことのできる集団をどうつくるか、監督の考えが反映される。
基本的には、GK3人(大会規約で決められている)とフィールドプレーヤー20人。1ポジションに2人ということになる。しかしそれだけでは戦い抜くことはできない。
今月はじめに世界大会制覇を成し遂げたU-17日本女子代表(リトルなでしこ)は、決勝までの6試合で登録した21人の全選手にプレー機会を与えたが、ワールドカップではそうはいかない。出場機会に恵まれない選手も当然出てくる。そうした選手が練習や合宿生活でどんな態度をとるかが、チームの士気に大きく影響する。
2002大会では、トルシエ監督がFW中山雅史(当時34歳)とDF秋田豊(31歳)を23人のなかに含めた。ほとんど出番はなかったものの、ふたりは練習で常に大きな声を出してけん引車となり、明るく前向きな雰囲気をつくって大きな役割を果たした。
2010年大会では岡田武史監督がメンバーにGK川口能活を加えて衝撃を与えた。普通なら3人のGKの名を挙げるだけのはずだが、はっきりと発表時に「第3GK」と指定したからだ。
当時34歳の川口は、1998年から3大会連続出場してきた経験豊富な選手だったが、前年9月に右足を骨折し、この年には所属の磐田で1試合も出場していなかった。しかし岡田監督はすでにプレーできる状態であることを磐田に確認し、川口のキャラクターを買って23人のなかで出場の可能性が最も低い「第3GK」に指名したのだ。好成績のバックボーンに川口の存在があったのは間違いない。
2011年のアジアカップ優勝時に、出場機会のなかったDF森脇良太が明るく前向きの姿勢を貫いたことをザッケローニ監督は高く評価した。当然、中山、秋田、川口らがかつてワールドカップで果たした立場への理解はあるはずだ。ではブラジルでは誰がその役割を果たすのか―。私はそこに注目している。
(2014年4月23日)
先週末のJリーグで最大の衝撃は、Jリーグ2部、J2の湘南ベルマーレだった。
J2第7節。湘南は千葉と対戦し、6-0で勝った。J1昇格へのライバルのひとつと見られる千葉に対し、アウェーにもかかわらずシュート数で29対7と圧倒し、千葉の鈴木淳監督も「完敗」を認めざるをえなかった。
これで開幕から7連勝。だが曺貴裁(ちょう・きじぇ)監督は、選手たちの「サッカーに真摯に取り組んで自分たちがやれることを百パーセントやる姿勢」はほめながらも、「昨年、J1で負け続け、残留できなかった悔しさを晴らすには、まだまだやらなければならないことが多い」と引き締める。
千葉の鈴木監督が認めたのは攻守の切り替えの速さの差。ボールを奪われてから守備にはいる湘南の速さ、ボールを奪ってから攻撃に移る速さは、J1でも見ることのできないものがある。そのうえに、「ここ」と見るとチーム全員が迷わず全力疾走する。その繰り返しも走る距離も、まったく気にしない。
6得点のなかでも衝撃的だったのは、前半28分の2点目だ。ペナルティーエリアの左でMF菊池大介がボールをもつと、FW武富孝介が外側を抜いてダッシュ。タイミングを逃さず菊池からパスが出ると、武富がファーポストにクロス。そこにはFW大槻周平がポジションをとり、左足ボレーでシュートしようと身構えていた。
右外から突然MF宇佐美宏和が全速で走り込んできたのはそのときだった。走り込んだスピードを高い跳躍に結びつけると、強烈なヘディングシュートを叩き込んだのだ。
以前サガン鳥栖の尹晶煥(ゆん・じょんふぁん)監督と話したことを思い出した。鳥栖のサッカーが攻撃的かどうかという話だ。
私は攻撃的と評したのだが、尹監督は「みんな守備的だと言う」と苦笑いした。
たしかに、鳥栖は守るときには全員が引いて相手の攻撃をはね返す。しかしいったん攻撃に移ると、4人も5人もが80メートルも全力で駆け上がり、クロスがはいるときには相手ペナルティーエリアに殺到している。この献身、恐れを知らない情熱こそ、「攻撃的」と呼ぶべきものだ。
元U-19日本代表のMF菊池、現U-21日本代表のDF遠藤航など、将来を嘱望される若手もいるが、大半は無名選手の湘南。しかし曺監督の哲学が浸透し、いま湘南の選手たちは、自分たちの生きざまを、90分間という限りある試合時間のなかで表現しきっているようにさえ見える。
(2014年4月14日)
ワールドカップ・ブラジル大会開幕まであと64日。スタジアム完成は時間との競争になってきたが、主役であるブラジル代表の合宿所は余裕をもって大改装が完了した。
大会中ブラジル代表が暮らすのは、リオデジャネイロから北へ50キロほどのテレゾポリスという町。ブラジル・サッカー協会のトレーニングセンターだ。
4面のサッカーグラウンドと高級ホテルのような宿泊施設。パイプオルガンを思わせる奇峰が並ぶ「オルガン山脈国立公園」のふもと、標高870メートルの高原の町だ。ここを拠点に、「カナリア軍団」はサンパウロ、フォルタレザ、そしてブラジリアへと出掛けていって1次リーグを戦う。
さて、わが日本代表がサンパウロ州のイトゥをキャンプ地に選んだのは、小さからぬ驚きだった。初戦はレシフェ、第2戦はナタル。ブラジル北東部の海に面した町での試合が続いた後、第3戦はクイアバ。3会場とも6月の平均気温は25度を超す。当然、キャンプ地は北東部になると考えていたからだ。
イトゥはサンパウロ州の都市で、6月の平均気温は15度程度。余談ながらイトゥを本拠とするサッカークラブ「イトゥアノ」は、東京ガス時代から12年にわたってFC東京の攻撃を牽引した「キング・オブ・トーキョー」アマラオが20代の前半にプロとして飛躍したクラブである。
だがイトゥは3つの試合会場と気候がかなり違ううえ、レシフェとナタルへは2000キロ以上、クイアバへも1400キロもの旅行をしなければならない。
日本と同じC組のギリシャはブラジル東北部のアラカジュを根拠地とする。移動距離は日本の半分以下。しかも試合会場とほぼ同じ気候の下でトレーニングできることになる。
現在の日本代表は、間違いなく日本のサッカー史上最強のチームだ。ワールドカップのベスト8、さらにその先への期待も、夢物語ではない。だがそのためには、すべての準備がチームにプラスになるものでなければならない。無関係な要素を無理に入れて調整に失敗した2006年大会の二の舞いは、断じてあってはならない。
「集中してトレーニングができ、リラックスもできる。近くの空港まで30分で移動できる」と、日本サッカー協会の原博実専務理事はイトゥのメリットを強調しているが、今回のキャンプ地決定に、好成績のため以外の無関係な要素はなかったのか。それが杞憂(きゆう)であることを願わずにはいられない。
(2014年4月9日)
64年前の1950年に開催された最初のブラジルでのワールドカップは、いくつもの伝説で彩られている。
アマチュアのアメリカに敗れた「無冠の王者」イングランド。マラカナン競技場に20万人を集めた最終戦でウルグアイに逆転負けして初優勝を逃した地元ブラジル...。だが最大の伝説は、「裸足でのプレーを認められなかった」という信じ難い理由で棄権したと伝えられるインドだ。
インドは第二次世界大戦直後のアジアのスポーツ大国で、サッカーも強かった。1948年のロンドン五輪では1回戦でフランスと対戦し、1-2で惜敗した。だがセンセーションを巻き起こしたのはインドの強さではなく、選手たちがサッカーシューズをはいていなかったことだった。
といっても素足ではない。足首用のサポーターはつけていた。1947年の独立まで英国の植民地だったインド。サッカーは常にきれいな芝生の上で行われていた。当時の武骨なサッカーシューズをはくより、ボール扱いがたやすい裸足でのプレーを、インドの選手たちは好んだのだ。
インドは1950年ワールドカップにエントリー、やすやすと出場権を獲得した。アジアからの他のエントリー国、ビルマ(現在のミャンマー)、フィリピン、インドネシアがすべて棄権し、予選なしでの決定だった。
5月には組分けも決まり、インドはイタリア、スウェーデン、パラグアイと対戦することになった。だが6月24日の開幕に向け出発を待つばかりだったインド代表チームをショックが襲った。インドサッカー協会が出場辞退を決めたのだ。
組分け抽選時に国際サッカー連盟(FIFA)が出場チームにサッカーシューズ着用義務づけを通達したこともあり、欧州ではインドの辞退は裸足でのプレーを禁じられたことが理由と伝えられた。それが伝説となった。
インド協会は「ブラジルへの渡航費を工面できなかった」と発表した。だが渡航費はFIFAが負担することになっていた。実際には、インド協会が12年ぶりに開催されるワールドカップの価値を認識しておらず、五輪出場だけをターゲットにしていたのだ。
インドは52年のヘルシンキ五輪に出場。シューズをはいたチームはユーゴスラビアに1-10の大差で敗れた。五輪出場は60年ローマ大会まで続き、56年メルボルン大会では4位の好成績を残したが、初出場のチャンスを自ら放棄したワールドカップ出場はまだない。
(2014年4月2日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。