開幕のころ真ん丸だった月が「下弦」を過ぎ、だいぶ細くなってきた。そして賀川浩さん(89)の10回目のワールドカップが終わった。
小柄な賀川さんがリュックを背負い杖をついてスタジアムに現れると、前日本代表監督の岡田武史さんが飛んできた。中学3年の岡田さんがドイツにサッカー留学したいと賀川さんを訪ねて以来、40年になるつきあいだという。
「こんなところまで、本当に見えたんですね」と、岡田さんは目を丸くした。
今大会最年長の取材記者。日本のではない。大会の最年長である。世界中の記者も寄ってきて話を聞き、写真を撮らせてくれと頼む。国際サッカー連盟(FIFA)の公式サイトの取材まで受けた。
「取材にきたのか、取材されにきたのか、わからんな」と、賀川さんは笑った。
戦争から復員して新聞記者になった。だがワールドカップ取材は編集局のトップという重責で思うにまかせず、最初の現地取材は74年の西ドイツ大会。49歳のときだった。
「最初で最後だから」と出掛けていったが、この言葉ほどあてにならないのは、ファンも記者も同じ。以後毎回取材し、雑誌に連載されたその取材記は、サッカー愛にあふれ、日本サッカーの宝と言っていいものとなった。
ところが4年前の南アフリカ大会は、腰を痛め、医師からストップをかけられた。「残る思い」に突き動かされて、ブラジル行きを決意。ただ、6月19日の日本×ギリシャまでの取材とすることにした。
取材を受けると、若い記者たちが古い話をあまりに知らないのが残念だという。
「その国のサッカーの積み重ねのうえに現在のサッカーや代表がある。記者たるもの歴史を学ばないと...」
その歴史を語り継ぐためにも、サッカー記者としての活動はやめられない。賀川さんの「ワールドカップの旅」はまだ終わらない。
(2014年6月22日、ナタル)
開幕まで残り8日。スタジアムが完成するかの話題ばかりのワールドカップ・ブラジル大会だが、私は楽観的だ。ブラジル人には、世界中がやきもきしているのを楽しんでいるフシさえある。
開幕の地はサンパウロ。市域だけで人口1100万、近郊都市圏を含むと2000万を超す南半球最大の都市である。中心部には高層ビルが林立する。
ブラジルの経済を牽引するサンパウロ。この街の人びとは「サンパウロが稼いでリオが遊ぶ」と、勤勉な「市民性」を誇りにするとともに、何事につけ派手に世界の耳目を引くリオデジャネイロに対抗意識を見せる。
1930年の第1回ワールドカップ(ウルグアイ)では、コーチ陣がリオ勢だけなのに怒ったサンパウロのクラブが選手を出さず、リオの選手だけでブラジル代表を組んだ。近年ブラジル代表の大半が欧州でプレーするようになるまで、代表監督の頭痛のタネは、リオとサンパウロから選出する選手数のバランスを取ることだった。
リオに裕福な階層の支持を受けるフルミネンセと大衆層の人気を独占するフラメンゴの2大クラブがあれば、サンパウロではサンパウロFCとコリンチャンスが同じ構図でライバル心を燃やす。
ブラジルのサッカーがまだ揺籃(ようらん)期にあった1910年、英国から名門アマクラブ「コリンシャンズ」が訪れ、圧倒的な強さを見せた。当時のサッカークラブは裕福な階級だけのものだったが、試合を見たサンパウロの5人の労働者が「労働者のためのクラブを」と話し合った。そうして生まれたのが「コリンチャンス」。ブラジルで最も熱いサポーターをもつクラブだ。
そのコリンチャンスの新しいスタジアムこそ、今回の開幕戦会場だ。2万人にも満たないスタジアムしか持たず他クラブのスタジアムを借り歩いていたコリンチャンスが、サンパウロの東郊にようやく夢のホームを持つことができたのだ。
工事の遅ればかり伝えられているが、試合終了後に一挙に列車を走らせられるようにスタジアムを取り巻くように地下鉄3号線の引き込み線がつくられるなど、見事な建設計画であることがわかる。
ワールドカップ時は収容6万1606人。だが大会後にはゴール裏の2階席を外し、4万8000人収容となる。400万人が暮らすサンパウロ東部の再開発の核と位置付けられる施設。コリンチャンスとブラジルサッカーの新しい歴史が、ここで幕を開ける。
(2014年6月4日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。